第1話

文字数 2,032文字

「女性なら、わかるはずだけどね」

 若宮さんの声が静かに響く。
 フルムーンの店内は、先ほどまでの狂騒とはうってかわり静けさに包まれている。顔から血を流している女性の格好をした中年男性が一人、その後ろに立つ背の高い穏やかそうな男が一人、近くには制服が乱れた男性店員が二人と、同じく服が乱れた男性客が二人、さらにそれを囲みお客を守るかのように両手を広げた女性店員が五人、そして怯えた女性客(ボクの彼女も含む)が多数。狂騒を静けさに変えた張本人である若宮さんは中年男性の斜め前の椅子に座り、そしてボクはその後ろに控えていた。



 ことの始まりは一時間ほど前にのぼる。
 休日だったボクは、先月付き合い始めたばかりの彼女に誘われ「フルムーン」という満月をコンセプトにしたカフェに来ていた。レストランで昼食を取る代わりに、ここの甘いパンケーキが食べたいらしい。話題のお店なのだろう。店内は女性客であふれており、ボクらのようなカップルは数組しかいない。

 彼女はお目当ての「フルムーンにフルムーンを」という、一つのお皿へ二人分のパンケーキが盛り飾られたドリンク付きのセットを頼む。「フルムーンにフルムーンを」は月一度、満月の日にだけ提供される特別メニューだ。実は今日、まだ満月ではないのだが、今年は開店三周年記念、開店月ということで、一ヶ月間いつでも頼むことができる。それを頼むと記念品として「月」か「ウサギ」のペンスタンドが一つがついてくるようで、彼女はそれが欲しくてここに来たのだと嬉しそうに教えてくれた。

 彼女が楽しそうに話をしていると、大きなお皿に盛られたパンケーキとともに、彼女が選んだウサギのペンスタンドが運ばれてきた。ボクは彼女のお皿へパンケーキを取り分け、次に自分へ取り分ける。お皿に載ったそれを口にすると、なかなか美味しい。お店の外観や料理の見た目だけで流行っているわけではなさそうだ。料理にまでこだわりがあるのなら、飲み物にもこだわっているかもしれないと思い、ボクはメニューに載っていた単品のミルクティーを追加で頼もうとした――その時。ボクらが座る席とは反対の店の奥で、男性の大きな声が聞こえた。

「私は女よ!!」

「承知いたしております。しかし、お客さま――」

 男性店員の困った声も聞こえる。何か客との間でもめ事が起きたようだ。しばらくすれば収まるかと待っていたが、客の怒りは苛烈になり怒鳴り声が聞こえ始めた。

「ご迷惑をおかけいたしております。警察を呼んでおりますので、もう少しお待ちください。誠に申し訳ございません」

 女性店員たちがテーブルごとに頭を下げて回っていると、今度は物が叩きつけられる音が聞こえた。物を投げるなんて穏やかじゃない。ボクは様子を見に行ってくると彼女に伝え、席を立つ。

「お客さま、落ち着いてください。私どもは、多様な性をお持ちの方のために多目的トイレを――」

「何が多様よ! 馬鹿にして!! 私が女じゃないって言いたいわけっっ!?」

 どうやら大声を上げている人物が多目的トイレではなく、女性用トイレに入ったか入ろうとしたようだ。奥にあるトイレ付近では長いウィッグをかぶり、女性の服を身につけた中年男性が男性従業員二人に囲まれている。

「さわらないでっ! 何で私がこんな目にあわなくちゃいけないのよっっ!!」

 中年男性は、客が避難済みの無人テーブルから水の入ったコップを手に取り、男性店員へと投げつけた。それを男性店員が両手で防いでいるすきに、出入り口のある扉へと足早に向かうが、もう一人の男性店員が立ち塞がる。

「お客さま――」

「どきなさいよ!!」

 男性店員をどかせようと胸ぐらをつかみ、突き飛ばす。扉の前には長い髪をアップにした小柄な女性店員が両手を広げ待ち構えていた。

「お客さま、ここをお通しすることはできかねます」

 女性店員は突き飛ばされる覚悟をしたのか、口を固く結び中年男性へ忠告する。中年男性は自分より小柄な女性店員を鼻で笑い、つかみかかろうとしたのでボクは横からその腕を取った。

「暴力はいけません」

 突然腕をつかまれた中年男性は、驚いた表情でボクを見上げる。つかんだ腕をひねりあげ、「痛い!」と言う声は無視し、多少引きずりながらだが男性店員へと引き渡す。受け取った男性店員は二人がかりで中年男性を拘束をした。
 席に戻ろうと振り返ると、先ほど扉の前にいた女性店員が「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をしてきたので、ボクも頭を下げ「こちらこそ」と言うと、「あっ!」という声が聞こえ、振り向く。

 二人の男性店員は振り払われ、中年男性が扉へと走って行く。イノシシってこんな感じだろうかと見ていると、それを止めに入った男性客が中年男性に突き飛ばされ、さらに次に止めにかかった男性客も吹き飛ばされた。中年男性は扉までたどり着き、店内の誰もが逃げられたと思った、その時――むごい音がした。低く鈍い大きな音と、高い陶器がぶつかったような二つの音だ。
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登場人物紹介

若宮カイ(41)

目明し堂を営む張本人

人嫌いで、大のめんどくさがり屋/なまめかしい雰囲気を漂わせている/いつも寝癖がついている/受けた依頼は、世羅くんを振り回してきっちり解決する、やればできる人

世羅宏(30)

若宮の助手兼、運転手、本業は医師

善良な人間(若宮談)/料理を含む、家事全般が得意/彼女が途切れない/いつも若宮に振り回されてる、ちょっとかわいそうな人

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