1. 迷い羊
文字数 3,407文字
朝早く、外から妹のタマルの呼ぶ声が聞こえてきた。
ナザレの近く野では、雨季も終わって暖かくなったニサンの月(3ー4月)から羊飼いたちが放牧を始めている。青草のある牧草地を求めて群れを連れながら、野宿を続けているのだ。久しぶりに野に出られるのがうれしいのか、この時期迷い羊がちょくちょく村に入ってきたりする。はぐれるのはたいてい、群れの団体行動にまだ馴染まない仔羊だ。
タマルは羊飼いの首根っこを捕まえて、なんとか家の方に引っ張ってこようとしている。仔羊が全力でイヤイヤしているので、力比べみたいになってる。タマルは何かと直情的なので、投げる球はたいてい直球なの。根はとっっっても、いい子なのよ。ただ、まだちょっと人間や動物の心が見えていないだけなの。きっと。
あたしは地面から草を何本かむしると、子羊の口元に持って行った。
餌で仔羊の気を引きながら、家の方に徐々に子羊を導いて行く。
ほどなくして、野から羊飼いの青年がナザレの村にやってきた。案の定、仔羊が1匹いなくなったらしい。村の人たち何人かに「うちで仔羊を1匹預かっています。もし羊飼いの方が来たら案内してください」と言付けしておいたので、青年はすぐにうちにやってきた。
母が真っ先に迎えに出る。
旅人をもてなすのは、あたしたちの社会での礼儀なんだ。どんなに貧しくても、自分が持っているものは気前よく分かち合う。なぜって? ここの自然環境はとっても厳しいの。だから、もてなさないと旅人は死んでしまうかもしれないでしょ?
ここナザレ村くらい川や湖も近くて、そこそこ作物も取れる緑の多い地域ならばいざ知らず、荒野や砂漠などは命に関わる可能性があるの。そしてあたしたちも旅をするときには、その地の住人たちにもてなしてもらうんだよ。そうしてお互いに助け合うのは、この地で生き残るための知恵なんだ。
「お心遣いありがとうございます。せっかくですが、仲間が待っています。一刻も早く帰って仔羊の無事を知らせて、目的の牧草地まで移動したいのです。大変ありがたいお申し出ですが…お気持ちだけ受け取らせて頂きます」
母さんがこう言うのは、羊飼いの一般的な評判は本当に、本当に悪いからだ。彼らはよく盗みを働く。教育も十分に受けていないことも多い。「嘘つき」って評判もあって、そのせいかどうか知らないけれど、法廷では証言させてもらうことすらできないって父さんが言ってた。
そして何より、アドナイ様(=創造主)への礼拝を大切にしているあたしたちユダヤ民族にとって、とってもとっても大切な、週1度の安息日(礼拝)や、毎年のエルサレム神殿でのお祭りに参加できないの。それを、「宗教的な決まりを守れない奴らは不敬虔な輩だ、けしからん」みたいな風に言われちゃってるみたい。
でも、羊飼いさんたちは野に出て羊たちの世話をしなければならないでしょ? だから宗教的な決まりの一部は事実上、守れないのも仕方ないことなの。なのに、そんな風に言われちゃうのは、あんまりだと思うんだけどな。
母さんがやっと私たちを呼んでくれたので、仔羊と一緒に玄関の方へ出て行った。
名前、ついてるんだ。羊たち全部に?!
それにしても、マシロンって「まっしろ」だから、なのかなあ…? マシロンと呼ばれた仔羊は、ヨナタンの声を聞くと「メエェ~」と鳴きながら自分からトコトコと彼に歩み寄った。
タマルが母の服の裾を掴みながら、興奮気味に騒いでいる。
タマルの声がひっくりかえる。…声は出さなかったけれど、あたしもびっくりした…。
「はい、それはもう。なにしろ大切な大切な羊たちですから…。羊たちは私たち羊飼いが守って導いてあげないと生きていけないんです。そして、私たち羊飼いも、羊たちなしでは生きていけない…。お互いに切っても切れない関係にあるのですよ」
家畜は貴重な財産だ。だけど羊飼いさんたちにとって、羊は財産以上の大切な存在なんだ…。知らなかったな。
「いえいえ、いいんですよ。気にしなくて。困った時はお互い様でしょう。アドナイ様もこう命じてらっしゃいますわ。『あなたの同族の者の家畜が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。持ち主のところへそれを連れ戻さなければならない。もし誰の家畜かわからないなら、それを自分の家に置いて、彼に返しなさい』とね」
母がそう急かすと、ヨナタンと名乗る羊飼いは丁寧に礼をして、仔羊を肩にかかえると、まるで雌鹿のような素早さで野へと駆けて行った。
ほぅ、とタマルがため息をつく。12歳と言えば、そろそろ結婚を意識するお年頃だ。
母さんが頰に手を当てて本気で残念がっている。相当気に入られたらしい。
母さんとタマルが意気投合してる。あたしにはいいなづけのヨセフがいるから、いいんだもん。