第14話 涼音走る

文字数 2,022文字

「僕はしばらくの間、ポチと呼ばれた。初めて会った時の濡れた体がやせっぽちだったからだよね? ポチじゃどう考えても犬よね、ネコにしようか、そう笑った日から、僕はチャトランになった。

 抱き上げてもらったあの寒い雨の夜が、前髪やあごや鼻の先から雨のしずくを(したた)らせながら笑ってくれた涼音さんが、僕の原点なんだ」



 涼音さんの頬を光る粒がつーっと伝って、あごの先で震えた。

「涼音さん、僕にはもう時間がないんだ。だから万年様が言ったことをそのまま伝えるね。あ──万年龍様という、途方もなく長く生きている偉い猫様が僕を人間にしてくれたんだ。でね──僕は一度人間になったから縮んじゃったんだ」

「縮む? 縮むって……何が?」涼音さんは涙をハンカチで押さえ、身を乗り出した。
「寿命が」
「誰の?」
「だから、涼音さんが飼っている猫だよ、僕だよ!」
「うそ!……それってどれぐらいなの⁉」
「半年」僕の声に、涼音さんが無言のまま、おっきな目をさらに大きくした。

「昨日あれから万年様にお願いしたんだ。明日もう一度七夜月にしてほしいって。すると万年様はすごく怖い顔をして首を振った。まだ猫に戻る前だったからなんて言ってるかはわからなかったけどね。
 あ、猫は人間の言葉を理解するんだよ。でも、人間には猫の言葉はあまり通じない。それでも、涼音さんにメールを打ったんだ。何を言われてもお願いするって決めてたから。でね、二度目はね、もっと縮まるんだって、だから御法度(ごはっと)だって」

 どれぐらい? 声にならない声を唇が伝えてきた。
「1時間で半年。それぐらい体に負担がかかるんだって」

「なんてことするの!」けたたましい椅子の音をさせて立ち上がった涼音さんは、覆いかぶさるように僕を見た。
「なんでそれを先に言わないの! なんでそんなことするのよ!」今度は僕がたじろぐ番だった。「だって──だって、涼音さんが大事だから」
「何時に人間になったのよ」周りの客が注目している。

「10時ごろかな」涼音さんが左手首をひねった。
「もうお昼じゃない!」やおら僕の手首をつかんだ。
「帰らなくちゃ! 早く!」
 腕をつかまれたまま店を出て雑踏を小走りになる。

 小柄な涼音さんは誰かのショルダーバッグに押されてよろよろと進路を変え、大きな男の人の背中にぶつかり弾かれて痛ッと鼻を押さえ、青、青、と唱えて信号で足踏みをし、そう、昨日買ったニューバランスだ。
 ほら早く! と僕を叱咤し、縁石につまづいたはずみですっ転びそうになりながら小さな声を出した。



「なんでそれを先に言わないのよ、もぉ」
 僕は信じてくれた涼音さんがうれしくて背中に抱きついた。

「あの部屋着、爪が引っかかるんだけど」
「今はそれどころじゃないでしょ! ゴロゴロするな! くらッ! く、首を絞めるんじゃない!」

「あたしが」はぁはぁと息を切らし、風に前髪を立てた涼音さんの横顔は、胸を打つほど凛々しかった。

「え?」
「その万年じじい」
「万年様だよ」
「とっちめてやる!」
「それ、逆切れだってば涼音さん!」

 僕と涼音さんは手を繋いで駅に向かってひた走った。

「馬鹿だよチャトラン……」

 息を切らせたその涙声は、どこまでも晴れ渡った七月の空に吸い込まれていった。

 いいひと見つけて幸せになってよね。うぐッ──呟いたつもりが聞こえていたらしく、脇腹に子供みたいにちっちゃなグーが飛んできた。

 僕を見つけてくれてありがとう。いつも愛してくれてありがとう。この恩を、僕は死ぬまで忘れないからね。

 そしてもしもまた、鈴音さんの前に悪い男が現れたら、どんな無理をしてでも僕は再び出現しようとするだろう。

 だからほんと、いいひと見つけてよね。

 僕の名前はチャトラン。涼音さんがつけてくれた。

 僕はチャトラン、二日で消えゆく七夜月。

 ─FIN─

  もしも 君が悲しすぎて 涙流す夜は
  僕が君を勇気づけて唄を歌ってあげる
  へたな唄で悪いけれど君のために歌うよ
  僕の声で涙なんて吹き飛ばされてしまう

  そうさ 僕はピエロでいいさ
  いつも笑いふりまくピエロでいいさ
  笑いなさい 笑いなさい
  いやなことは忘れて
  笑いなさい 笑いなさい
  君には笑顔が似合う

  松山千春 ─ピエロ─

 お読みいただいた皆様ありがとうございました。心から感謝します。
 次回作はちょっと不思議でちょっぴり涙の恋愛ものでお会いできたらと思います。
 松山千春の『ピエロ』、お暇がある方は、YouTubeで聴いてみてください。とてもいい歌です。


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