第1話
文字数 4,704文字
1
年がら年中、代わり映えのない安月給に嫌気がさし、小遣い稼ぎはできないものかと企て、せっかくの休日を半日も浪費した結果、世界中の老若男女に人気の動画サイトへ、なにか投稿しようと思いついた。動画クリエーターたちが凝って編集し投稿しているようなクリエイティビティな内容でなくとも、笑い話のひとつでも転がっているのが世の常だと、街中を隈なく探していたとき、ふと、ぼくの目に一匹の犬が飛び込んでくる。
犬は、スーパーマーケットの自転車置き場で、自転車と並んでフェンスにつながれていた。毛並みの茶色い、中型の雑種(なんでも、近頃はミックスとも呼ばれているらしいが、その区別はぼくには関係がないので雑種とする)。少し間の抜けた、締まりのない表情をしている。昼間と夕方の中間くらいの春の陽気が心地よいのだろう、アスファルトでうつ伏せになりながら、たまに尻尾を軽くふる。これはいいと思った。動物ネタの投稿であれば、とりあえずの再生回数は稼げるとの目論見からだ。
常々、野心として抱いているが、ぼくに飼い犬の一匹でもいれば、喜んで商売道具にするに違いない。なにも、虐待まじりの躾をして、サーカスまがいのことをさせようなどとは微塵も思っていない。ただ、ふだんの生活ぶりを動画で配信さえすれば、視聴者は喜んで見てくれるだろう。まったく美味しい商売だ。
しかし、そのための軍資金がない。犬の購入費。毎日の食費。動画撮影に喜んで協力してもらうためにはご機嫌を損ねてはいけないので、ストレスフリーな環境も用意してやらねばならない。なにより、病気にでもかかれば一大事だ。予防や通院なども余儀なくされる。せっかく投資をしても損益になってしまう恐れがある。
だから、もろもろの心配事を軽減させるためにも、少しでも多くの軍資金が必要なのである。とはいえ、ぼくは所詮、凡庸なるいち勤めびとに過ぎない。稼ぎなどもたかだか知れたもので、勤めている会社が倒産でもしてしまえば、明日の我が身はどうなるのだろうかと心配に心配を掛けて、倍増された心配に押しつぶされてしまうような現状なのである。動画投稿で軍資金を稼ごうなどとせこい考え方からして、凡庸の極みではないか。
ひとり苦笑するぼくの横を気味悪そうに眺めながら、通り過ぎていく奥様方。氷の眼ざしに気を取られていると、いつの間にやら、犬の側に女がいた。少女と大人の女のあいだで形づくられつつある、まだ危うさの残る顔立ち。艶やかなボブヘアに天使の輪っかを浮かばせ、ミニスカート姿で中腰にしゃがむ姿は、独身男であるぼくの魂をくすぶってくれる。女に頭をなでられ、忠犬であることを証明するように、ひれ伏してなされるがままの犬。しゃがむ女の折り畳まれた両脚の狭間は、好奇心を刺激する誘発剤の役目を担っていることだろう。特等席から独り占めできてしまう犬に嫉妬心が湧いてくる。そのありふれた様子をドラマチックに仕上げているのが、彼女の存在なのだ。
ズボンのポケットのなかで出番待ちしているスマホを急いで取り出すと、カメラを動画モードにし、宙で構える。レンズの先から描かれる一枚絵。動画撮影しようと、指先が画面をタップする寸前で、ゴム質のような分厚いなにかが肩を叩いた。
「ちょっと、あんた、なにしてんの?」
スーパーマーケットの警備員が縁の細い丸眼鏡の奥から、汚物を嫌悪する目つきでぼくを見ている。視線がスマホへ移ろうとしたので、羞恥心を悟られてはいけないとホームボタンを押し、画面を切り替える。警備員のほうへ身体を向き替える勢いで、肩に触れている指先を払い除けると、無罪を信じてほしくて、やや頭を垂れ、ぼそぼそと、小心者の姿で接してやらねばならなかった。
「ぼく、スマホ依存症の予兆があるのかな……たまに、意味もなく画面を見てしまうみたいなんです」
怪しそうにのぞきこむ警備員の顔が、ぼくの横面へ迫るので、鼻孔から飛び出している白髪まじりの鼻毛が見えてしまう。悪霊退治をしたかったのと、悪戯心半分に、明るさを徐々に上げていった。警備員は静かな反抗心に気がつかず、スマホを凝視していた所為か、目の痛みを感じたらしく、瞼をきつく閉じててしまう。顔を退け、瞼を開くと、有罪の証拠を見つけられなかった自分の不甲斐なさを受け入れられずにいるのか、急に不機嫌になりぶつぶつ言い出すので、これ以上つきあっては面倒だと、その場を離れたかったが、また肩をつかまれてしまい、背を向けることすら許されなかった。
「まったく、スマホ、スマホって……ついさっきね、奥様方もスマホ見ながら歩いていたから、ただ突っ立っていた私にね、こう、肩からぶつかってきたんだよ!」
再現させるように、警備員はわざと肩でぶつかってくる。二度、三度と。その度に、ぼくは、わかりました、わかりましたと、警備員をなだめてやらねばならなかった。野次馬たちに注目されるが、警備員は一向、気がついている様子もなく、話し相手のできたことが嬉しいのか、乾いた唇を舌で舐め、話を続けだそうとするので、ぼくは隠そうともせず辟易としてしまうが、それも一向、気がついていないといった様子だった。
「するとね、奥様方が睨んでくるもんだから、立場上、私が謝らなきゃならんでしょ。その陰湿な目つきがね、一秒が一時間にも感じられるくらい長くてね、申し訳ない態度をサービスしてふるまってやったんだけどね、別段、文句を言ってくるわけでもなく、また、スマホの画面を見ながら、そのままいっちゃったわけよ」
「はぁ、それは災難でしたね」
「こんなことがあってもね、数年前までは、SNSに書き込めたんだけどね。ほら、改正されたでしょ。はけ口がないと、人間、ストレスまみれになってしまうと思わない?」
弁論会はまだお開きになる見込みがなさそうだったが、駐車場のほうから手助けを求める声がしたので、警備員は舌打ちを鳴らし、もうぼくの存在を忘れてしまったみたいに、忌々しく向かっていった。
気を取り直し、被写体へ視線を戻すと、そこに女の姿はなく、ぼくの側をすり抜けていくみたいに、あっちへ歩いていってしまう。呆気にとられ、急いで、女の顔から足もとまで視線を這わせる。ぼくは確かに見た。まるで暗殺者が手首に武器を仕込んでいるやり方でハサミを持ち、スーパーマーケットから離れると、腕にかけたポシェットのなかへ放り込んでいたのだ。
ぼくの見間違いでなければ、そのハサミというのも、一般的な事務用ハサミではなく、あまり目にしない蟹の手のようなゴツゴツとした外見。あの、犬をなでた天使の指先が握るには不釣りあいなサイズ。いったいなにに使用されたのか皆目見当がつかないが、そんなことより、スカートごしからでもわかる、女の臀部の膨らみが、脚を交差させる度に、右へ左へ揺れ動くので、その形のよさを透視し、動画撮影したいとさえ思ってしまった。警備員に声をかけられたのは幸いだったかもしれない。駐輪場には防犯カメラが数台設置されていたから、万が一にでも、その有様が撮影されていれば、小遣い稼ぎも夢のまた夢で終わってしまう。どうやら少し、のぼせてしまっていたみたいだ。
女と犬のツーショットは諦めるしかないと、改めて、犬のほうへ視線を向ける。買い物を済ませたらしい飼い主がそこにおり、犬の名前を呼んでやりながら、また頭をなでるので、犬のほうでも、先ほどの媚態など知らぬ存ぜぬの態度で、あなただけの忠犬でありますとでも言いたげであった。
飼い主がフェンスにくぐりつけていたリールを外しとき、事件は起きた。リールに引っ張られることなく、犬が依然として、その場で固まったままでいたのだ。飼い主ははじめ、なにが起きたのかと、頭上にクエスチョンマークを浮かべていた。犬が嫌々と反抗するそぶりを見せたのであれば、犬とリールのせめぎあいがはじまるはずなのだ。見ているこちら側からしても、まるでマジックショーを披露されているようなはらはらする光景で、興味を注がずにはいられない。
停止した秒針がふたたび動き出すと、飼い主はもう一度、リールを引っ張ってみたのだが、どうやら、疑念の正体は、犬の不可解な反抗ではないと安心し、同時に、リールが犬の首輪だけを連れ出し、地面に引きずっていたものだから、軽い悲鳴をあげていた。首輪の外れた犬は身分証明のない野良同然で、捕獲の対象となれば、飼い主が抗議の声をあげてしまうのが目に見えている。
さりげなく側へより、様子を探ってみたところ、首輪に縦一線の切れ目が走っており、真っ二つになっていたのだ。まさか、犬の奴が自ら噛み切ったとでもいうのか。合皮革で加工された厚さ五ミリほどの首輪を、どこの家庭にでもいそうな雑種に可能だろうか。それに、ちからまかせに引きちぎられたのなら、切断面はぐちゃぐちゃに潰れているはずだ。刃物で一刀両断されたようにきれいな断面からは到底、想像することができなかった。
白昼堂々に刃物をふり回しているような狂人がいるはずもなく、さっそく推理にいき詰まってしまう。その場で立ち尽くすわけにもいかず、自動販売機の横のベンチに腰掛け、飼い主が犬を重たそうに抱っこして、帰っていく様子を眺めるしかない。
見落としてしまったのだろう、切断された首輪がアスファルトに捨てられたままでいたので、証拠物として回収しようした矢先、助っ人の役目を終えたらしい警備員が横取りしてしまう。ぼくが声をあげるまでもなく、警備員のほうで馬鹿みたいに口を開くぼくに気がつく。
「へぇ、見直したよ! ゴミでも拾ってくれるつもりだったのかい。それにしても、マナーのなっていないのが多くて嫌になるね」
勘違いしてくれたのはいいが、また長話につきあわせれては堪らんと、軽く会釈していってしまおうとした。警備員は神妙な顔で切断された首輪を、目を凝らしながら見ていたので、まさか、この警備員がと疑惑が浮かんでしまう。同じ場所で誰にも怪しまれず、長時間滞在していられる天性の隠密なのだ、犬の首輪を切断することくらい朝飯前だろう。
「この切断面……電工ハサミで切断したあとだな。一発でスパッとやってやがる」
「電工ハサミ?」
思わず、聞かずにはいられなかった。
「おれねぇ、むかし電気工事士をやっていたんだよ。酒の飲み過ぎでね、肝臓悪くしちゃってね、いまはこのとおりさ。ケーブル切るときなんか便利でね、こう蟹の手みたいな形したさ」
「誰にでも入手可能なものなんですか?」
「ああ、工具店なんかにいきゃあね。ネットでも買えるよ。なに、興味……」
まだ話が続きそうだったので、ぼくは背を向けいってしまう。電気工事士に興味はあるのかとかなんとか、言おうとでも思っていたのだろう。
スーパーマーケットを離れ、最後に女を見た歩道を、ぼくも歩んでみる。とはいえ、少しの一本道のあと、すぐ交差路にさしかかり、足取りはそこで消息を断つ。街路樹を挟んだ向こう側の国道を忙しなく車たちが等間隔で走り去っていく。手をつないだカップルが散歩し、春にふさわしい和やかな会話を楽しんでいる。あの女はなぜスマホのアクセサリーみたいな手軽さで、蟹の手ほどの電工ハサミを持ち歩いていたのか。そして、あの位置だ。駐輪場に設置された防犯カメラの視線をかい潜る周到さ。背を向けて、犬に密接しながらしゃがみこむ姿だって、隠蔽工作ととれなくもない。ごくありふれた風景の一部として、なんの違和感もない、誰だって欺いてしまえるだろう。まさか、いや……もし、ぼくの憶測が正しければ……
年がら年中、代わり映えのない安月給に嫌気がさし、小遣い稼ぎはできないものかと企て、せっかくの休日を半日も浪費した結果、世界中の老若男女に人気の動画サイトへ、なにか投稿しようと思いついた。動画クリエーターたちが凝って編集し投稿しているようなクリエイティビティな内容でなくとも、笑い話のひとつでも転がっているのが世の常だと、街中を隈なく探していたとき、ふと、ぼくの目に一匹の犬が飛び込んでくる。
犬は、スーパーマーケットの自転車置き場で、自転車と並んでフェンスにつながれていた。毛並みの茶色い、中型の雑種(なんでも、近頃はミックスとも呼ばれているらしいが、その区別はぼくには関係がないので雑種とする)。少し間の抜けた、締まりのない表情をしている。昼間と夕方の中間くらいの春の陽気が心地よいのだろう、アスファルトでうつ伏せになりながら、たまに尻尾を軽くふる。これはいいと思った。動物ネタの投稿であれば、とりあえずの再生回数は稼げるとの目論見からだ。
常々、野心として抱いているが、ぼくに飼い犬の一匹でもいれば、喜んで商売道具にするに違いない。なにも、虐待まじりの躾をして、サーカスまがいのことをさせようなどとは微塵も思っていない。ただ、ふだんの生活ぶりを動画で配信さえすれば、視聴者は喜んで見てくれるだろう。まったく美味しい商売だ。
しかし、そのための軍資金がない。犬の購入費。毎日の食費。動画撮影に喜んで協力してもらうためにはご機嫌を損ねてはいけないので、ストレスフリーな環境も用意してやらねばならない。なにより、病気にでもかかれば一大事だ。予防や通院なども余儀なくされる。せっかく投資をしても損益になってしまう恐れがある。
だから、もろもろの心配事を軽減させるためにも、少しでも多くの軍資金が必要なのである。とはいえ、ぼくは所詮、凡庸なるいち勤めびとに過ぎない。稼ぎなどもたかだか知れたもので、勤めている会社が倒産でもしてしまえば、明日の我が身はどうなるのだろうかと心配に心配を掛けて、倍増された心配に押しつぶされてしまうような現状なのである。動画投稿で軍資金を稼ごうなどとせこい考え方からして、凡庸の極みではないか。
ひとり苦笑するぼくの横を気味悪そうに眺めながら、通り過ぎていく奥様方。氷の眼ざしに気を取られていると、いつの間にやら、犬の側に女がいた。少女と大人の女のあいだで形づくられつつある、まだ危うさの残る顔立ち。艶やかなボブヘアに天使の輪っかを浮かばせ、ミニスカート姿で中腰にしゃがむ姿は、独身男であるぼくの魂をくすぶってくれる。女に頭をなでられ、忠犬であることを証明するように、ひれ伏してなされるがままの犬。しゃがむ女の折り畳まれた両脚の狭間は、好奇心を刺激する誘発剤の役目を担っていることだろう。特等席から独り占めできてしまう犬に嫉妬心が湧いてくる。そのありふれた様子をドラマチックに仕上げているのが、彼女の存在なのだ。
ズボンのポケットのなかで出番待ちしているスマホを急いで取り出すと、カメラを動画モードにし、宙で構える。レンズの先から描かれる一枚絵。動画撮影しようと、指先が画面をタップする寸前で、ゴム質のような分厚いなにかが肩を叩いた。
「ちょっと、あんた、なにしてんの?」
スーパーマーケットの警備員が縁の細い丸眼鏡の奥から、汚物を嫌悪する目つきでぼくを見ている。視線がスマホへ移ろうとしたので、羞恥心を悟られてはいけないとホームボタンを押し、画面を切り替える。警備員のほうへ身体を向き替える勢いで、肩に触れている指先を払い除けると、無罪を信じてほしくて、やや頭を垂れ、ぼそぼそと、小心者の姿で接してやらねばならなかった。
「ぼく、スマホ依存症の予兆があるのかな……たまに、意味もなく画面を見てしまうみたいなんです」
怪しそうにのぞきこむ警備員の顔が、ぼくの横面へ迫るので、鼻孔から飛び出している白髪まじりの鼻毛が見えてしまう。悪霊退治をしたかったのと、悪戯心半分に、明るさを徐々に上げていった。警備員は静かな反抗心に気がつかず、スマホを凝視していた所為か、目の痛みを感じたらしく、瞼をきつく閉じててしまう。顔を退け、瞼を開くと、有罪の証拠を見つけられなかった自分の不甲斐なさを受け入れられずにいるのか、急に不機嫌になりぶつぶつ言い出すので、これ以上つきあっては面倒だと、その場を離れたかったが、また肩をつかまれてしまい、背を向けることすら許されなかった。
「まったく、スマホ、スマホって……ついさっきね、奥様方もスマホ見ながら歩いていたから、ただ突っ立っていた私にね、こう、肩からぶつかってきたんだよ!」
再現させるように、警備員はわざと肩でぶつかってくる。二度、三度と。その度に、ぼくは、わかりました、わかりましたと、警備員をなだめてやらねばならなかった。野次馬たちに注目されるが、警備員は一向、気がついている様子もなく、話し相手のできたことが嬉しいのか、乾いた唇を舌で舐め、話を続けだそうとするので、ぼくは隠そうともせず辟易としてしまうが、それも一向、気がついていないといった様子だった。
「するとね、奥様方が睨んでくるもんだから、立場上、私が謝らなきゃならんでしょ。その陰湿な目つきがね、一秒が一時間にも感じられるくらい長くてね、申し訳ない態度をサービスしてふるまってやったんだけどね、別段、文句を言ってくるわけでもなく、また、スマホの画面を見ながら、そのままいっちゃったわけよ」
「はぁ、それは災難でしたね」
「こんなことがあってもね、数年前までは、SNSに書き込めたんだけどね。ほら、改正されたでしょ。はけ口がないと、人間、ストレスまみれになってしまうと思わない?」
弁論会はまだお開きになる見込みがなさそうだったが、駐車場のほうから手助けを求める声がしたので、警備員は舌打ちを鳴らし、もうぼくの存在を忘れてしまったみたいに、忌々しく向かっていった。
気を取り直し、被写体へ視線を戻すと、そこに女の姿はなく、ぼくの側をすり抜けていくみたいに、あっちへ歩いていってしまう。呆気にとられ、急いで、女の顔から足もとまで視線を這わせる。ぼくは確かに見た。まるで暗殺者が手首に武器を仕込んでいるやり方でハサミを持ち、スーパーマーケットから離れると、腕にかけたポシェットのなかへ放り込んでいたのだ。
ぼくの見間違いでなければ、そのハサミというのも、一般的な事務用ハサミではなく、あまり目にしない蟹の手のようなゴツゴツとした外見。あの、犬をなでた天使の指先が握るには不釣りあいなサイズ。いったいなにに使用されたのか皆目見当がつかないが、そんなことより、スカートごしからでもわかる、女の臀部の膨らみが、脚を交差させる度に、右へ左へ揺れ動くので、その形のよさを透視し、動画撮影したいとさえ思ってしまった。警備員に声をかけられたのは幸いだったかもしれない。駐輪場には防犯カメラが数台設置されていたから、万が一にでも、その有様が撮影されていれば、小遣い稼ぎも夢のまた夢で終わってしまう。どうやら少し、のぼせてしまっていたみたいだ。
女と犬のツーショットは諦めるしかないと、改めて、犬のほうへ視線を向ける。買い物を済ませたらしい飼い主がそこにおり、犬の名前を呼んでやりながら、また頭をなでるので、犬のほうでも、先ほどの媚態など知らぬ存ぜぬの態度で、あなただけの忠犬でありますとでも言いたげであった。
飼い主がフェンスにくぐりつけていたリールを外しとき、事件は起きた。リールに引っ張られることなく、犬が依然として、その場で固まったままでいたのだ。飼い主ははじめ、なにが起きたのかと、頭上にクエスチョンマークを浮かべていた。犬が嫌々と反抗するそぶりを見せたのであれば、犬とリールのせめぎあいがはじまるはずなのだ。見ているこちら側からしても、まるでマジックショーを披露されているようなはらはらする光景で、興味を注がずにはいられない。
停止した秒針がふたたび動き出すと、飼い主はもう一度、リールを引っ張ってみたのだが、どうやら、疑念の正体は、犬の不可解な反抗ではないと安心し、同時に、リールが犬の首輪だけを連れ出し、地面に引きずっていたものだから、軽い悲鳴をあげていた。首輪の外れた犬は身分証明のない野良同然で、捕獲の対象となれば、飼い主が抗議の声をあげてしまうのが目に見えている。
さりげなく側へより、様子を探ってみたところ、首輪に縦一線の切れ目が走っており、真っ二つになっていたのだ。まさか、犬の奴が自ら噛み切ったとでもいうのか。合皮革で加工された厚さ五ミリほどの首輪を、どこの家庭にでもいそうな雑種に可能だろうか。それに、ちからまかせに引きちぎられたのなら、切断面はぐちゃぐちゃに潰れているはずだ。刃物で一刀両断されたようにきれいな断面からは到底、想像することができなかった。
白昼堂々に刃物をふり回しているような狂人がいるはずもなく、さっそく推理にいき詰まってしまう。その場で立ち尽くすわけにもいかず、自動販売機の横のベンチに腰掛け、飼い主が犬を重たそうに抱っこして、帰っていく様子を眺めるしかない。
見落としてしまったのだろう、切断された首輪がアスファルトに捨てられたままでいたので、証拠物として回収しようした矢先、助っ人の役目を終えたらしい警備員が横取りしてしまう。ぼくが声をあげるまでもなく、警備員のほうで馬鹿みたいに口を開くぼくに気がつく。
「へぇ、見直したよ! ゴミでも拾ってくれるつもりだったのかい。それにしても、マナーのなっていないのが多くて嫌になるね」
勘違いしてくれたのはいいが、また長話につきあわせれては堪らんと、軽く会釈していってしまおうとした。警備員は神妙な顔で切断された首輪を、目を凝らしながら見ていたので、まさか、この警備員がと疑惑が浮かんでしまう。同じ場所で誰にも怪しまれず、長時間滞在していられる天性の隠密なのだ、犬の首輪を切断することくらい朝飯前だろう。
「この切断面……電工ハサミで切断したあとだな。一発でスパッとやってやがる」
「電工ハサミ?」
思わず、聞かずにはいられなかった。
「おれねぇ、むかし電気工事士をやっていたんだよ。酒の飲み過ぎでね、肝臓悪くしちゃってね、いまはこのとおりさ。ケーブル切るときなんか便利でね、こう蟹の手みたいな形したさ」
「誰にでも入手可能なものなんですか?」
「ああ、工具店なんかにいきゃあね。ネットでも買えるよ。なに、興味……」
まだ話が続きそうだったので、ぼくは背を向けいってしまう。電気工事士に興味はあるのかとかなんとか、言おうとでも思っていたのだろう。
スーパーマーケットを離れ、最後に女を見た歩道を、ぼくも歩んでみる。とはいえ、少しの一本道のあと、すぐ交差路にさしかかり、足取りはそこで消息を断つ。街路樹を挟んだ向こう側の国道を忙しなく車たちが等間隔で走り去っていく。手をつないだカップルが散歩し、春にふさわしい和やかな会話を楽しんでいる。あの女はなぜスマホのアクセサリーみたいな手軽さで、蟹の手ほどの電工ハサミを持ち歩いていたのか。そして、あの位置だ。駐輪場に設置された防犯カメラの視線をかい潜る周到さ。背を向けて、犬に密接しながらしゃがみこむ姿だって、隠蔽工作ととれなくもない。ごくありふれた風景の一部として、なんの違和感もない、誰だって欺いてしまえるだろう。まさか、いや……もし、ぼくの憶測が正しければ……