贈り物    前編(執筆者:ミシェロ)

文字数 2,949文字

ひまりは争いなど眼中になかった。あるとすればそれは自分が死ぬ時だ、そう考えていた。けれど彼女にとっては砂漠の小石程度な思いでしかなかった。彼女は今それを経験していた。ぐわさぐわさと草が激しく波を打ち、敵意を検知したように耳をピンと飛び上がらせ、影が自分を覆った瞬間、ウサギは茂みの安地へと駆け出した。ふいとリスが木に作り上げた家から顔をのぞかせその様子を見つめる。


 はっきりと映ったその姿が忘れられなかった。彼にとってそれは珍しく、神秘でさえ思った。二つのすらりとした足で前へと進み、2つのこれまた長くふっくらとした長い手を振り、彼女は加速を得ていた。


 そんな熊に似た体躯を持ち、何かをおびき寄せるような香りを放つ彼女に彼には警戒の命令が下る。その瞬間、「ギャー!」という威嚇に彼は家に転がり込んだ。けれど威嚇の正体もまた彼と同じ気分だった。


「グオー!」


 まるで自分を地に打ち上げられ逃げ惑う魚のように睨みをきかせ、フサフサで柔らかそうな毛並みと対極する、用途が攻撃のほかに考えられない五本の爪。彼女は青ざめた顔で振り向いた。

 雨上がりの朝、小鳥たちの合唱など酔いしれる間もなく、ひまりは一心不乱に生を噛みしめていた。


「ごめんってば! あんなに丸まってたら、誰でもクッションの贈り物だと思うって!」

「グオー!」

 大雑把な言い訳に両手をぱちんと合わせ、謝罪の意を示すも、彼の鬼に似た表情は一ミリもぶれなかった。やはり熊はテディベアに限ると嫌でも思った。リスたちの集会場を横切り標的の攪乱を狙う。けれど彼は迷うことなく彼女をかぎ分け、追いかける足を止めなかった。

 動揺などする暇もなく、木々の生い茂る道を駆け抜ける。見えてきたのは木の下に誰かが掘った通り穴。それは無茶をすれば自分が抜けられるほど大きさのあるチャンスだった。これに乗らない手はない。服の心配なんてしていられず、私はできるだけ体を伸ばし、穴の中へと突っ込んだ。その勢いは何にも止められることなく、ずざりと地を滑った。

「やったー! ラッキー!」

「グオオ!」

 喜びと共に現れた絶望。熊の怒りに穴など関係なかった。彼は自慢の力で木を引っこ抜き、赤く光る眼を彼女に見せつけた。ひまりは笑顔を引きつらせた。高揚を背に彼女は全速力でその場を駆けた。後ろを振り返ると彼は自分の力を見せつけるように全ての木々をなぎ倒し進み始めた。これなら逃げられる。


 今度はこれまた広い大切り株に囲われた集会場に躍り出たとき、どたどたどたと固い何かと衝突した。彼女の目にはボブショートで赤髪の女の子が映った。


「ごめんなさい!」

「まったく危ないだろ!」

「危ないだろ!」

 ピンと垂れるようにラインを見せる耳。土色に似た肌の色に大きく角ばった鼻。そして低い声の割に自分より一回り小さな体躯を持った2人の少年が彼女を指さす。けれど彼女の頭には今にも迫る彼が頭から離れていなかった。


「大丈夫よロリィ、エルフィス。ケガはしてないから。あまり森は走らないようにね。それじゃあねー」

「ちょちょっ! 危ないって!」

 彼女たちはハーモニカを口にくわえ無邪気な子供のように夢を歩きだした。こちらを睨み復讐に燃える熊を目前に、彼女の服は私の差し出した救いの手からするりと離れた。もうだめっ。何も変えられない。あのときと同じだ。


「すたこらさっささーのさー。すたこらさっさっさのさー」


 ハーモニカの楽譜を踊り、耳に震えた彼女の言葉は私を光に呼び起こした。私はその光景に絶句し、口元は仕事を忘れかぱりと開いたまま、立ち尽くしていることで精いっぱいだった。何が起こったの。奇跡が起きたみたいだった。

 復讐に燃えていたはずの彼は差し出された彼女の手を取り、まるで人のように二本足でスキップ混じりに踊り始めた。ぎらりと光っていたはずの手の凶器は消え、小さな彼女とくるくると優雅な回りを見せる。残りの二人は止める様子もなく、ぷーと音楽を続け、彼女たちの世界に彩りを加えてゆく。その世界は怪しくあっても、心地よくもあった。


 なんてきれいな世界なんだろう。思わず口にしていた。その言葉に試験で現実を見せられたような絶望を塗ったような顔で4人は私をみた。

「あなたも混ざる?」

 憂いに満ちた笑顔で彼女は私に手を差し出した。草を駆け彼女の手を取った瞬間、また彼女はその言葉を口にした。


 すたこらさっささーのさー、すたこらさっさっさのさー。

 なんだか絵本が懐かしい。まるで今その場にいるみたいに過去の記憶が沸き上がって来る。忘れもしない、あれは兄さんが買ってきてくれた。


 違った。絶望を塗られていたのは私だった。そうだ。兄さん。どこに行ったの? 私の目がいままでになく大地を、空を駆け巡る。けれどそこに誇らしく頼れる大きな背中はなかった。あったのは音楽に世界を広げる彼らと観客の鳥たちだけだった。


 熊もさすがに満足したのか、魔法が解けたように草木をかきわけ走り出す。彼女はバイバーイ、と声を張り上げ手を振った。そして魔法がとっくのとうに解けていた私はひやりと冷たい切り株の椅子に座りこんだ。

 兄さん。紫苑はいつも私の前にいた。ピンチのときはすぐさま私の前に現れ、救ってくれた。あのときもそうだった。自分の命よりも他人の命を大切にする人だった。けれどそれは自分の命を失うことよりも辛い。誰かに心臓を掴まれたようにぎゅっとしめつけられる感覚になる。会いたい。茂みの中からひょっこり出てきてほしい。けれど、その願いは叶わなかった。

 生きていると信じたい。でも私も生きているのかな。踊る熊に絵本の人物に似た女の子。きっとここは天国なんだ。そうに違いない。するりと音楽が私から飛び出した。


「どう? すごいでしょ? これが私の贈り(ギフト)よ。すごいでしょ?」

「当然! 音楽を奏でるだけでどんなに怒れる猛獣もころりと甘えてしまう能力! ルビィ以上のものはありますまい!」

「そうだ、そうだ!」

「あなたの贈り物は?」

 まるで名前を聞くようにあっけらかんと意味ありげな言葉を口にした。けれど専門家でない私は赤鼻のトナカイに道をゆだね、空を駆けるお爺さんのことした考えていなかった。私はずっと欲しかったヒールの話をしようかと思ったが、飲み込んだ。


「どちらにせよ、ルビィさんの足元には及びませんさー!」

「そうだね!」

「ちょっ、ちょっと待って。贈り物って一体どんなものなの?」

 ルビィは小笑いの顔でふふふと喜びを見せ、口を手で隠した。

「贈り物は贈り物よ。神様が私達に施してくれた素晴らしい力。それが贈り(ギフト)よ」


 贈り物の不思議な能力。ひょっとしたら私も「すたこらさっさっさーのさー」と歌えば、あの熊と踊れたりしたのだろうか。それだったらうれしいけれど、頭の中では冷静に最悪の結末がよぎっていた。それでもわかることがあった。私の何かしらの能力、贈り物が備わっているはず。それを見つけよう。そして再開するんだ。私の兄さんに。
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