第11話 「ブラタモリ」
文字数 1,194文字
単身赴任中というのは基本的に、家族の干渉を受けることがない。特に素晴らしかったのは、テレビのチャンネル、ビデオの録画などについて僕の希望が百パーセント叶う、という点だ。そのため自分の興味を更に追求することができるし、連続ものもリアルタイムにこだわらなければ間違いなく消化できる。正直に告白すると、録画消化のために家族のところへ向かう時間を遅らせたことはある。よそのお姉さんに会うためとかではないので、コソコソする必要は毛頭ないのだが、ちょっと後ろめたい思いもあった。
この頃毎回欠かさず観ていた番組の一つが、NHKの「ブラタモリ」だ。たまに外国もあったが、基本的には日本各地を、地学を絡めて紹介していく番組だと思っている。タモリさんの教養とテツオタ具合とがツボ過ぎて、虜になっていた。あれを観ていると、街における土地の傾斜と水の流れとを意識せざるを得ない。自分のレイアウトがよりリアルなストーリーを持つためには、これらが必須なのだ。そういえば鉄道の線路というのは、生活の場よりも一段高いところを走っていたり、あるいはちょっと低いところを通っていたりしないだろうか? また人が集う場所には、水があるはずなのだ。川や池をレイアウトに作るつもりではいたけれど、このボードの上にそれらしい地形をつくって、列車を走らせたいではないか。
そうなると全く高低差のないボード表面に全レールを固定し、バラストまで撒いてしまったことが悔やまれる。計画的な大人という自信が崩れていく。でも、今からやり直すのか? ちょっとそれも選び難い。ここをこらえて作り続けるのも大人の選択であろう、と自分を説得する。そして少しでも高低差があるように見せるため、紙粘土と薄くカットした発泡スチロールで地形を作り込むことにした。例えば、ボード上に発泡スチロール板をいくつか積む。レールに向く側の斜面は緩く、レールと反対側の斜面は急な傾斜にしておく。なんとなく反対側が深く見え、レールよりも低いところまで落ち込んでいるように思えてくる。あるいは紙粘土で土手を作りレールに川を跨がせる。川は本来ならボード自体を掘り下げて作ることになるのだろうが、形態と着色とで雰囲気を出す。橋は用意していないが、レールそばの柵を周囲と変えて橋に見せかける。
こういう行き当たりばったりな作戦も、やっていくと楽しい。いや、楽し過ぎる。それでいろいろ計画し、対案を出し、更に練るという作業を繰り返す。この間、鉄道模型雑誌のレイアウト特集やユーチューブなどで風景作りの技術を勉強した。小学生時代にこういうものがあったら、もっと上手く作れただろうなあ。そう思いつつ、三十年以上待った自分を褒め称える。そしてユーチューブの動画をあげている人たちも、おそらく夢を叶えた大人であろう、と改めて認識し、この趣味をあたため続けた同志としての連帯を勝手に感じていた。
この頃毎回欠かさず観ていた番組の一つが、NHKの「ブラタモリ」だ。たまに外国もあったが、基本的には日本各地を、地学を絡めて紹介していく番組だと思っている。タモリさんの教養とテツオタ具合とがツボ過ぎて、虜になっていた。あれを観ていると、街における土地の傾斜と水の流れとを意識せざるを得ない。自分のレイアウトがよりリアルなストーリーを持つためには、これらが必須なのだ。そういえば鉄道の線路というのは、生活の場よりも一段高いところを走っていたり、あるいはちょっと低いところを通っていたりしないだろうか? また人が集う場所には、水があるはずなのだ。川や池をレイアウトに作るつもりではいたけれど、このボードの上にそれらしい地形をつくって、列車を走らせたいではないか。
そうなると全く高低差のないボード表面に全レールを固定し、バラストまで撒いてしまったことが悔やまれる。計画的な大人という自信が崩れていく。でも、今からやり直すのか? ちょっとそれも選び難い。ここをこらえて作り続けるのも大人の選択であろう、と自分を説得する。そして少しでも高低差があるように見せるため、紙粘土と薄くカットした発泡スチロールで地形を作り込むことにした。例えば、ボード上に発泡スチロール板をいくつか積む。レールに向く側の斜面は緩く、レールと反対側の斜面は急な傾斜にしておく。なんとなく反対側が深く見え、レールよりも低いところまで落ち込んでいるように思えてくる。あるいは紙粘土で土手を作りレールに川を跨がせる。川は本来ならボード自体を掘り下げて作ることになるのだろうが、形態と着色とで雰囲気を出す。橋は用意していないが、レールそばの柵を周囲と変えて橋に見せかける。
こういう行き当たりばったりな作戦も、やっていくと楽しい。いや、楽し過ぎる。それでいろいろ計画し、対案を出し、更に練るという作業を繰り返す。この間、鉄道模型雑誌のレイアウト特集やユーチューブなどで風景作りの技術を勉強した。小学生時代にこういうものがあったら、もっと上手く作れただろうなあ。そう思いつつ、三十年以上待った自分を褒め称える。そしてユーチューブの動画をあげている人たちも、おそらく夢を叶えた大人であろう、と改めて認識し、この趣味をあたため続けた同志としての連帯を勝手に感じていた。