第1話

文字数 1,036文字

バレンタインデーに、甘い話を。
佐竹曙山「この命桜より儚い」(朝陽対月図)より。

その日は、月が美しい晩だった。
私は、月のせいだろうか、久々に寝室に妻の賀を招いた。

「殿」
妻が寝室に入る。
妻は年上で、もう40が近いと言うのに、月夜の光に照らされて、菩薩の様に美しく見えた。

それに比べて、若い私はなんと醜く窶れたことか。
愛する妻を寝室に招いておきながら、もうこの手に抱く事すら叶わない。

思わず目をそらすと、妻はこう切り出した。
「今夜は月が綺麗ですね。」

そう、私は妻とこの月が見たかったのだ。
障子を開けて、縁側に出る。
二人で寄り添って座った。
私にとって、これが愛する妻と最後の逢引きだった。

月を見る。
真っ暗な闇夜にぽっかりと浮かぶ月を。

「月は、まるで私のようだ。
いつもどこか欠けていて、満月の時は少ない。
しかし、回りのものは皆太陽なのだ。 光輝き、恵みまで与える。
なのに、太陽の皆は、月の私に「月よ!お前も輝け」と言う。
私は、満ちてる時でさえ、闇に浮かぶだけで精一杯なのに。」

ポツリと私は呟いた。
私の人生は、一体何だったのだろうか。

私はもうすぐ死ななければならない。
まだ、青年の若さで、秋田にも帰ることも許されず、「異国絵を描いた不届き者の暗君」として死なねばならぬのだ。

私は「絵も政治も真実こそ尊い」とずっと思って生きてきた。
しかし、これが真実なら、なんと残酷なのだろうか。

すると、横にいた妻は、私の気持ちを察したのか、こう切り出した。
「そうかしら? 月でも良いではありませぬか。
いつも日が照っていたら、日があることに気がつきませぬ。
夜があるから、日が尊いのです。
確かに、あなたの歩んだ道は闇ばかりだったかもしれません。
しかし、闇が深ければ深いほど、月が眩しく見えるのではありませぬか?
あなたが月だとおっしゃるなら、あなたはこれほどに美しい。」

妻はにっこり微笑んだ。
私は思わず本音がこぼれる。
「愛している」

「え?」
「いや、ありがとうと言ったのだ。」
そう言いながらも、不器用な私はどうしたら良いか分からず、妻を引き寄せると、唇を重ねた。

ああ、妻と見たこの月を描いて死にたい。

この月と太陽の絵は、漢詩から引用していると曙山は残している。
しかし、漢詩に出てくる肝心の僧の姿はない。

妻と曙山の最後の逢引き「朝陽対月図」は、曙山の最後の絵となった。


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