1. 迷い羊

文字数 3,407文字

 朝早く、外から妹のタマルの呼ぶ声が聞こえてきた。


「お姉ちゃーん!迷い羊!早く来てー!」

「えっ?大変!どこの羊さんだろう。」

 ナザレの近く野では、雨季も終わって暖かくなったニサンの月(3ー4月)から羊飼いたちが放牧を始めている。青草のある牧草地を求めて群れを連れながら、野宿を続けているのだ。久しぶりに野に出られるのがうれしいのか、この時期迷い羊がちょくちょく村に入ってきたりする。はぐれるのはたいてい、群れの団体行動にまだ馴染まない仔羊だ。


「おねーちゃん、早く早く!ああ、いい子だから、こっちに来なさいってば!飼い主が探しにくるまで安全な場所に置いてあげるんだってば!もーぉ!言うこと聞きなさいっ!こらーぁ!」


 タマルは羊飼いの首根っこを捕まえて、なんとか家の方に引っ張ってこようとしている。仔羊が全力でイヤイヤしているので、力比べみたいになってる。タマルは何かと直情的なので、投げる球はたいてい直球なの。根はとっっっても、いい子なのよ。ただ、まだちょっと人間や動物の心が見えていないだけなの。きっと。


「そうじゃないのよ、タマル。無理やりひっぱったら、人間だって嫌でしょう?こうするのよ。」

 あたしは地面から草を何本かむしると、子羊の口元に持って行った。

「ほーらほら、おいしいでしょ。そうそう、こっちよー」


 餌で仔羊の気を引きながら、家の方に徐々に子羊を導いて行く。

「ああー、そうやればいいのかー。なるほどぉ。お姉ちゃん、上手だねえ。すごいなあ」


「ふふふ、タマルはきっと優しくて、早くなんとかしてあげなきゃ、って焦っちゃうのかしらね?」

「うーん、どうだろ。少なくともお姉ちゃんみたいに落ち着いてられないかなあ」


「相手がどうしてほしいのかな?って考えると、どうしたらいいのかわかるかもしれないわよ」


「うーん、お姉ちゃんには勝てる気がしないよ、ほんと。でも、ありがと」










 ほどなくして、野から羊飼いの青年がナザレの村にやってきた。案の定、仔羊が1匹いなくなったらしい。村の人たち何人かに「うちで仔羊を1匹預かっています。もし羊飼いの方が来たら案内してください」と言付けしておいたので、青年はすぐにうちにやってきた。


「シャローム!ごめんください。こちらで、迷い仔羊を預かって頂いていると聞きまして」


 母が真っ先に迎えに出る。

「まあま、羊飼いの方、どうぞこちらへ。何もない所ですが、どうぞお上りください」


 旅人をもてなすのは、あたしたちの社会での礼儀なんだ。どんなに貧しくても、自分が持っているものは気前よく分かち合う。なぜって? ここの自然環境はとっても厳しいの。だから、もてなさないと旅人は死んでしまうかもしれないでしょ? 


 ここナザレ村くらい川や湖も近くて、そこそこ作物も取れる緑の多い地域ならばいざ知らず、荒野や砂漠などは命に関わる可能性があるの。そしてあたしたちも旅をするときには、その地の住人たちにもてなしてもらうんだよ。そうしてお互いに助け合うのは、この地で生き残るための知恵なんだ。


「お心遣いありがとうございます。せっかくですが、仲間が待っています。一刻も早く帰って仔羊の無事を知らせて、目的の牧草地まで移動したいのです。大変ありがたいお申し出ですが…お気持ちだけ受け取らせて頂きます」


「まあま、ずいぶん律儀で礼儀正しい羊飼いさんなのね。…羊飼いを生業とする方々が、みんなあなたのような方だったら、人々の羊飼いに対する偏見も、もっとましになるでしょうに…。」


 母さんがこう言うのは、羊飼いの一般的な評判は本当に、本当に悪いからだ。彼らはよく盗みを働く。教育も十分に受けていないことも多い。「嘘つき」って評判もあって、そのせいかどうか知らないけれど、法廷では証言させてもらうことすらできないって父さんが言ってた。




 そして何より、アドナイ様(=創造主)への礼拝を大切にしているあたしたちユダヤ民族にとって、とってもとっても大切な、週1度の安息日(礼拝)や、毎年のエルサレム神殿でのお祭りに参加できないの。それを、「宗教的な決まりを守れない奴らは不敬虔な輩だ、けしからん」みたいな風に言われちゃってるみたい。


 でも、羊飼いさんたちは野に出て羊たちの世話をしなければならないでしょ? だから宗教的な決まりの一部は事実上、守れないのも仕方ないことなの。なのに、そんな風に言われちゃうのは、あんまりだと思うんだけどな。


「もしよろしかったら、お名前を聞いてもいいかしら?主人が帰ったらぜひ話して聞かせたいわ。」


「もったいないお言葉です…。私、ヨナタンと言います。」


「まあ!あのダビデ王の唯一無二の親友となった、あのヨナタンと同じお名前!?」


「はい、父がヨナタンのファンと言いますか…それで、私にこの名前をつけたらしいのです。」


「もっとお話が聞きたいわ。…もう行かなければならないのですか?」


「はい…私たちの大切な仔羊を保護してくださった方ですから、そうしたい気持ちは山々ですが…申し訳ありません。」


「そうですか…それでは、しょうがないわねえ。マリヤ!タマル!」


 母さんがやっと私たちを呼んでくれたので、仔羊と一緒に玄関の方へ出て行った。


「こちらの仔羊さんで間違いありませんか?」


「おお、マシロン!探したよ。さあ、おいで」

 名前、ついてるんだ。羊たち全部に?!


 それにしても、マシロンって「まっしろ」だから、なのかなあ…? マシロンと呼ばれた仔羊は、ヨナタンの声を聞くと「メエェ~」と鳴きながら自分からトコトコと彼に歩み寄った。


「わ! すっごーい! 羊は飼い主の声を聞き分けるって、本当なんだね! 初めて見た!」

 タマルが母の服の裾を掴みながら、興奮気味に騒いでいる。

「ええ、羊たちは生まれる時から私たち羊飼いと一緒に過ごします。153匹いる羊たち全部に名前をつけているんです。」


「ええー! そんなに名前を覚えてるの?!」

 タマルの声がひっくりかえる。…声は出さなかったけれど、あたしもびっくりした…。

「はい、それはもう。なにしろ大切な大切な羊たちですから…。羊たちは私たち羊飼いが守って導いてあげないと生きていけないんです。そして、私たち羊飼いも、羊たちなしでは生きていけない…。お互いに切っても切れない関係にあるのですよ」


 家畜は貴重な財産だ。だけど羊飼いさんたちにとって、羊は財産以上の大切な存在なんだ…。知らなかったな。

「マシロンを見つけてくださったお礼を、ぜひとも何かしたいとは思うのですが、なにぶん貧しい私たちですので…」

「いえいえ、いいんですよ。気にしなくて。困った時はお互い様でしょう。アドナイ様もこう命じてらっしゃいますわ。『あなたの同族の者の家畜が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。持ち主のところへそれを連れ戻さなければならない。もし誰の家畜かわからないなら、それを自分の家に置いて、彼に返しなさい』とね」


「申命記の教えですね。神を畏れる敬虔なご家族に見つけてもらえて、本当によかった…。アドナイ様には感謝しかありません…」

「さあさ、お仲間の方々がお待ちでしょう。急いでお帰りなさいな!」

 母がそう急かすと、ヨナタンと名乗る羊飼いは丁寧に礼をして、仔羊を肩にかかえると、まるで雌鹿のような素早さで野へと駆けて行った。








「なあんか、すてきなお兄ちゃんだったねぇ…」


 ほぅ、とタマルがため息をつく。12歳と言えば、そろそろ結婚を意識するお年頃だ。


「そうね、羊飼いにしておくのがもったいないくらいだわ。あれでもっと、アドナイ様のおきてを守ることができる職についてくれれば、ねぇ…。残念だわ」


 母さんが頰に手を当てて本気で残念がっている。相当気に入られたらしい。


「なんかこう、敬虔なオーラがにじみ出るような人だったよね? よね??」


「まあ、タマル。そんなに気に入ったの?でも、確かに普通の羊飼いじゃなかったわね、あのヨナタンって方…。」


 母さんとタマルが意気投合してる。あたしにはいいなづけのヨセフがいるから、いいんだもん。

「…母さん、お仕事がら、宗教上の義務を守れなくても、アドナイ様は祝福してくださるのかな…?」

「まあまあ、マリヤまで何を言い出すの?あなたはそんなこと心配しなくても、ヨセフというすてきな旦那さまと心と思い、力を尽くしてアドナイ様に精一杯お仕えすればいいのよ。」


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登場人物紹介

ナザレ村のマリヤ。13歳で婚約。主人公。


比較的冷静で、感情や想いは内に秘めるタイプ。

人や動物の気持ちがなんとなくわかる、思いやり娘。

一途な想いは誰にも負けない。

タマル。マリヤの妹、12歳。

お姉ちゃん大好きっ子。

はた目にはぼんやりしているように見えるお姉ちゃんが心配でしょうがない。

あわてんぼうで、よくお姉ちゃんにたしなめられる。お姉ちゃんにはかなわないなーと思っている。

羊飼いヨナタン。イスラエル北部のナザレ村付近で、仲間の羊飼いたちと一緒に153匹の羊の群れを飼っている。

商人エスロン。マリヤとタマルの長旅を助けてくれる、計算高いお兄さん。

天使ガブリエル

マリアとタマルの母。

ヨセフ。マリアのいいなづけ。

マリアの親戚、エリザベツです。主の恵みによって不妊・高齢で男の子を産みます。

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