文字数 3,103文字

 僕は最後まで誘拐された女と会うことに肯定的な返事をしなかったが、朝永は本当にその女を連れてきた。
 朝永に連れられて、旧校舎の屋上に女が現れたとき、僕は彼女に対して「町」の人間だという嫌悪も「学園」の生徒に誘拐されてここにいるという良心の呵責も感じていなかったために、追い返す真似もしなかった。
 屋上の影にいる女は僕の見知らぬ制服を着て、猫っ毛で寝癖のついた髪を短く切り詰めていた。肌は蜃気楼のように白く、女が僕の方に近づいてくると、さらに白い八月の光に塗りつぶされ、白い輪郭に変わった。
「こんにちは。砂川(すなかわ)絹(きぬ)と申します」
 白い輪郭が言った。僕は白い輪郭から発する強い光のせいで、そちらに目を向けることができなかった。
「朝永から聞いていると思うが、桑江(くわえ)英(はなぶさ)だ」僕は滑空機に目を落としたまま言った。「その制服は? 見覚えがないが」
「「町」にある高校の制服です。私はそこに通っているんです」
「ミッション系のお嬢様学校だ。教会が経営している」
「飛行機を作っているんですか?」
 白い輪郭は僕の隣に屈みこんだ。
「飛行機というか、滑空機だ。僕はこいつを弄るのを日課としている」
「なるほど。これで空を飛べるんですか?」
 僕はその質問に対しては何も答えなかった。そのために奇妙な沈黙が宙吊りにされた。ところが白い輪郭は声にも身振りにも疑念を出さず、静かにそこに屈みこんだままだった。まるで八月の白い光の中に完全に飲み込まれて、儚くなったようだった。呼吸の気配も衣擦れの音も聞こえなかった。「町」の人間らしくない、僕はそう思った。
「英さんと呼んでもいいですか? 私の学校では、みんな名前で呼び合うんです」
「別に気にはしないが。けれども僕はあなたのことを砂川と呼ぶ」
「構いません。それで、英さんはなぜ滑空機を作っているんですか?」
「暇潰しだ。「学園」に閉じ込められていると、どうしても手慰みがいる」
「本当にそれだけか? 実はこの滑空機に乗って、「学園」の外に出たいんじゃないか? さらに言えば、「町」の外にも」
 もう一つの白い輪郭が横槍を入れてきた。夏の光線によってその表情には白いベールが被せられていたが、声色には諧謔と侮蔑の調子があった。
「そういう意図はないよ。僕はここから逃げ出すつもりはない」
「お二人はなぜ「学園」に残り続けるんですか? 今なら、出ようと思えば外に出られるのでしょう」
「僕たちは「学園」の外では生きていくことができない。この「学園」の生徒は「町」から追放されたために、ここに閉じ込められている。今更、「町」に戻っても人々から迫害されるだけだ。この騒ぎに乗じて、「学園」の外に出て行った人間もいることは確かだが」
「それならば、「町」のさらに外の世界を見てみたいとは思いませんか?」
 その言葉の調子には、叶うことのない願いを口にするときの諦観があった。僕は黙り込み、白い輪郭がさらに言葉を続けるのを待った。
「「町」の外には本当の平穏があるとは思いませんか? 永遠の英知から与えられる、愛と自由意思があるとは思いませんか?」
「まるで、「町」にはその二つがないような言い方だね。僕は「町」の状況に詳しくはないけれども。物心ついたときには、もうこの「学園」にいたから。朝永からは教会と労働組合が「町」を実質的に支配していると聞いたが」
「「町」は腐敗しています。そしてその元凶は教会です。教会は私たちの父が示した道を外れて、迷妄に陥っています。教会は傲慢と俗世の財産への強欲のために両目に丸太を入れられて、暗き森に迷い込みました。私はずっと教会から、さらには「町」から逃げ出したいと思っていました。私にとって、「学園」は「町」の中にある空白地帯でした。ここは「町」の中にありながら、教会の影響を受けない唯一の場所です」
「「学園」は孤立系というわけか」
 もう一つの白い輪郭が付け加えた。
「だから砂川は「学園」の生徒に協力的なのか? ここが教会の支配から逃れているから。「町」の外へと逃げる代わりに、この「学園」で従順にしているということか?」
「そうです。この「学園」には「町」の序列を正しく配列し直す可能性を持っています。すべての愛の源泉は世界の創造とともに、そこにあるすべての配列もお決めになりました。しかし人間の視力の誤謬がその配列を間違ったものにしています。今、この「学園」が「町」と対立しているのは、人々が正しい道に戻る聖戦です」
「それはあまりにも買い被った解釈だな。僕たちは人倫や秩序のために籠城しているわけではない。もっと刹那的で、感情的な理由からだ。「町」は知性ある人間と知性のない人間に二極化している。砂川は「町」の転換を知性のない人間の革命によって、成し遂げられると思っているようだ。しかしその革命が行われるには、知性のない人間全員への啓蒙と統率者が必要だ。ここにはそのどちらもない」
「英さんの言う啓蒙とは何のことですか?」
「権力の構造に対する理解とその序列の移動の原理に対する知識だ。革命は暴力によって為されてはならない。暴力は感情の激しい発露の一つであり、歴史を伴わない。感情は意識の突発的な変化であり、外部からの力に影響を受けやすいものだ。その反面、人間の信念とは外部から影響を受けにくい意識であり、それゆえに形を変えずに世代から世代へと受け継がれていく。この時間に沿った継承が歴史だ。ところが暴力は感情に支配されているために、時間の流れが不連続だ。歴史のないものは論理や技術を持たない。論理や技術を持たないものは、権力を維持することができない。軍事学や原子爆弾は人間の理性を感情が不当に利用したことによって発明されたものだ。万が一にも「学園」が「町」に勝ったとしても、すぐに僕たちは別の何かに破壊されるだろう。革命は啓蒙の力で獲得した知性によって行わなければならない」
「それならば英さんはこのまま「学園」が「町」に負けるのを黙って見ているのですか?」
「そのとおりだ。ここには啓蒙をなす人間も統率者となる人間もいない。ゆえに革命は成し得ない。僕はこの屋上で滑空機の整備をするだけだ。「学園」が負けたあとのことなど考えていない。僕にとってはこの滑空機が世界のすべてだ。こいつに向き合っているときだけが、僕は組織から個人になる。僕の感情が最も安定するのは、僕が個人であるときだ」
「組織から個人、ですか。個人として独立することは人間として必須の条件だと思います。けれども英さんは滑空機の整備を通じて、自己の内側への埋没という形で個人を維持しています。それは間違った個人の在り方です。人間は放射する光源体から受け取った愛の鏡となり、隣人を照らし出すという形でのみ、生を肯定されます。その生は自己の外側へと向かう個人です。私たちは人と人のあいだにある歳差運動を愛によって動かさなければなりません。そのためには、「町」の外へと逃げ出すしかないのです」
 僕はここで押し黙った。八月の光はますます強くなり、二つの白い輪郭はいよいよ風景に溶け込んだ。すべてが白かった。この女は僕の世界に無許可で踏み込んできた。滑空機、すなわち僕の世界を踏みにじる発言は、これまで朝永ですら一度もしなかった。さらにその踏み込み方は二日前、僕がカウンター・カルチャーに対して行った指摘と同じものだった。明言すれば、僕は砂川絹に殺意を抱いた。
 二つの白い輪郭はいつの間にか屋上からいなくなっていた。すべてが白かった。
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登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

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