老猫は笑う

文字数 3,795文字

 えらく心地がよかった。
 二度寝を決めこんで見た夢のように、名残惜しいものを頭一杯に膨らませながら俺は目覚めてしまった。
 とてもスッキリとした気持ちだったのに――排気ガスと煙草の煙を交互に吸って吐いてしているような、不健康かつ不景気な男の顔がそこにあった。

「敷島さん……俺、わかりますか」

 第一声からなにを言っているんだと思った。
 咄嗟に浮かんだ漢字を喉のあたりでパッと組み合わせて、そいつの名前がこぼれ出た。

「村、田?」
「いえ、田村ですよ。ここ、どこかわかりますか」
「え、」

 真っ白な天井。
 真っ白な壁。
 真っ白なカーテン。

「なんだ」

 夢かこりゃ。

「病院ですよ。竹森工務店の集金行って、敷島さん救急車で運ばれたんですよ。憶えてないんすか」

 なに言ってんだこいつ。

「毒でも盛られたんじゃねえかって、みんなで言ってたんすよ。先月だかも竹森んとこからどっかの金貸しが救急車で運ばれたって、さっき看護婦に聞いたんすよ」
「ちょっと待って」

 竹森工務店?
 集金?

「俺が集金に行って倒れたってことか」

 今そう言っただろ、と田村の表情が歪んだ。

「本当に憶えてないんですか」
「いつだ」
「今日ですよ、十五時に振り込み確認できなかったから飛んでったでしょ」
「竹森ってなんだっけ」

 ダメだ。なんとなく耳に覚えはあるのになんにもまったく画が浮かばない。自分っていう存在そのものに現実感がない。俺はなにをしているんだ。そもそも目の前のこいつは誰だ。なぜスーツを着ている。

「竹森って、建築屋いたでしょう。サッシ屋だったかな。いつも集金行ってたじゃないですか。若い嫁と小さいガキがいて。ほら、五、六歳の女の子」
「女の子?」

 なにか大切なことを忘れている。
 すぐそこまで出てきているのに、いまいちはっきりと像を結ばない。しかし確実になにかある。俺は五、六歳の女の子に忘れちゃいけないなにかがある。

「女の子の名前、わかるか、女の子の名前」
「敷島さん、どうしたんすか、すっげえ顔色悪いですよ」
「いいから、名前だよ」
「いやあ、憶えてないっすね」
「写真もってないか」
「ちょっと」冗談でも聞いたように笑って、「もってるわけないでしょ。なに言ってんすか」

 このまま放っておけない衝動が湧き上がってくる。

「竹森の家知ってるか。いまから集金行こう」
「いまからって、もう二十一時すよ」
「集金できたのかよ」
「いや、少なくとも敷島さんのカバンのなかに現金は入ってなかったですね」
「じゃあ関係ねえよ。集金だ」

 ええー、という声はあげたものの、田村はポケットから車のキーを取り出して、指に引っかけくるりと回した。

        *

 竹森、と書かれた表札は紙にマジックだった。
 会社兼自宅なのか、建築工具がゴロゴロ転がっているような平屋建ての家だった。
 田村は金貸しらしく横柄に呼び鈴を連打する。

「竹森さーん、昼間はお世話になりました、田村ですー」

 セリフとは裏腹に胴間声の恫喝口調でピンポンピンポン。

「ちょっと代わってくれ」

 なぜか心拍数が跳ね上がる。
 なにが俺を突き動かすのか。俺はなにを求めているのか。俺はなにを見てしまったのか。俺になにがあったのか。
 俺は呼び鈴を押すこともノックすることもできずに、玄関前に突っ立った。

「敷島さん、なにしてんすか」
「わりい」

 このまま続けていいのだろうか――そのとき、扉が薄く開いた。

「……あ」

 俺の胸にも頭が届かないような子ども。
 女の子。

 俺を認めるとゆっくりと戸を広げた。そして穢れを知らない瞳で、じっと俺の顔を見上げている。ドアノブを握る左腕にはかわいらしい子ども用の腕時計が巻かれて、あどけなさを演出していた。つい気持ちが柔らかくなってしまう。

「よう」
「……こんばんわ」

 声をかけると、消え入りそうな挨拶が返ってきた。うっかりとドアを開けてしまった失敗に困り果ててという感じですぐに俯いてしまう。

「親はいないのか」

 返事の代わりにこくりと頷くと、女の子の膝からまとわりつくように一匹の猫が頭を覗かせた。白黒茶と揃った三毛猫だった。動きは緩慢で体躯も大きく、これはかなりの老猫だろう。
 俺のふくらはぎにも身体をこすりつけると、猫らしく不敵に俺のことを見上げて静止した。猫特有のなにを考えているのかわからない眼差し。幽霊でも見ているように、俺に視線を固定させていた。

 左右の瞳の色が違う。片側、青の色が濃く見え強烈な違和がまとわりついている。宝石でも埋め込んでいるようなやたらと輝く瞳が神秘的だ。この色には見覚えがある。こんな場末の平屋に似つかわしくない神々しさに満ちた瞳だ。

 じっと見ていると「ニァ」と小さく鳴いた。
 途端、吸い込まれるような錯覚を覚えた。
 貧血。
 視界がきゅうと狭くなり足下が頼りなくなった。どんどんと視界を黒が侵食してくる。体中から汗が噴き出してシャツが張り付く。

 自分で自分をコントロールできない。
 踏ん張ったつもりが崩れ落ちていたのかもしれない。膝に衝撃が走る。
 ああ、駄目だ。
 ブラックアウトする直前、心配そうな女の子の表情だけが脳裏に残った。
 この子、確か、

「――いすゞ!」

 目が覚めた。
 跳ね上がるように目覚めたせいか、膝をカウンターに打ち付けたらしい。ジンとした痛みが残っている。
 カウンターの向こうではヒノミカとカラスタもびっくりしたような顔だ。

「先輩どうしたんすか」
「いや、なんかよくわからん夢を見た」

 昼寝なんかしたことないのに。

「シキシマ、血が足りておらんのじゃないか。今日はコロケにして精をつけよう。肉体疲労時の滋養強壮、栄養補給に」
「コロッケにそんな効能はねえ」

 昼寝はこいつの得意技だ。俺じゃない。なんで眠ってしまったんだ。

「うわ、先輩よだれ、口についてますよ」

 カウンターにも涎の泉ができている。

「どんな夢を見たんじゃ。子どもか」
「いや、夢だったのかどうか。むしろ現実だったかもしれない」

 ミツハはハテナを頭の上に乗せている。自分でもなにを口走ったのかよくわからない。

「現実ってなんだ。俺の主観が現実の定義なんじゃないのか」
「おい、大丈夫か」

 あんまり久しぶりすぎて、すぐに思考がおっつかなかった。でも、あれは現実世界と呼んでいた懐かしい世界だった。あのなかで俺はどうなっていた。集金に行って倒れ? そういえば先月だかも金貸しが倒れたとか。毒でも盛られている? しかし倒れた結果として俺がこの素っ頓狂な世界にいるというなら、他にもこちらに来た奴がいるということか。シブカワ? いや、ひと月前だというなら時間の辻褄が合わない。

「時間?」

 おかしい。つまりどういうことだ。
 えっと、あの客の名前、なんつったか、とにかく俺は集金に行って何時間かしか経っていないと言っていた。えっと、あいつが、名前、

「おい、シキシマ!」

 ミツハがいつになく真剣な面持ちで俺の腕を掴んでいた。

「顔色が悪いぞ。なにがあった」
「なにが、あった?」

 まずい。
 なんだっけ。
 波が引くように、急速に記憶が遠ざかっていくのがわかる。喋っているそばから、なにを喋っているのかわからなくなる。手に掴もうとしてもするりと抜けて実体がない。俺は無性に心細くなってくる。

「ミツハ、ちょっと待ってくれ」

 思い出せ思い出せ思い出せ、
 そう、時間だ。
 現実世界とこちらの時間の流れがおかしいってことだ。なんでおかしいと思ったんだっけ。えっと、
 それと、シブカワだ。
 先月倒れた金貸し。あれがシブカワかって。
 だとしたら俺とシブカワ? なんでシブカワが出てきたんだっけ。
 記憶の尻尾はあまりにも遠く、頭のなかは真っ白になっていく。シブカワ、シブカワ、忘れないようにしないと。

 この世界に送り込まれたのが俺とシブカワだとすると、
 共通点は――、
 その中心にいたのは――、

「いすゞ」

 ミツハとヒノミカとカラスタ、三人が顔を見合わせた。
 なぜ今いすゞの名を呼んだのだろうか。そういえば姿が見えない。

「はいっ」

 突然横から手が伸びてきて、カウンターの上に発泡水が置かれた。
 いつもとなんら変わらないいすゞが、にへへと笑っている。三秒も目を合わせているとミツハの後ろに隠れてしまう。

「おう、ありがとう」

 一口煽ると、しゅわしゅわと炭酸が弾けて爽快な気分になった。
 凄まじく疲れる夢を見た気がするが、どんなだと訊かれても本当に困る。具体的なことはなにも覚えていない。よっぽど疲れていたのか死にかけていたんだと思う。
 異世界の深層に近づいたような気もするが、それ自体があやふやで不確かで、勘違いだという気もする。

 その頃にはもう、俺のなかにあった小さな記憶のひっかかりはきれいに消えてなくなっていた。思い出せない夢など見ていないに等しいじゃないか。

 俺がこの世界を構成するすべてに再び疑問をもつのは、まだ少し先の話である。
 
 了
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