第1話 犬と老女と映画館

文字数 6,309文字

 犬は、荒れたアスファルトの路面に細い足をとられないよう慎重に歩いていた。夜道でも犬の暗視できる電子制御の目は人気のない町が見えていた。それでも、ときおり足が割れ目や盛り上がりを踏み、機体が大きく揺れた。
「へたくそ」
 しゃがれた叱責が飛ぶ。
 犬の体は金属だった。中型犬より少し大きいくらいの楕円の機体、蛇腹の首に乗った頭部には赤く光る目が、闇夜のなかガサガサと音を立てて舞う枯れ葉を照らす。耳は頭部にくらべるとわずかな突起でしかない。
「落っこちるじゃないか」
 蛇腹の首につかまり、犬の背で悪態をつくのは小さな老婆だった。何年も手入れされていないような、伸びほうだいの白髪を秋風にゆらしていた。皺だらけの顔にうずもれる白く濁った目は見えているのかいないのか。
「あたしが生きているうちに、はやく【えいがかん】をみつけな。機械のあんたなら、たやすいことだろう」
 途中の寄り道に腹を立てているのだろう。老婆は犬の頭を平手で叩く。かさかさに乾いた手の左薬指には曇った銀の指輪がはめられている。犬を叩いたあと、指を口もとへ寄せ息を吐きかける。老婆の息はすぐに白くなった。冷たい秋の夜風は、擦りきれた毛布で防ぐには心もとない。編み目がほつれた靴下だけで、靴を履いていない足が冷たそうだ。
 三日月はとうに西の山へ沈み、オリオンとシリウスが犬と老婆の頭上にあった。
 犬は地図データを検索した。人工衛星からの電波は微弱ながら、犬に届いた。ナビゲーションシステムは、かつての映画館の位置を教えた。
 道は間違っていない。
 以前は車の往来が絶えない道幅の広い幹線だったろう。その証拠に、道の両側には外壁が剥がれたビルや、割れたショーウィンドウがうつろな口を開けた建物が続いていた。ひび割れたアスファルトからは草が生えてのびているが、今は大半が枯れている。
 犬の体は、宇宙船が着陸したときの衝撃であちこち壊れてしまっている。それでもナビゲーションシステムが使えるのが奇跡みたいなものだ。
 スピーカーは壊れ、音声が出ない。メモリーへのアクセスに障害が発生して、記憶が前後する。それに墜落場所からここまで移動するのに、体内電池をかなり使ってしまった。宇宙船にいるときから、バッテリーの劣化がすすんでいたということもあるのだが。あと一日、もつだろうか。
 人工衛星の電波を頼りに犬は進む。受信する術がない電波が、今も地上に降り注いでいる。日常のほとんどがこわれたのに、営々と続けられているものがあるのは皮肉なことだ。
 犬が地球へ帰還するまでの七十数年の間に、何が起こったのか。宇宙船への通信は二十年以上前に途絶えていたので知りようがなかった。それでもクルーたちは帰還を望み、誘導などのバックアップのない着陸は、半ば墜落としか呼べないものだった。
 墜落のありさまをロードすると、犬の目の中にはノイズが走る。ジジジと画像がぶれ、ヒトだった自分を犬の体におしこめた連中がバラバラに砕けていく様に溜飲が下りる。
生身の体だったなら、思い出し笑いのひとつも出るだろうが、あいにくと犬は機械だ。
見あげると漆黒の闇に浮かぶ、遠くの雲が赤く照らされている。そこには人が集まっているのだ。老婆に会うまえ、犬は街のそばを通ったときに目にした。十数機の風車と陽射しに光る太陽光パネルを。
 あの場所は特権階級が社会を作り、電気やエネルギーを独占しているようだ。地上にはそんな場所がいくつもあるようだった。きっと生き残った連中で、いまだに抗争が続いているんだろう。少ないものを互いに分かち合い、いたわり生きていくなんて無理なのだ。
 老婆が生き長らえたのは何も持たなかったからだろう。力も若さも何もない。しかし、そのため誰にも顧みられなかった。ただ一人、崩れかけた廃屋でごみに埋もれるようにしていた。
丸い窓から月の明りだけが入る部屋に老婆はいた。ボロ布を被ってベッドにうずくまっているのを犬が見つけたのだ。老婆は犬に怯えるどころか、勝手に入って来たことを怒鳴った。
 口こそ達者だけれど、皮が貼りついた骨ばった手足も、肉が削げ落ちて青ざめた顔色も、老婆がもう長くないことを知らせていた。老婆が、犬が機械だと理解したとき、ひとつの命令を発した。
 ――わたしを、【えいがかん】へ連れていけ。
 犬は老婆の最後の望みに応えようと決めた。
 犬はかつて地球から送り出された宇宙探索船の乗組員だった。移住可能な惑星を探索に出航した五艘のうちの一つ。地球へ帰還した船はあっただろうか。
 少なくとも、新天地を見つけられた船はなかったのだろう。
 七十年以上前に地球を離れたのだが、長い航海の間に事故で体を失い犬型ロボットに記憶を移植された。
 犬には時々、人だったときの記憶がロードされる。
『人型のアンドロイドに移植した連中はみんな、ちゃくりくのときにコワれた』
 犬の体は胴体に足も首も格納することができた。足と首をすべてしまうと、丸みを帯びた胴体だけになる。楕円の金属は、宇宙船がほとんど四散した着陸にも耐えた。
『おれのハダがきいろいからって、奴らはおれをイヌにいれた』
 犬が乗った船は、クルーは白人ばかりで唯一の有色人種は犬だけだった。
 人口爆発による食料とエネルギーの危機、それから環境破壊が進み、人口増加と食料供給のバランスは早晩限界を迎えると、AIがはじき出した。
『みんぞくのゆうわ、ぜんじんるい、いっちだんけつ、みなしっぱい』
 地球規模の困難を乗り越えるために、各国から優秀な人材を惑星探索へ乗り出すクルーとして選び、宇宙へと送り出したのだ。
 しかし、地球へ朗報がもたらされることはなかったのだ。
 環境、経済ともに坂を転げ落ちる。各国は軋轢を深めていったのだ。地球から通信が入るたびに、乗組員たちは気をもんだ。
 そして、ある日ふつりと通信は途絶えた。
 華々しく送り出された船を顧みるものがいなくなったのだ。
『シュウネン……だ』
 クルーたちは地球帰還への切望は募り、サポートも何もないままの着陸は失敗に終わった。
 侮辱的だった犬の入れ物だけが皮肉にも残ったこと。犬は愉快に思っていた。我儘な死にかけの老婆を背に乗せることさえ愉快だった。
 なぜあれほど、皆が帰還を望んだのか。
『アイタイ・ヒトガ・イルカラ……』
 アイタイとは何だったのか。犬には思い出せない。思い出せない、自分の名前すら。
 不意に枯草を踏み分ける足音と男の声が複数聞こえた。
 白銀のライトが水平に闇をなでて行く。
「っく」
 老婆が強烈なライトに照らされ、腕で光を遮った。途端に、落胆の声がした。若い男が三人、ライトをかざしてこちらを見ていた。
「女がいたって聞いたから来てみたら、なんだよ、ババアかよ」
 老婆の体が硬くなるのが犬には分かった。
「ババア、ちいせえなあ。腰抜かして座ってんのか」
 ニットのキャップをかぶった男が大股で近づいてくると、老婆が怯えて悲鳴をあげた。その声に男たちはゲラゲラと笑った。
「こんなババア、殴って殺すくらいしか楽しみがねえよ。動画を撮っとけ。変態野郎たちに売ってやろうぜ」
 笑いながら応じた一人が、上着のポケットからビデオカメラを出して構えた。レコーディング中の赤い光りが小型の機体に灯った。
 足の萎えた老婆が逃げられるはずもない。犬はゆっくりと腰をおろし前足をそろえた。老婆が犬の背中を滑り、ひび割れたアスファルトのうえにすべり下りた。
「なんだ? ヘンなのが」
 ニット帽が言い終わらないうちに犬は男に飛びかかった。頭を振りかざして男の鼻に思いきりぶつけた。
 悲鳴とともに血が飛び散った。鼻を押さえて膝をついた男の後頭部を細い足で踏みつけ、ライトを持って固まっている男へと突進する。
「こ、こいつ!」
 とっさの判断だろう。ライトを消されたが犬は暗闇でも平気だ。暗視モードに切り替えられた視界には男たちがはっきり見える。犬の左肩から射出されたワイヤーの先についたフックが男の向こうずねを打つと、ぎゃっと言ったきりうずくまって体をふるわせている。
 カメラを構えた残り一人は、いまだ【撮影中】だったが、カメラを放り捨てると奇声をあげて走り去った。
 置き去りにされた二人は、犬から一刻も早く離れようとするように互いに庇いあいながら、よろよろと去っていった。
 犬は男たちへの興味がすでに消えていた。間一髪でキャッチしたカメラを右肩から伸ばしたアームで持つと電源を切り、腰を抜かしている老婆のもとへと戻った。
「あ、あああ」
 老婆は弱々しく叫ぶと、犬の首に抱きついた。犬の冷えた体に老婆の体温が伝わった。
 犬はまた、老婆を背に乗せて歩き出した。映画館はもうすぐそこだ。破れたアーケードの先に、映画館はあった。半分崩れた外壁に蔦が密生し、秋を迎えた今は乾いた音を立てていた。
 色あせたポスターが貼られたままのエントランスに、蝶番が片方外れた扉を押して入る。
「えいがかん、まだあった」
 かすれた声で老婆はつぶやいて四方を見渡した。
かつてのコーヒースタンドには埃をかぶったカップやグラスがまだ残っていた。
「ジュースとポップコーン、いつも買ってくれた」
老婆がカウンターを指さす。ロビーには売店もあって、端がめくれたまま回転式のラックにパンフレットがささったままだった。
 床には埃が積もっていて、犬があるくと小さな円の足あとがついた。
 劇場へのドアは外れていた。中の天上は半分が落ちていた。しかし、幸いなことにスクリーン用の壁はひび割れながらも残っていた。
 犬は老女がスクリーンの正面に座れるよう、瓦礫が落ちていない席を探して座らせた。
 ぽかりと開いた天井は月が沈んで星だけが輝く。老女は鼻の頭を赤くして、首から下げた小袋の中からステック状の記憶媒体を出した。
 犬は肩からアームを出してそれを受け取った。
 犬はずっと考えていた。映画館へ行きたいという老婆の願いはかなえてやれるだろうけれど、メモリーを再生させるにはどうしたらいいかと。
 老女の持つメモリーは、家庭用のものだった。とうぜん映画館の映写機では再生できないだろう。途中にあった家電量販店ものぞいたけれど、品物はとっくに持ち去られた後でゴミしかなかった。だから、あの男たちが小型のムービーカメラを持っていて幸いだった。
 犬はアームを使ってビデオカメラ内のメモリーを捨て、老婆のメモリーに換えた。ビデオカメラがメモリーを認識して青いランプを光らせた。どうにか再生できそうだ……ただバッテリーの残量は心もとない。すべてを老婆に見せられるだろうか。
 犬は老婆の後ろの席の背に乗り、レンズをスクリーンに向けて再生ボタンを押した。
 スクリーンが白く光りだした。
 小さな影が動いている。何かの歌が切れ切れに聞こえる。データが壊れているのだろう。三歳くらいの女の子が、たどたどしく踊っている。額に金色の紙で作られた、星の冠をつけて。時おり聞こえるメロディーから、七夕の歌らしいと犬は気づいた。
 女性が女の子をほめている。じょうず、じょうず、と。音声は気まぐれに途切れる。声の女性が撮影しているらしい。幼女はカメラに向かって満面の笑みを浮かべ、もみじのような手を振る。
 老婆は食い入るように画面を見つめている。
 この子どもは、老婆だろうか。そうだとしたら、もう六・七十年前のものだろう。よくデータが残っていたものだ。
 データは冒頭の動画以外は、画像のみらしかった。
赤ん坊が白いおくるみに包まれ、ベッドに寝かされている。その次は、哺乳瓶をくわえている。小さな手を哺乳瓶に添えるようにしてあるのが愛らしい。それから、ハイハイをする姿。
 赤ん坊は成長する。つかまり立ち、一人で庭に立っていたかと思うと、次にはボールで遊んでいる。そして、先の星をつけて踊っている集合写真。おそらくは、保育園か託児所の発表会だろうか。 
 どの画像にも華美な服装はない。誕生日らしき画像には、これといったご馳走も写っていない。
 けれど、女の子はいずれも笑っている。カメラに向けるのは、安心しきった笑顔ばかりだ。
 犬は妙な気持ちになっていった。なぜだろう、初めて見るのに以前見たことがあるような気がする。記憶の混乱だろうか。
 子どもは少女になる。ブレザーの制服、長い髪をポニーテールに結って校門の前に立つ。
 顔の輪郭、目の形。どこかに覚えがある。
 老婆は低く嗚咽をもらし、鼻をかんだ。
「母さんが写してばかりだから……」
 画面にいるのは、いつも一人だ。二人きりの家族だったのだろうか。父親はいなかったのだろうか。
 画像が何枚も変わる。少女は年を重ね、大人になる。
「かあさん……!」
 突然、画面に別の女性が映し出された。椅子に腰かける白髪のショートボブの老女だ。ひざ掛けは彼女の手編みらしい。手前に毛糸を盛った籠が見えた。
 丸い窓から、緑の枝葉が見えた。
 瞬間、犬は画面にくぎ付けになった。
 ……花の名前にしましょう。
 女性のささやくような声とともに、犬の記憶が一気に甦る。
 ……花の名前にしたら、わたしたち家族ってわかるわ。枝に、葉に……。

 犬は解き放たれロードされる記憶に処理が追い付かなかった。
 飛行士に選抜されてから出発までの短い日々。恋人から妊娠を告げられ、丸窓のある家で形ばかりの指輪の交換をし、船に乗り込んだこと。
 栄誉ある飛行士に任命され、出発前の華やかな場を味わうごとに、犬はおごった。そして恋人をろくに顧みなくなっていった。
 写真と思っていた画像が動き出して、こちらを見た。目じりの皴が長い時が過ぎたことを知らせる。ゆっくりと口が動き、名前を呼んだ。

【さくら】と。

 花の名前にしましょう。わたしの名前とあなたの名前。一枝(イチエ)と葉介(ヨウスケ)。そして二人のあいだに花が咲くのよ。

「かあさん、かあさん……」
 老女は子どものように泣いた。夜明け前の冷え込みは強まるばかりだ。外気が老女の体力を一気に奪っていく。老女の声はふるえていた。
 カメラのバッテリーのランプが赤く点滅した。電力の残りがわずかなのだ。犬は急遽、自分の電源をカメラにつなげた。上映は続行される。
 犬は思い出した。
 なぜ、老女の家を訪ねたのか。船の墜落場所からもう充電はできないというのに、何日も何日も歩いたのか。壊れかけのナビゲーションシステムを頼りに、わずかな記憶の指し示すほうへ行ったのか。

 アイタイ ヒトガ イルカラ……

 とぎれとぎれだった記憶が、次々に繋がっていく。シナプスがメモリーの中で炸裂しそうな勢いだ。
 壊れた記憶が修復されていく。犬……葉介が不在の時間が映し出される。
 二人きりの家族、過ぎていく時。ベッドに横たわるかつての恋人。
 画面が切り替わり、生まれたての赤ん坊と顔を寄せ合う二人が映し出された。上気して
バラ色の頬の恋人は、目を潤ませている。生まれたての娘は母親の小指を握りしめている。
  
 いつしか小鳥の声か聞こえ始めた。夜明けの光が徐々にスクリーンの画像を淡くさせる。葉介のバッテリーもまた使い果たされていく。ぼやけていく画面と反して葉介の記憶は鮮明になっていった。
 やがて朝の白い輝きに画面は消えていく。
「かあさん」
 ささやくような声を最後に、老女の首は静かに傾いた。
 葉介のエネルギーの消失とともに、スクリーンはまた白壁と戻っていった。
 崩れて蔦のからまる映画館の椅子には、老婆と機械の犬がいた。
 二人きりの上映会は終わりを告げたのだ。
 朝日に照らされ、老婆と犬の影はスクリーンでひっそりと重なっていた。

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