第20話 置いてけぼり

文字数 2,574文字


 家に着くと、母が出てきて驚いた顔を見せる。

「あら…大原様は?」

「それが…たまたま用事で大原家に行きましたら、彼にハナさんを送るように言われて…。一緒に蕎麦を食べて帰ってきました」

「まぁ、それはそれは。あの…お茶でもどうですか」と母は正雄に言ったが、「せっかくですが、仕事がありますので」と言って、辞退して帰って行った。

 玄関に入ると、母はハナに居間に来るように伝えた。居間で母を待っていると、羊羹とお茶を持って来た。

「おあがりなさい」

 有無を言わさずと言った様子でお茶を勧めた。黙って食べ終わると、母はハナに何があったか正直に話すように言った。大原家で着物のことを聞かれたり、洋服の話や、ケーキの話はできたが、口づけの話はできなかった。そしてその後、正雄に送ってもらいがてら、蕎麦屋に寄ったこと、家に寄ったことも話した。
 母は深いため息をついた。

「大原様がいらしてたのよ。慌てた様子で」

「え?」

 正雄と蕎麦屋に寄ったので、帰る道すがら会うことはなかった。

「大変失礼なことをしてしまった、と謝りにいらして…。まだ帰ってませんと言ったら、血相を変えて道を戻ってらしたわ」

「…そうですか」

「そうですかじゃありません。心配していらしたのに。それに…山本様のお部屋に上がり込んだりして…。あなたは本当に…」

「山本様は落ち込んでいる私を励まそうと…」

「だからと言って、男の人の部屋について言ってはいけません」とピシャリと怒られてしまった。

「…はい」

 確かに軽率だったと今なら分かる。でもあの時は落ち込んでいたし、特別な意味はなく、猫の餌やりを見て、少し話をして帰ってきただけだ。下宿先の奥さんもいたし、やましいことは何もしていない。

「大原様との婚約が嫌なの?」

「え?」

 突然、言われた母の言葉に思わず顔をあげる。

「お家柄が違いすぎると私も思っていました。苦労は目に見えてます。でもお父様は望まれて行くのが幸せだとおっしゃって」と少し涙を浮かべて、母が言った。

「お母様…」

「着物の数も少ないのは分かっています…。ドレスだってうちにはそんなものはありませんし。ケーキだって」と母はハナが受けた仕打ちを想像して涙を溢す。

「申し訳ありません」と母を悲しませたことが胸を突いた。

「そのようなものがなくても…ハナは立派な…私の自慢の娘です」

 母の気持ちがまたハナの目から涙を落とさせる。親子二人で少しだけ泣いた。女にしか分からないことだ、と父親には言わないでおこうということになった。二人だけの秘密ができたようで、ハナはまた子供時代に戻ったような気持ちになる。しばらくすると、玄関先で声がした。
 慌てて涙を拭いて向かうと、玄関にはハナの父と、清が立っていた。

「ハナさん、戻られたようで」と清に言われた。

「ご心配おかけしました」とハナが頭を下げる。

「大原様に少し上がってもらうように」と父が母に言った。

 母は慌てて、ウメの部屋に行って手伝ってもらうようにお願いする。ハナもお酒を用意したりと忙しくなる。豆腐の白和ときんぴらごぼうをウメが手早く作ってくれる。あと、貴重なかまぼこも切って出した。

「お待たせしました」と言って、ハナは運んだ。

「ハナさん、今日は本当に失礼なことを」と清に頭を下げられる。

「そんな…。どうか謝らないでください。私が…至らないばかりに…」とハナも頭を下げた。

「清くん…。我が家がそちらに不相応なのは分かっての縁談だ」

「はい」

「もし不都合ならば、破棄して頂きたい」

 ハナは驚いて、顔を上げた。

「話は清くんから聞いた。私の力不足でお前にそこまで用意してあげられないのが、不甲斐ない」と父が言うので、ハナは首を横に振った。

「私は…ハナさんを大切にしたいと思っています。どうか…母のしたことはお許しいただけないでしょうか」と清は父に向かい合って、頭を下げた。

 しばらく沈黙が続いたが、なかなか頭を上げない。父が頼んで、ようやく清は頭をあげる。

「それほど思ってくださるのなら…」と父が盃を傾ける。

 ハナは二人のやりとりを見て、ぼんやりと自分の気持ちはどこかへ置き去りにされたように、話が進んでいくのを感じていた。結局、この晩は婚約破棄どころか、またよろしくお願いしますということで話が終わった。
 ハナは後片付けをしながらため息をついた。どうしてため息が出るのか分からない。

「大原様も素敵ですけどね…。お嬢さんが苦労するのが私には見えますよ」とウメが言う。

「ウメさん…。遅くまでごめんなさい」とハナが謝ると、ウメは首を横に振った。

「お嬢さん。お可哀想に…」とウメはそう言って洗い物を始めた。

 その言葉が胸に木霊する。

「ところで山本様はいつ来られますかね?」

「どうして?」

「美味しいものを作って差し上げたいんですよ。…あの方、本当に良い方ですからね」

 ふと正雄のことを思うと、胸が明るくなるような気持ちになった。そしてウメに混じって、いつもお世話になっているので、ハナも何か作ろうと考えた。正雄が来る日をウメに伝えると、ウメは腕を捲し上げて、洗い物を始めた。
 そして二人で笑いながら、後片付けをしていると、母が入って来て、どうやら週に一度、大原家に花嫁修行に行く事になったと教えられた。

「お可哀想に」とまたウメが呟く。

 流石に母もため息をついた。

「無理なら…帰ってらっしゃい」

 そんなことを言われるとは思ってなくて、ハナは思わず母を見た。

「いいのよ。花嫁修行で、気に入られないってことは、こっちだって願い下げなんですからね」と母が珍しく息を巻いている。

「そうですよ。お嬢さんはもっと大切にされるところに行くべきです」とウメも大きな声で言う。

 そうして台所で騒いでいると、父が顔を覗かせる。

「どうかしたのか?」

「旦那様、お嬢様はもっといいお相手がいます」とウメが言うので、母もハナも慌てた。

「なんだ、ハナは別に好きな人がいるのか?」と訊く。

 ハナは否定すべきなのに、なぜかできなかった。

「でもな…。大原家に嫁ぐと…お前の将来は安泰だ。親としては好いた惚れたというより、食うに困らず、幸せになって欲しいと思っているんだ」と言って、母にお茶を頼んで居間に戻って行った。

「はい、ただいま」と母はつまらなさそうな声で返事をした。

 ハナとウメは顔を見合わせてため息をついた。
 
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