汝、パンを食いながら全力疾走することなかれ。
文字数 7,635文字
誰でもいいから、今すぐ、俺に教えて欲しい。
人生で初の彼女が、〝出来てしまう〟かも知れない運命を感じた時。
その女の子が、イエス・キリストの生まれ代わりを自称しだしたら、俺はどうすればいいのか。
たぶん、俺の悩みは子供電話相談室でも受け付けてくれないだろうし。
ヤフー質問箱に投稿したら、ネタ投稿としか思われず、
『可愛いなら、相手がキリストでも良いじゃん』と言う奴すらいるかも知れないが。
なんせ、〝そいつ〟ときたら、ただの女子高生のくせに――。
「私には、全人類を救う使命があるんだ。
今日から活動を始めようと思う。
まずは、アメリカ大統領と面会して、全ての戦争を止めさせる説得をする。
次に中国へ行き、人権弾圧を行わないよう確約させ。
あとはロシアに健全な民主化を約束させる。
ついでに北朝鮮で説教して核開発を停止させたら。
国連で10時間ほど演説したい。
それらに関連する事務作業が、弟子、つまり君の仕事になるが、
トランプと、習近平と、プーチンと、金正恩にアポを取っておいてもらえないか」
などと真顔で言い出し、俺がスルーしようものなら、こいつは本当に、アメリカ大使館に電話を掛けて――。
などと、大真面目にやりだしかねない奴なのだ。
俺の悩みが理解して頂けただろうか?
『いや、わからない』というなら、もうちょっとだけ話しを聞いて欲しい。
たぶん、俺の悲しい運命を分かってくれるに違いない。
『うん、すごくわかった』という人は、俺がなんで、そんな変な奴に巻き込まれてしまったのかを聞いて欲しい。そして、同情してくれ。
事の始まりは、高校入学の初日、つまり今朝。
なのだが――
高校入学の初日って、なに思い描いてた?
俺は、出会い、を思い描いてた。
例えば。
遅刻しそうになって駅前を走ってたら、パンをくわえた女の子と衝突しちゃうような。その女の子が飛び切り可愛かったりするような。
そして、偶然にも、同じクラスで、隣の席になっちゃうような。
そんな、ラブコメ時空を期待するほど子供でもない。
でも、乗る電車が同じ時間で、顔見知りになったりとか、部活で意気投合したり、なんてのは誰でも期待はすると思う。
わかってる。
そんな事すら、現実じゃそうありえない。
これまで、俺の人生に劇的なことなんて、何も起こらなかったし、これからもそうだろうと考えてた。
だが、現実というのは、容赦がない。
俺は横浜市の
駅前――
この朝、駅のキオスクで一番安いコッペパンを買って、食いながら走っていたのは、俺本人だった。
改札口から飛び出し、桜が舞い散る駅前を、まさかパンを食いながら走るなんて珍事、自分でする日が来ようとは思ってなかったが、なんせ必死だ。
そして、そのまま、商店街を走り抜けようとしたんだ。
通勤ラッシュの時間だからね、ごった返してた。
そんな中を、強引に人波をかき分けるようにして急いだよ。
俺に押しのけられた通行人たちは、迷惑そうに文句を言う人もいたが、構っては居られない。
そうしてたらだ。
思いっきり、ぶつかってしまった。俺の肩が、誰かの背中にだ。
もしRPGなら会心の一撃という具合だった。
思わず肩の痛みに顔をしかめたよ。
ラブコメならここで、ぶつかった相手は同じ学校の女の子、しかも、美少女と呼ばれる希少生物で、転んだ拍子に制服のスカートがめくれちゃったりするのだが、現実ではそんな事はあり得なかった。
しかも、顔はスマートな印象なのに、体はマッチョ。柔道五段と言われても信じちゃいそうなガタイは、まさに黒い壁。
ぶつかった衝撃でよろめいたのは、俺の方だけだった。
というか、なんだ。この朝の通勤通学ラッシュに、似つかわしくない男は……。
と、とりあえず、こっちが悪いわけだし、謝らないとな?
〝黒い壁〟の後ろに居る誰かが言ったよ。
女の子の声だった。その声はなんというか、パンを食いながら、ぶつかって来てくれるならば、相手はこうあるべき、とでも言うような可愛いらしい声だ。
彼女はそっと、執事風の男の後ろから、顔を覗かせてきた――。
中学一年生くらい、かと思ったが、そうじゃない。
うちの高校の女子制服を着てる。れっきとした女子高生だ。
体が小さく見えるのは、屈強な男の背後に守られるようにして立っているから、ってのもあるのだろうが、顔立ちからして幼い。
てことは、この男、執事風じゃなくて、そのものだったりするのか。
初めて見たぜ、生執事。
もしRPGならこの子の職業は、『小さなお姫様』と言ったところだ。
するとだった。
お嬢様さんが、ツカツカと歩み寄ってきた。
俺の胸元までしかない身長から、こちらを見上げたよ。
すんごい厳しい目つきでね。
で。
バシーン! ってね。音がした。
一瞬、何が起こったか、理解できなかった。お嬢様さんがね。俺をビンタしたんだ。
初見で愚か者呼ばわり&ビンタとか、いったい、なんだこれ……。
周りの通行人、彼女の怒鳴り声のせいで、みんな立ち止まり始めたよ。
俺、ほっぺたヒリヒリするから、とりあえず手で押さえながら、思ったよ。
地球には70億の人間が居るらしいけど、その中の何人が、一生のうちに一度でも、リアルにお嬢様から、初見で罵倒されながら、ビンタ食らうんだろうか、とだ。
お嬢様さん、名刺を俺に差し出したよ。
俺は、訳も分からず、受け取った。名刺には、こんな風に書いてあった。
『羽里学園理事長 兼 暫定生徒会長
羽里 彩 《はり さい》 』
我が目を疑った。
なんと、俺が今日から通う羽里学園の生徒会長だった、というのは、ともかくとして……。
理事長?
もし他の誰かがこの名刺を渡してきたら、俺は信じなかったと思う。
けど、目の前の彼女の、やんごとなきお姫様オーラ全開な立ち姿を見れば、きっと誰もが納得せざるを得ない。
こいつは、間違いなく、この名刺の通りの人物なのだろう、とだ。
言われて……。
俺は、冷静になってしまってだな。
怪我をさせてただけでも、前科一犯、もし、死なせてたら、16歳にして殺人者の仲間入りだ。
人生、半分終わってた。
しかも、パンを食いながら走ってたという、恐ろしく間抜けな原因でだ。
彼女がそう言い切るとだ。
俺たちを野次馬してた周りの通行人が、パチパチと拍手し始めた。
俺が強引に押しのけてきた人たちが、みんな拍手してたんだ。
これは、あれだ。
不埒な男子高生を捕まえてお灸を据える、お手柄女子高生、という構図。
こんな小柄な子が、男子高生を相手に、ビンタ食らわせて、完全無欠の正論で説教してれば、そりゃ拍手喝采で応援したくなる。
俺が悪役で、彼女が正義の味方。
俺を囲んだみんなが、責めるような目で見てる。
俺が悪いのは分かってるし、謝るから、赦して欲しいと思った。
脚が震えてるのに気づいた。
拍手が一回されるたびに、震えが大きくなっていくようだった。商店街のスピーカーから鳴らされてる陽気なBGMが、何かの皮肉みたいに響いてたよ。
羽里がさらに続けようとした。
けど、そこでだった――。
そんな、いかにも、紳士が言いそうな台詞が突然、俺を囲んだ人垣の中から聞こえてきたんだ。
でも、その声は、紳士の声ではなく女の子の声で――俺は、目を向けてみて驚いた。
パンを食べながら走ってきて、激突して来るに相応しい女子、二人目だった。
要するに、男なら思わず二度見しちゃうような子。
ただし、『小さなお姫様』とは対照的にスラリとした四肢の、モデルみたいな印象だ。
そして、羽里と同じ制服を着てる。彼女も羽里学園の生徒なのだ。
そんな子がだ。
全ての人が俺を責める中、たった一人だけ、助けてくれようと、前に出てくれてたんだ。
ぶっちゃけ女神に見えた。もっと言えば、一目惚れ、ってのに近いかも知れない。いや、これは、断言しとく。
俺は一目惚れした。
大事なことなので、もう一度言う。
俺は、彼女に、一目惚れした。
……?
言ってる意味がわからない。
羽里もさぞかしリアクションに困るだろうと、俺は思ったのだが。
なんかすごく、噛み合ってらっしゃる様子。
『派生条項843条、校外において、法令に触れない非行行為を、在校生がしているのを職員が目撃した場合。その場で、30分間の厳重注意を行わなければならない。また、行為の程度に応じた停学等の処分を加罰する』
ゆえに、わたしは理事長として、彼へ、あと25分ほど厳重注意を行わなければならない」
俺は、もっと謝らなきゃいけないと思うけど、言葉が、言葉が上手く出てくれる気がしない。
いっそ逃げ出したい。けど逃げ場なんてあるわけない。
彼女は群衆に向けて声を張り上げた。
演劇役者みたいな良く通る声で、騒然とした中でも綺麗に響いた。
拍手が小さくなっていった。
あまりにも彼女の声が真剣だったからかも知れない。
やがて、静寂が訪れた。
みんな、彼女が何を言い出すのかと注目しだしていたからだ。
彼女は俺を庇うように前に立ち、語りだした。
十分に痛めつけられた。
この少年が捕らえられ、責められる原因が、弱者への無配慮だったならば、皆、ここで考え直して欲しい。
今、この場の、一番の、弱者は、誰だ?」
それって……。
もしかして……俺?
普段は賑やかな商店街が、声一つしない。
独壇場だ。
……?
う、うん?
いや、うん、まあ、わかる。なにを言いたいかは、分かるんだが……。
あれでしょ。みんな間違いはするんだから、お互い、許し合う心を持ちましょうって言いたいんだろうけど……。
たぶん、この場で、パン食いながら、誰かにぶつかったことある人、俺くらいしかいないからな……?
うん、あの、すごく、庇ってくれるのは、ありがたいんだけど。
すんごーい斜め上に、暴投をね、しちゃった感がね、すごいというか。
ほんの少し前まで、めっちゃ良いこと言ってた気がするのに、全部台無しになった感がすごいというか。
いや……なんだ、これ。
みんな、ダメな意味で、すげえシーンとしちゃった。
こう、完全に空気が死に絶えてる……。
あのね、こうね、俺の中のね。
彼女に対しての恋愛感情ゲージとでも言うべきパラメーターがね。
ギュイーンって、急速に下がっていくのを感じたよ。
そして、思った。
あ、こいつ、変な奴なんだ、と。
違う。
とんでもなく、変な奴なんだ、と。
一応、見ず知らずの俺を助けてくれたわけだし、たぶん、超良い奴なんだろう。
そこは、認める。
だが、こいつを普通の女の子として見る自信は……俺にはもてそうにない。
恋愛感情ゲージの針はマイナスに突入してだな。
もし世界が滅びて、生き残ったのが、こいつと俺の二人になっても恋愛感情は二度と抱かないだろう、ってとこで針が止まった。
こうして、俺の一目惚れは、二分で終わった。
そうだ。初対面の美少女にピンチを助けられて、恋に落ちるボーイミーツガールなんてのは、現実ではあり得ない。
私をハンカチで拭き、それでも足りないから、髪で拭き、最後は私の頬を、可愛らしくペロペロしてくれた。
だから、私はこう言った。『パンを食べながら激突することは、誰にでも起きる。なので問題はそれ自体ではない。その後にどうするかなのだ。
あなたは強く反省してペロペロした。あなたの罪は赦された』とだ」
羽里が迷惑をかけた相手のほっぺたを、ペロペロしてしまったという、健気さや真面目さの部分に感心するべきか、迷うところではあるな……。
いや、むしろ両方に、つっこむべきな気がしてきたぜ……)
執事が羽里に耳打ちし、人垣の向こう側を指で示した。
なんだろうと俺も見てみたら、黒山の人だかりの先に、警官の帽子が三人分ほど見えた。
近づいて来ようとしてるが、人垣のせいで、なかなか進めてない。
たぶんだが、通行人が俺たちが大声で言い合ってる声を聞いて、喧嘩と勘違いして通報してしまったのだろう。