Chap.1

文字数 2,306文字

 目黒はマンションの一室のドアの前に立った。人に目撃されて怪しまれないよう、屈んだり振り返ったりはしない。
 懐からピッキングツールを取り出す。鍵のタイプはディスクシリンダー錠。最も普及し、防犯能力の低い種類だ。短い深呼吸をして鍵穴にツールを差し込む。頭の中でストップウォッチをスタートさせる。鍵穴の内部、ピンと呼ばれる部分の凹凸が噛み合えば鍵は開く。
 脳内ウォッチが十秒を数えたところで解錠の手ごたえがあった。
「ご苦労さん」
 隣に立つ千川が偉そうな口調でいった。ため息を返してドアを開く。二人で室内に入り、ドアは施錠した。
「家主が来る前にちゃっちゃと検索するか」
 懐中電灯を手にする千川の口調は軽い。
「スナオの依頼、活躍だったらしいな」
 眼鏡に手をやって目黒はいった。
「なんだ、参加したかったのかよ」
 おちょくるような声を無視する。
「前に、皆で焼き肉を食べただろ」
「俺が栃乙女に特上カルビを盗まれたあれか」
「あの帰りに金坂澪がいっていた。共に戦う仲間がいるって素敵ですね、と」
「恥ずかしいことをいう女子大生ランキングがあれば上位間違いなしだな」
 千川はタンスを漁った。
「あの子は仲間か? それとも」
「どうしたどうした。今夜は無駄口が多いぞ」
「……因果を感じる夜だからな」
 引き出しを開けながら答えると、千川がため息をついた。因果の意味はわかっているだろう。
 千川完二と初めて出会った事件の、因果だ。

〈五年前〉

 ――盗んでくれませんか。
 そう依頼され、目黒は盗むべきものを盗んだ。とある夜のことだ。泥棒としてはつまらないが楽な部類だった。自宅へのピッキングも不要だった。軽い「スリ」行為で済んだのだ。赤坂のクラブから出てきたターゲットの男、麻宮のスーツからスマートフォンを抜き取った。面長の顔をアルコールで赤くした麻宮は、ぶつかった目黒を気にもとめない。造作もなかった。
――ピッキングは合格。スリの技術はまぁまぁだ。鍛錬しろよ。
という、萬田玄の言葉が頭に残っている。目黒より五歳上だったが、あどけない笑顔を浮かべる男だった。ピッキングもスリも、萬田が目黒に仕込んだ。あれから腕が上達したのか、すでに死んでいる萬田に訊ねることはできない。
 麻宮からの収穫物を持って、依頼人との待ち合わせ場所の公園に向かった。アメリカンスピリットに火をつけ、待つ。
麻宮のスマートフォンにはロックがかかっていたが、その解除は自分の仕事ではない。あくまで盗んで持ってくることだけだった。
目黒に盗みを頼んだ依頼人は、一時間待っても現れなかった。想定の範囲内ではあった。目黒から連絡をするのは賢明ではない。後日の連絡を待つべきだと判断し、帰途につく。

 翌朝のニュースで、麻宮が何者かに殺されたと知った。
 遺体が発見されたのは、目黒がスマホを盗んだクラブから一キロ圏内の路地裏。コンクリートのブロックで側頭部を殴打されたという。死亡推定時刻は夜の九時半ごろというから、目黒が公園で待ちぼうけを食っている時間だ。
 十数時間前に接触した男が殺されたことへの驚きはあったが、盗んだスマホをどうすべきか、と悩んだ。殺人事件の被害者の持ち物を所持していたくはない。だが、依頼人に渡さず処分はできない。依頼人に渡すのが正解かもわからない。
 善後策を考えながら表の仕事をこなす。
「目黒さん、お願いした資材発注書だけど」
 目黒が勤務する警視庁総務部用度課の先輩が、オフィスに来るなり訊ねてきた。
「終わっています。確認お願いします」
「相変わらず仕事が早いなぁ」
「恐縮です」と真面目くさって答えた。
 行政職員、要するに警察署勤務だが警察官ではない事務職が目黒の仕事だ。仕事はそつなく、目立つことなくこなしている。裏稼業が露見しかけたことは一度もなかった。
 麻宮の事件について情報収集をしたかったが、今はまだ堪えた。一日はあっという間に過ぎる。少々の残業を終えて庁舎を出た。
 依頼人からのメールが届いていた。
〈昨日はごめんなさい。同じ場所で今夜〉
 目黒は返信を打った。
〈彼のニュースを見ましたか?〉
〈ニュースは見ました。驚きましたが、私は無関係です〉
 了解、と返事をして、メールを全て削除した。
 ゆうべの公園に到着する。日は暮れていた。水のない噴水の傍に立ち、昨日と同じようにアメリカンスピリットに火をつけた。
 闇に煙を吐く。その時、背後に空気の乱れを感じ、振り返った。
 頼りない光量の屋外灯の下に、男が立っていた。距離にして十メートル。全く気配に気づかなかった。男は目黒を見据えていた。
「煙草が様になるね」
「だれだ?」
「麻宮の話をしたい人間」
と話しかけながら目黒に歩み寄ってくる。 驚きを表情に出さずに目黒は煙草を指に挟む。どうやら只者ではないようだ。
「麻宮とは?」
「ゆうべ頭をかち割られて死んだ会社員」
「俺は殺してないが」
「おいおい嘘つきは政治家の始まりだよ」
「泥棒、だろ」
「本職の泥棒にいっても効果ないじゃねぇか。泥棒はなんの始まりなんだ? 目黒さん」
 目を瞠った。想像以上に自分の素性を知られている。
「人の物を盗んじゃダメだよ。殺すのはもっとダメ」
 男が乾いた笑い声とともにずかずかと歩き、目黒の眼前に立つ。若い男だ。無造作に伸びた髪、けだるげな表情。ラフなシャツとタイトなデニムに身を包んでいる。シャツにはでかでかとライオンがプリントされていて、目を引く。
「何者だ?」
 目黒が再度問うと男は答えた。
「脅迫屋の、千川完二」
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