5 「市民」とは誰のことか?
文字数 3,107文字
簡単に、一般論として語り直してみよう。
欧米諸国の場合、人を裁く権利を国家権力が牛耳ってしまうと、とんでもない独裁的横暴がまかりとおってしまうかもしれない、ということへの危惧が根っこにある。
つまり、国(君主)に逆らうやつは、こいつも死刑! あいつも死刑! みーんな粛清しちまえ! みたいな横暴を許してはいけない、とするマインドがあるんだ
だからこそ、国家的暴力から身を護るためにも、人を裁く権限は国(君主)へ丸投げしちゃいけない、むしろ、自分たちの側で裁くべきだ、お上に委ねちゃいけない、とする姿勢が育っている。
つまり、裁判へ参加することは国家的横暴にストッパーをかけられるという意味でね、手放すことのできない必須の市民権なんだよ
対して日本の場合、お上の性善説というか、お上は決して悪いことしない、いつだって公正だ、みたいな、なんていうか、家畜化されたマインドを市民はもっている。
だから朝倉君のように、100%裁決をお上に丸投げしても、それを権利の放棄だとは思わないし、そもそもそんな発想がでてこない
いま、ぼくが問題にしているのは、マインド、そもそもの根っこにある思想だよ。
欧米の場合、簡単にいうと、主権を握っているのは国家ではなく自分たち市民だ、というマインドがある。
だから主権者である市民による選択こそ、もっとも尊重されるべき選択なんだよ。
素人だから間違える。専門家の方が正しい。とか、そういう問題ではなく、そもそも最終的な権限は誰にあるのか、そりゃ市民だろうっ、ってのが欧米さ。
「正しい/間違い」とか、それ以前の問題としてね、決めるのは市民! なんだよ
ちなみに、素人である市民が裁くと、感情に流されてしまい、なんでもかんでも有罪になってしまい、かつ刑罰も重くなるのでは? という印象を受けるよね?
けど実際はさ、小坂井さんが紹介する国際的なデータによると、市民が裁くより、専門家である裁判官が裁く方が厳罰化していく傾向があるんだ、明らかにね
実際は逆。
国家(プロ裁判官)は厳罰を好む。
それとね、また別の話になるが、日本の裁判員制度では、なんだかんだいって主導権は裁判官の方にあると見てよい。
実情は小坂井さんの著書に詳しいけど、簡単にいうとね、結局は市民を信用してないんだ、そう思う
あ、わかりますよ。
ぼくいま、行政の世界で仕事してるんでね。
なんていいますか、市民参加なんて所詮はタテマエですから。
ぼくらも、市民委員とか募集したりしてね、会議とか開いて広く市民の意見を聴取~なんてやってますがね、あれ、ポーズだけですから。
市民の意見をちゃんと聞いてますよ~みたいな。
あるいは、ホントは行政サイドで、自分たちだけで意思決定してるんだけど、「これは市民の要望・意見に基づいて決めたものだ~」的なものにしちゃってね、正当化のツールに使うとか
行政が主導してる市民参加のすべてがタテマエとはいわないが、まぁ、多いだろうね。
ぼくも市民委員とか、そういうのに参加したこともあるけれど、なんていうか、「あ、これ、一種のセレモニーだな」と思ったよ。ガッカリした。
正直、参加するのも時間のムダだと思った。
もちろん、ちゃんとした市民参加の仕組みをもってる自治体もあるだろうけど
長くなるから、このへんで止めにするけどね、裁判の観点から眺めてみるとね、欧米と日本の「市民」意識の違いがね、政治参加のレベルで比較するより、ぐっとハッキリ見えるようになる、ってことだけ指摘しておくよ。
すでにアリストテレスの時代からね、「市民」の定義に、裁判への参加が柱として加わっていたんだ
[参考文献・引用文献]
・『アリストテレス全集17 政治学・家政論』神崎繁・相澤康隆・瀬口昌久訳、岩波書店、2018
・小坂井敏晶『人が人を裁くということ』岩波新書、2011