#13
文字数 1,254文字
ヌシは沼を凝視している。自身の知らない間にそんなことが、とでも思っているのか。ヌシとはいえ、住処とする一帯は広い。気づかないこともあるだろう。
「そして先月、谷尾葵は恋人の死の真相を知り、彼との子どもを粗略に処分したのを悔いた。恋人を憎む理由がなくなれば、その子を忌まわしく思う理由もなくなります。逆に自身の行いを罪深く思ったでしょう。ならせめて遺体を引き上げ、ちゃんと弔わねばと考えた。だから警察に沼を捜索してもらう計画を実行したんです」
岩永は少しだけお茶の残るペットボトルの蓋を閉じ、それもリュックに詰めてステッキを手にした。
「警察も嬰児の遺体を沼で見つければ慎重に扱うでしょう。谷尾葵に心当たりを尋ねるかもしれません。そうなれば彼女は真実を語り、遺体を弔ってもらえばいい。たとえ彼女に尋ねなくとも、警察は遺体をきちんと弔うのではないでしょうか」
椅子代わりの丸太から立ち上がり、岩永は沼へと近づいた。沼に変化はない。山奥にあれば獣や鳥の水飲み場として使われるだろうし、他の生物も水中に棲息しよう。食物連鎖の中では死体は当然存在するものであり、それがひとつふたつ投げ入れられたくらいで、沼が急に不気味さを増すものでもない。
「ではいずれ沼の底から、あの女の赤子が発見されると?」
ヌシが沼から岩永へ視線を移した。岩永は肩をすくめてみせる。
「されないでしょうね。ヌシ様はさっき言っていました。沼はゴミや獣の死骸で汚れることがあるので定期的に掃除させていると。彼女の赤ん坊が沼に沈められたのはおそらく四年以上前。ならとうに山のあやかし達が取り去ってどこかにやっていそうです。そのあやかし達が人の赤ん坊の遺体を見つけたからといってヌシ様に報告しているとも思えませんし、それを覚えているとも思えませんが」
ヌシは、あっと声をもらした。この仮説の決定的な証拠はもはやない。
「それでもこれがヌシ様の証言と矛盾せず、最もありそうな話では」
岩永はくるりとステッキを振って沼を指し、どこ吹く風で重ねてみせる。
「谷尾葵はかつてこの沼に小さな屍を捨てた。誰にも見つからないよう、夜中にひとり山を登ったのでしょう。だから再び男の屍を夜中に捨てに来るのを思いついた。屍を沼に捨てることによって、より大切な屍を取り戻そうとしたわけです」
ヌシはしばらく沈黙していたが、やがて身じろぎで地面を鳴らし、深く吐息した。
「人間はなんと恐ろしいことを考え、行う生き物か」
「まったくまったく」
「いや、おひいさまも大概ですが」
岩永がせっかく同意してみせたのに、ヌシは身を震わせ、かしこまってそう返す。昔話くらいにしか出てきそうにない櫓のごとき大蛇にそんな扱いをされるとは心外であった。
時間を見れば、市内の公共交通機関は運行を停止している時刻だったが、あやかしの中には空を飛べるものもいるので、それを呼んで送ってもらえばいいだろう。どうやら東の空が紅くなり、鶏の鳴く声が聞こえる前にベッドに入れそうだった。
「そして先月、谷尾葵は恋人の死の真相を知り、彼との子どもを粗略に処分したのを悔いた。恋人を憎む理由がなくなれば、その子を忌まわしく思う理由もなくなります。逆に自身の行いを罪深く思ったでしょう。ならせめて遺体を引き上げ、ちゃんと弔わねばと考えた。だから警察に沼を捜索してもらう計画を実行したんです」
岩永は少しだけお茶の残るペットボトルの蓋を閉じ、それもリュックに詰めてステッキを手にした。
「警察も嬰児の遺体を沼で見つければ慎重に扱うでしょう。谷尾葵に心当たりを尋ねるかもしれません。そうなれば彼女は真実を語り、遺体を弔ってもらえばいい。たとえ彼女に尋ねなくとも、警察は遺体をきちんと弔うのではないでしょうか」
椅子代わりの丸太から立ち上がり、岩永は沼へと近づいた。沼に変化はない。山奥にあれば獣や鳥の水飲み場として使われるだろうし、他の生物も水中に棲息しよう。食物連鎖の中では死体は当然存在するものであり、それがひとつふたつ投げ入れられたくらいで、沼が急に不気味さを増すものでもない。
「ではいずれ沼の底から、あの女の赤子が発見されると?」
ヌシが沼から岩永へ視線を移した。岩永は肩をすくめてみせる。
「されないでしょうね。ヌシ様はさっき言っていました。沼はゴミや獣の死骸で汚れることがあるので定期的に掃除させていると。彼女の赤ん坊が沼に沈められたのはおそらく四年以上前。ならとうに山のあやかし達が取り去ってどこかにやっていそうです。そのあやかし達が人の赤ん坊の遺体を見つけたからといってヌシ様に報告しているとも思えませんし、それを覚えているとも思えませんが」
ヌシは、あっと声をもらした。この仮説の決定的な証拠はもはやない。
「それでもこれがヌシ様の証言と矛盾せず、最もありそうな話では」
岩永はくるりとステッキを振って沼を指し、どこ吹く風で重ねてみせる。
「谷尾葵はかつてこの沼に小さな屍を捨てた。誰にも見つからないよう、夜中にひとり山を登ったのでしょう。だから再び男の屍を夜中に捨てに来るのを思いついた。屍を沼に捨てることによって、より大切な屍を取り戻そうとしたわけです」
ヌシはしばらく沈黙していたが、やがて身じろぎで地面を鳴らし、深く吐息した。
「人間はなんと恐ろしいことを考え、行う生き物か」
「まったくまったく」
「いや、おひいさまも大概ですが」
岩永がせっかく同意してみせたのに、ヌシは身を震わせ、かしこまってそう返す。昔話くらいにしか出てきそうにない櫓のごとき大蛇にそんな扱いをされるとは心外であった。
時間を見れば、市内の公共交通機関は運行を停止している時刻だったが、あやかしの中には空を飛べるものもいるので、それを呼んで送ってもらえばいいだろう。どうやら東の空が紅くなり、鶏の鳴く声が聞こえる前にベッドに入れそうだった。