一年目 十月下旬 某大学理学部技官・松村省三

文字数 867文字

 記憶が無い。
 夜中に自宅に帰る途中で記憶が途絶えている。
 息苦しい。
 目を開けているのに何も見えない。
 どうなっている?
「松村さんですね? 貴方が行なった遺伝子解析には守秘義務が有る筈ですが……」
「だ……だ……だ……」
 その男の声に「誰だ?」と訊き返そうとしても巧く言葉をつむげない。
 年齢は……多分、中年ぐらい。
 その声から松村は1つの感じを思い浮かべた。それは……「冷」。
 ただ……「冷酷」と「冷静」のどちらの意味の「冷」かまでは判断が出来ない。
「あんたッ‼ 自分がした事をッ‼ 判ってんのかよッ‼ 偉い大学の先生がよォッ‼」
 先生なんかじゃない。博士号は持ってない。単なる技官だ。
 果たして、そう説明しても……相手に理解……いや、説明する意味は有るのか?
 もう1人の男の声……こっちは喩えるなら「熱」。
 ああ……そうか……。 アメリカの映画でたまに有る台詞……「良い警官と悪い警官」と云うヤツか……。
 松村の脳裏に、そんな考えが(よぎ)った。
「国家機密をバラしやがって、この国賊野郎がッ‼ 手前(てめえ)の親もッ‼ いい銀行の調査役とやらをやってる手前(てめえ)の兄貴もッ‼ 残りの人生をッ‼ マトモに生きられると思うなッ‼ 無事で済まねえのはッ‼ 手前だけじゃねえッ‼ 手前の家族がッ‼ どこに逃げてもッ‼ 俺達が付き纏ってやるッ‼」
 妙に芝居がかった口調だ……。
 支離滅裂な内容だが……支離滅裂なのは、こいつの思考であって、自分の考えている事を少しもトチらずに述べてはいる。
 おそらくは……。
 熱血馬鹿を演じてはいるが、本当の馬鹿ではないのだろう。
 この脅し文句も、あらかじめ考えて練習した可能性が有る。
 ならば……何も言わないのが……長い目で見れば安全……それは理性(あたま)では判ってはいるが……。
「歯あ食い縛れ、国賊野郎がッ‼」
「ぶひいっ‼」
 腹に衝撃……熱に近い重い痛み。
「誰の指示で……国家機密を漏らしたのですか? 貴方達は……どこの国の為に働いているのですか?」
「へっ?」
 「冷」の方の男が口にした質問は……松村にとって全く意味不明なモノだった。
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