第4話

文字数 1,813文字

 その日、俺は所々浮足立っていた。例えば仕事中にミスをしたとか、心ここにあらずとか、そこまでひどい状態ではなかったものの、ふとした瞬間にまるで別のことを考えている自分がいた。しかしそれは憂鬱や煩悶から来るものではなかった。寧ろ、それは今日一日を乗り切るための原動力ですらあった。
 仕事が終わると、俺はいつも通りすぐに帰路についた。帰路とは雖も、真っすぐ自分の家に帰るわけではない。当然だ。俺は親父の世話に行かなければならない。親父の家に行ってから家に帰るルートを自分の帰路だと認識している事実に、俺は苦笑してしまった。
 親父の家に着いた俺は、たちどころに世話を済ませた。やはり腹の立つことは多々あれど、しかし、それを一々気に留めている場合ではなかった。再び車に乗った俺は妻に一言連絡を入れた。
 返信を待つこともせず、俺は車を走らせた。水でにじんだ水彩画のように流れていく街並みの、そのネオンライトの嫌味なばかりの明るさが、今の俺には輝いて見えた。
 家の駐車場に車を停める。いつもより少し時間がかかった気もするが、時計を確認するといつも通り、いや、むしろ少し早いくらいの時間で着いていた。軽く息を吐き出し、車を出た。
 俺の買ったマイホームは、親父のそれと比べると劣等感を覚えるほどには陳腐で、狭い。けれどそれでいいのだ。俺は親父のようにはなれない。なりたくもない。
 「ただいま」
 扉を開けると、リビングの方から間の抜けた声が聞こえてきた。
 「おかえりい」
 「おう。帰ってきてたか」
 何事もなかったかのように、白々しくリビングの中に入る。スーツを脱ぎ、部屋着に着替える。本当は、今日帰ってくることくらい知っていた。俺が帰ってくる頃には家についていることも知っていた。けれど俺は、それをおくびにも出さなかった。
 久しぶりに見た息子の顔は、どこかたくましくなっているように見えた。就活は相当難航したと聞いている。それでもちゃんといい企業から内定を貰っている。身内贔屓だと笑われてしまうかもしれにないが、そういう芯の強さが表情に現れているように思われる。
 思わず俺は息子の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 「なにさ」
 息子は笑いながら不満を口にした。俺は口元からこぼれ出る微かな吐息を感じた。
 飯を食う前に簡単に風呂を済ませ、久し振りに3人で食卓を囲んだ。妻には失礼かもしれないが、料理を味わったことすら、久し振りのような気がする。息子の話を聞いた。就活の話、大学の話、バイトの話。他愛もない会話だ。けれど、今の俺にはその他愛のなさを愛おしく思えた。
 食事を終えると、息子は自分の部屋に戻って行った。家を出て約4年になるが、部屋はそのままにしてある。
 俺は妻と二人でテレビを見ていた。もう年の瀬が近い。大晦日に音楽番組に出演するアーティストが流れてきた。そこには、姉貴の名前があった。
 それもそうだろう。姉貴はいまや大御所アーティストだ。呼ばれても不思議ではない。
 姉貴は大学に進学し、そこからアーティストとしての活動を始めた。最初、姉貴の活動は細々としたもので、今の華やかな活躍からは縁遠いものだった。当時の俺には最初はそんなものだろうという慰めの気持ちと、このまま志半ばで音楽の道を諦めてしまえばいいのにという相反する気持ちが同居していた。
 俺とは違い、姉貴はいつだって光当たる場所にいた。両親に溺愛され、学校での人間関係は円満で、あまつさえ自分の好きなものに対して才能を発揮できる人。大きな失敗を経験したという話は聞いたことがない。俺にはそれが恨めしかった。ならばせめて、という浅ましく黒々とした感情。有り体に表現してしまえば、嫉妬だった。
 でも結局、姉貴は成功した。俺の手の届かないところにいってしまった。今俺は、姉貴と何年も顔を合わせていない。俺は今姉貴と会った時、どんな顔をするのだろうか。
 同じ家に産まれたのに、たった数年生まれた年が違うだけなのに、俺は姉貴と対等無関係だとは思えなかった。
 それは有り体にいってしまえば、劣等感だった。
 今ままでの自分の人生に、自分が歩んできたものに、そこまで強い不満はない。俺にはもったいない妻がいて、息子は立派になった。これ以上何を望もうと言うのだろうか。これど、姉貴のことを考えると、その幸福に影が落ちる。翳りができる。
 いっそのこと、姉貴がどうしようとないやつならば、俺も救われたのに。
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