5 「市民」とは誰のことか?

文字数 3,107文字

さてと、ぼくらはいま、「市民社会」について考えてるんだよね
えぇ
となると、まずはそもそも「市民」って何なのさ、ってことを考えておくべきだろう
でしょうね

アリストテレスは『政治学』の中でね、「市民」について定義をしている。

そこは注目しておきたい。

これがね、後々まで影響を、ていうか、今日まで影響を与えていると思うんだ

なんていってんですか?
引用しよう
「無条件の市民を他の何よりも定義づけるのは、判決と支配にあずかるという点である」[『政治学』:P130]
「審議や判決にかかわる公職への参与を許されている者がその国家の市民である」[『政治学』:P132]

簡単にいうと、「市民」というもののメルクマールはね、

①政治への参加

②裁判への参加

だってことさ

でね、これら市民がもっとも市民らしくなるのは、つまり政治や裁判に参加できるようになるのは、とりわけ民主制(共和制)においてだ、と指摘している。

まぁ、当たり前だけどね

まぁたしかに、市民っていう言葉を強い意味で用いるときは、住民自治というか、なんというか、政治参加のニュアンスが強いような気がしますね

お~い、なにを聞いてたんだ。

①政治への参加、だけでは「市民」として片手落ちなんだよ。

裁判への参加もね、同じくらい重要!

裁判への参加?
古代ギリシアの人たちがね、具体的にどういうカタチで政治的な参加をし、裁判へ参加していたかについては「第2章:公共性とは何か?」で解説したいと思うから、ここでは飛ばすけど、まずはぼくら日本人がね、「市民」について論じるときはさ、たいてい①の政治参加ばかりに目がいってしまい、②裁判への参加が視野から完全に落ちちゃってる、ってことはね、指摘しておきたいね、声を大にして
それが、そんなに大事なことなんですか?

大事!

そこが見えてないと、欧米の「市民」観と、日本人がいう「市民」観とのズレに気づかないまま、トンチンカンな話をしてしまうことになる

「市民」を定義するに民主的な政治参加ばかりを意識していると、欧米における「市民」意識と日本における「市民」意識の大きな違いが見えなくなる
たとえば、社会心理学者・小坂井敏晶さんは『人が人を裁くということ』(岩波新書、2011)で、次のように語っているが、参考になるだろう
「司法への参加が、日本では義務として認識され、欧米では逆に、国家権力から勝ち取った市民の権利として理解されている。素人の判断力を危ぶむ日本。しかし欧米では裁判官より市民の判断に重きをおく」[小坂井:ⅱ‐ⅲ]
いわゆる日本でいう裁判員制度の話ですね
朝倉君は裁判員に選ばれたら、どう思う?

反応は人それぞれでしょうが、ぼくには、ちょっと重荷ですかね。

専門家だけで審議してくださいよ~みたいな

もう少し引用してみる
職業裁判官よりも市民の判断を重視する傾向は諸外国で一般に強い。(中略)英米をはじめ、コモン・ロー(慣習法)に基づく司法体系を持つ諸国では陪審制が採られ、裁判官は事実認定に加われない。有罪を決定するのは市民であり、職業裁判官は口出しできない。陪審員の出した有罪判決が明らかに誤りだと思われる場合に、裁判官が無効宣言することはある。しかしその逆に、無罪判決を覆す権限は裁判官にない」[小坂井:P9-10]

簡単に、一般論として語り直してみよう。

欧米諸国の場合、人を裁く権利を国家権力が牛耳ってしまうと、とんでもない独裁的横暴がまかりとおってしまうかもしれない、ということへの危惧が根っこにある。

つまり、国(君主)に逆らうやつは、こいつも死刑! あいつも死刑! みーんな粛清しちまえ! みたいな横暴を許してはいけない、とするマインドがあるんだ

だからこそ、国家的暴力から身を護るためにも、人を裁く権限は国(君主)へ丸投げしちゃいけない、むしろ、自分たちの側で裁くべきだ、お上に委ねちゃいけない、とする姿勢が育っている。

つまり、裁判へ参加することは国家的横暴にストッパーをかけられるという意味でね、手放すことのできない必須の市民権なんだよ

対して日本の場合、お上の性善説というか、お上は決して悪いことしない、いつだって公正だ、みたいな、なんていうか、家畜化されたマインドを市民はもっている。

だから朝倉君のように、100%裁決をお上に丸投げしても、それを権利の放棄だとは思わないし、そもそもそんな発想がでてこない

でも、素人が裁くより、専門家が裁いたほうが正しい結論に至るのでは?

いま、ぼくが問題にしているのは、マインド、そもそもの根っこにある思想だよ。

欧米の場合、簡単にいうと、主権を握っているのは国家ではなく自分たち市民だ、というマインドがある。

だから主権者である市民による選択こそ、もっとも尊重されるべき選択なんだよ。

素人だから間違える。専門家の方が正しい。とか、そういう問題ではなく、そもそも最終的な権限は誰にあるのか、そりゃ市民だろうっ、ってのが欧米さ。

「正しい/間違い」とか、それ以前の問題としてね、決めるのは市民! なんだよ

ちなみに、素人である市民が裁くと、感情に流されてしまい、なんでもかんでも有罪になってしまい、かつ刑罰も重くなるのでは? という印象を受けるよね?

けど実際はさ、小坂井さんが紹介する国際的なデータによると、市民が裁くより、専門家である裁判官が裁く方が厳罰化していく傾向があるんだ、明らかにね

へぇ、意外ですね。

無知な市民は暴走、裁判官はストッパー、みたいなイメージをもってましたが・・・・・・

実際は逆。

国家(プロ裁判官)は厳罰を好む。

それとね、また別の話になるが、日本の裁判員制度では、なんだかんだいって主導権は裁判官の方にあると見てよい。

実情は小坂井さんの著書に詳しいけど、簡単にいうとね、結局は市民を信用してないんだ、そう思う

あ、わかりますよ。

ぼくいま、行政の世界で仕事してるんでね。

なんていいますか、市民参加なんて所詮はタテマエですから。

ぼくらも、市民委員とか募集したりしてね、会議とか開いて広く市民の意見を聴取~なんてやってますがね、あれ、ポーズだけですから。

市民の意見をちゃんと聞いてますよ~みたいな。

あるいは、ホントは行政サイドで、自分たちだけで意思決定してるんだけど、「これは市民の要望・意見に基づいて決めたものだ~」的なものにしちゃってね、正当化のツールに使うとか

行政が主導してる市民参加のすべてがタテマエとはいわないが、まぁ、多いだろうね。

ぼくも市民委員とか、そういうのに参加したこともあるけれど、なんていうか、「あ、これ、一種のセレモニーだな」と思ったよ。ガッカリした。

正直、参加するのも時間のムダだと思った。

もちろん、ちゃんとした市民参加の仕組みをもってる自治体もあるだろうけど

ピンポイントでいうと、ぼくら鷺ノ森市がダメってことですね?
・・・・・・

話を戻そう。

対して、欧米の裁判は、ガチ市民参加ってことさ。

「有罪/無罪」の事実認定にプロの裁判官が口出しできずに、市民サイドで決められてしまう、そんな事例があるってことはね、先に引用したとおり

長くなるから、このへんで止めにするけどね、裁判の観点から眺めてみるとね、欧米と日本の「市民」意識の違いがね、政治参加のレベルで比較するより、ぐっとハッキリ見えるようになる、ってことだけ指摘しておくよ。

すでにアリストテレスの時代からね、「市民」の定義に、裁判への参加が柱として加わっていたんだ

ふ~ん

[参考文献・引用文献]

・『アリストテレス全集17 政治学・家政論』神崎繁・相澤康隆・瀬口昌久訳、岩波書店、2018

・小坂井敏晶『人が人を裁くということ』岩波新書、2011

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・・・・仙人のごとく在野に生きることを愛する遊牧民的活字ドランカー。かつては大学院にいたり教壇に立ったりしていたが、その都度その都度関心があることだけを考えていきたい、という専門性を磨こうとしないスタンス、及び『老子』の(悪)影響があり、アカデミズムを避けた・・・・・・がゆえに一介のサラリーマンである(薄給のため独身、おそらく生涯未婚)。

朝倉恭平(30)・・・・・・ご近所の鷺ノ森市文化創造センターに契約職員として勤務。

(チャットノベル『毒男女ぉパラダイス!!』の登場人物・朝倉5年後の姿)

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