第32話 霧の日に現れた船のこと
文字数 1,710文字
ある時、キリキリヤに奇妙な船が着いたことがあった。かの港はレピ川の注ぎ口に位置し、二つの岬に挟まれて波はやわらかく、そのわりに水深のふかい良港だが、霧の出る日が多く、ミズレーン(西からの季節風が弱まる初夏の頃)には五日に二日も霧に塞がれてしまう。その船が着いた日も、街なかで遭難者の出るような濃霧であったそうだ。
一人の年老いた水夫が、妻に家から追い出され、やむなく港で過ごしていた。たいていの霧は昼に薄くなるものだが、その日はますます濃くなるようだった。三歩先も見えないなかで、歩き回って水路に落ちてもつまらない。彼は道端に積んであった木箱の上に腰かけて、バズフの枝を噛みながら、誰か似たような目に遭って外へ出てこないかと考えていた。外套すら着て出られなかったせいで、毛織のシャツが湿って体を冷やしていた。
長く留まることはできないと悟って立ち上がった時、彼は海上の霧がぼんやりと光っていることに気が付いた。太陽は中天にあるはずだから、きっと船の灯りだが、このような時に無理に港に入ったとして、誰がそのもやい綱を受けるのか? 霧は濃い乳色のままで、そんな風に光るものを彼は一つも知らなかった。それに、波の音はあまりにも静かだ。船を進めるのが櫂でもなく、風でもないなら、一体、何だというのだろう?
彼は海に背を向けて走り出し、手あたりしだいに激しく戸を叩いた。開けてくれる家にあたるまで、恥も外聞もなく叫びつづけたので、その声を聞いたという人は、何人もいる。
翌日、霧の晴れたキリキリヤの港には、二段櫂の古風なゴアール船が繋がれていた。小癪な舞踏会の靴のように反りあがった船首はウミタカの頭の形をしており、船全体もそれにふさわしい濃紺と緑に塗られていた。羽を畳むように引きあげた櫂のほとんどぎりぎりまで水が来ている様子から、漕ぎ手はまだ船にいると思われた。二本のマストに張られた長方形の帆は、片側は炎のような赤地に白の波をあらわし、もう片側は黒地に金色で三頭の竜が描かれていたという。人々は風で帆がきらきらと光るのを見て、それが金銀の糸であることを知った。だが、誰もその紋の主を知らなかった。さらに奇妙なことに、どんなに呼びかけても、船からは誰も降りてこなかった。
得体の知れない船のことを知ったキリキリヤの総督が兵士に中を改めさせたが、船には誰一人乗っておらず、一つの船荷も見当たらなかった。持ち主だと名のり出る者は多かったが、どうやってこの船を港へ入れたのか誰も説明できず、また再現もできなかった。
二、三日もすると、船を改めた兵士たちが船の上で魔物を見たという噂が広まった。影の数が合わなかったというのだ。乗り込んだ人数よりも、はるかに多い影を船の上で見た、と。総督は恐れて火を点ける者が出ないよう、船のそばに昼夜の見張りを置いて、王の判断を仰ぐべく遣いを走らせた。
また、霧の日だった。見張りを命じられた兵たちは、船からの笑い声を聞いたとか、鬼火を見たとか、何かと奇妙な経験をしたので、早々に身代わりを立てて波の音から遠ざかっていた。港は静かだったという。港を閉じるほどではないとしても、この時期のキリキリヤを知る者ならば、立ち寄ろうとも、あえてそこから発とうともしない。
その日、その時、船の前で番をしていたのは、秋に生まれる初めての子のために心を奮い立たせた船大工の若者だった。彼は、一人の浮浪児が船へ近付いてくるのを見て、引き返せと声をかけた。いつも港をうろついている少年の一人で、長く住む者にとっては見知らぬ顔でもない。殴ったり蹴ったりはしたくなかったのだろう。少年はふだんと全く違う、青銅の鐘のような声で答えた。
「止める必要はない。私が不輝城の新しい主である。お前は伴をせよ」
港にいあわせたわずかな人々は、船大工がすぐさま桟橋から船へ傾斜路をかけ渡し、もやいを解いて、少年の後から船へ乗り込むのを見た。船が岸から離れると、音もなく櫂が海へ伸び、あっという間に船を入り江の外へ運び去った。そのあいだ、二人とも一度も岸を振り返らなかったそうだ。やがて霧が船を覆い隠して、その後の消息は杳として知れない。
一人の年老いた水夫が、妻に家から追い出され、やむなく港で過ごしていた。たいていの霧は昼に薄くなるものだが、その日はますます濃くなるようだった。三歩先も見えないなかで、歩き回って水路に落ちてもつまらない。彼は道端に積んであった木箱の上に腰かけて、バズフの枝を噛みながら、誰か似たような目に遭って外へ出てこないかと考えていた。外套すら着て出られなかったせいで、毛織のシャツが湿って体を冷やしていた。
長く留まることはできないと悟って立ち上がった時、彼は海上の霧がぼんやりと光っていることに気が付いた。太陽は中天にあるはずだから、きっと船の灯りだが、このような時に無理に港に入ったとして、誰がそのもやい綱を受けるのか? 霧は濃い乳色のままで、そんな風に光るものを彼は一つも知らなかった。それに、波の音はあまりにも静かだ。船を進めるのが櫂でもなく、風でもないなら、一体、何だというのだろう?
彼は海に背を向けて走り出し、手あたりしだいに激しく戸を叩いた。開けてくれる家にあたるまで、恥も外聞もなく叫びつづけたので、その声を聞いたという人は、何人もいる。
翌日、霧の晴れたキリキリヤの港には、二段櫂の古風なゴアール船が繋がれていた。小癪な舞踏会の靴のように反りあがった船首はウミタカの頭の形をしており、船全体もそれにふさわしい濃紺と緑に塗られていた。羽を畳むように引きあげた櫂のほとんどぎりぎりまで水が来ている様子から、漕ぎ手はまだ船にいると思われた。二本のマストに張られた長方形の帆は、片側は炎のような赤地に白の波をあらわし、もう片側は黒地に金色で三頭の竜が描かれていたという。人々は風で帆がきらきらと光るのを見て、それが金銀の糸であることを知った。だが、誰もその紋の主を知らなかった。さらに奇妙なことに、どんなに呼びかけても、船からは誰も降りてこなかった。
得体の知れない船のことを知ったキリキリヤの総督が兵士に中を改めさせたが、船には誰一人乗っておらず、一つの船荷も見当たらなかった。持ち主だと名のり出る者は多かったが、どうやってこの船を港へ入れたのか誰も説明できず、また再現もできなかった。
二、三日もすると、船を改めた兵士たちが船の上で魔物を見たという噂が広まった。影の数が合わなかったというのだ。乗り込んだ人数よりも、はるかに多い影を船の上で見た、と。総督は恐れて火を点ける者が出ないよう、船のそばに昼夜の見張りを置いて、王の判断を仰ぐべく遣いを走らせた。
また、霧の日だった。見張りを命じられた兵たちは、船からの笑い声を聞いたとか、鬼火を見たとか、何かと奇妙な経験をしたので、早々に身代わりを立てて波の音から遠ざかっていた。港は静かだったという。港を閉じるほどではないとしても、この時期のキリキリヤを知る者ならば、立ち寄ろうとも、あえてそこから発とうともしない。
その日、その時、船の前で番をしていたのは、秋に生まれる初めての子のために心を奮い立たせた船大工の若者だった。彼は、一人の浮浪児が船へ近付いてくるのを見て、引き返せと声をかけた。いつも港をうろついている少年の一人で、長く住む者にとっては見知らぬ顔でもない。殴ったり蹴ったりはしたくなかったのだろう。少年はふだんと全く違う、青銅の鐘のような声で答えた。
「止める必要はない。私が不輝城の新しい主である。お前は伴をせよ」
港にいあわせたわずかな人々は、船大工がすぐさま桟橋から船へ傾斜路をかけ渡し、もやいを解いて、少年の後から船へ乗り込むのを見た。船が岸から離れると、音もなく櫂が海へ伸び、あっという間に船を入り江の外へ運び去った。そのあいだ、二人とも一度も岸を振り返らなかったそうだ。やがて霧が船を覆い隠して、その後の消息は杳として知れない。
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