第36話 ポイ捨てバカに常識を説くのは徒労に終わるという話。

文字数 4,129文字


 先日、某SNSで、ネコを外飼いしているというオッサンが、集中砲火を浴びていた。
 知らない人ではない。以前、相互フォローだったのだが、前々から言動が頑迷固陋なうえに微妙に非常識なので、そっとフォローを外させてもらっていた人物だ。
 その男いわく『屋外を自由に歩き、ネズミやスズメなどの小動物を狩ることは、ネコの本来の姿であり、それこそがネコの本当の幸せなのであるから、俺のやっていることは正しい』だそうで、あろうことか、飼い猫がスズメを殺し、ネズミを食らうさまを画像でアップしていた。
 だが、そんなことを言い出すなら、犬はどうだろう? 彼等本来の姿、というならば、首輪などつけずに群れで放し飼いをし、シカやイノシシを狩って生で食わせないと幸せではないことになるのではないか。
 牛や馬も、草以外の餌を食うのは不幸だし、雨風を凌ぐ小屋などに入れてはいけない。
 また、空を飛ぶのが本来の姿である、鳥類の籠飼育など言語道断。アヒルやガチョウなどの本来渡りの性質のある鳥にいたっては、本能を満たすため夏は北方へ渡らせねばならなくなる。
 そんなことをそれぞれの飼い主が始めれば、どんだけ周囲に迷惑か、どんだけ生物たちに負担がかかるか、分からないほどアホなのだろうか?
 ネコは小型で、これまで放し飼いが習慣とされていたため目立たないだけで、充分に迷惑な存在なのである。
 そもそもネコは、すでに家畜化された生物であって、野生動物ではない。
 もちろん、野生の衝動は持っている。だが、それを全解放することを、果たして彼ら自身が望んでいるかというと、これは彼ら自身にしか分からない。飼い主とのじゃれ合いで充分かも知れないし、それなりにストレスを溜めているかもしれない。
 だが、室内での飼い猫の寿命は十数年。二十年生きるネコもいる。これに対して野良猫の寿命は二年から五年と言われている。それだけでも、閉じ込められるストレス以上に、室内飼育がネコの健康に良いと、言い切っても良いのではなかろうか。
 狩りをして生きる、本来の姿を取り戻させるということは、野外生活におけるリスクも同時に背負うことになるのだ。
 野生の小動物に、どれほど多くの寄生虫や病原体がいるか、それがどれほど致命的となり得るか、この男は知りもしないのであろう。また、ネコを狙える、あるいはライバルとなり得る他の野生生物の存在も、欠片ほども頭になかろう。
 ある、と言うかもしれない。だが、仮にあったとしても、想像の中の話だ。
 いわゆる『砂糖菓子のように甘い』自然観しか持っていないことは容易に想像がつく。
 なにしろ、人間自体がその『甘い』環境に慣れ切っているのだ。多くの人が単に『電気と火と安全な水』がない状況に置かれたくらいで、何もできなくなるのが、その証拠だ。
 アウトドアとか田舎生活とかいっても、いつでも『電気と火と安全な水』がある世界に戻れる奴が、それを基準にして自然を搾取しているだけにすぎない。
 自分はぬくぬくと文明の恩恵に浴しながら、ネコには屋外でのリスクを負わせ、危険や問題はあっても『自由に比べりゃ、リスクなんか大したことはない、それが自然の姿だ』とか言っているという構図だ。
 そりゃ大したことはないわな。外で病気になったり、野犬やアライグマに襲われたり、自動車に轢かれたりするのは、ネコであって自分ではないのだから。
 自分の行動、ネコの行動が、周囲にどれほど影響を与えるか、迷惑かも、何も分かっていないし分かろうともしていない。
 ネコの捕食圧が、野鳥や小動物、場所によっては絶滅危惧種の個体数に影響を与えることについては、いくつも論文が出ているのだ。
 法や常識よりも、己の信じる正義を貫く。と言えば聞こえはいいが、それで多くの人に迷惑をかけ、社会や生態系に余計な負荷をかけ、ネコを危険にさらしているなら、そんなものはただのわがまま、社会不適合にすぎない。
 今更生き方を変えられないのは勝手だが、それを正義と信じ込んでSNSで世界に発信するとなどいうのは、極めて悪質。害悪以外の何ものでもない。
 また、狩猟への衝動以上に、飼いネコは成獣になっても『子供』だと知るべきだ。
 幼獣と同じような声で鳴き、人間にすり寄り、乳を吸うしぐさで布団を吸う。そうして、生涯子供っぽい状態を保つことで、愚かな人間どもが自分の世話をし、健康を維持してくれ、種の繁栄にまで手を貸してくれるわけであり、それが奴らの生存戦略といっても過言ではない。
 家畜やペットを、自然に近い姿で愛でたいというのは、個人の勝手であるが、どうしてもそれをしたいなら、周囲に迷惑かからないよう、自分でバイオスフィア作ってその中でやれ。

 と、ここまでネコの話を一気に書かせてもらったが、これがどうして主題の、ポイ捨てバカに常識を説くのは徒労に終わる、という話につながるのか?
 これほど徹底的に、その相手の持論の矛盾点、問題点を上げ、科学的根拠をもって論難しても、決してこの男は、その生き方、ネコの飼い方を決して変えたりはしないだろうからだ。
 まず、この男や同じ考え方の人間が、俺の文章を、きちんと読む可能性が極めて低い。
 無数にあるネット情報の中から、この文章にたどり着く可能性がまず低い。
 もし、見つけたとしても、十中八九まじめに読まない。自分を責めているであろう文章を、わざわざ時間を費やして丁寧に読むほど殊勝な人間であれば、あのような傲慢な持論を展開しないからだ。
 仮に読んだとしよう。それでも、俺の伝えたい内容が、正確に本人に伝わる可能性は極めて低い。
 そもそも、正確に読解し、筆者の意図を文章から抽出するには考察の技術がいる。要するに難しい作業なのだ。それは、高校で『現代国語』の長文で満点をとるのが極めて困難であることからも分かるだろう。
 その作業は、一部感情を排して行わなくてはならず、感情に支配された精神状態では、さらに困難となる。
 この男は、「攻撃されている」と感じ、身構え、憤りつつ、文章のあらを探しながら読むから、さらに伝わらなくなるということだ。
 文章とは『受け取った側のもの』である。
 それは、表現と呼ばれるあらゆるものについて同じことがいえる。詩、歌、踊り、絵画や彫刻、写真など、『作品』だけでなく『普通の会話』であってもすべて同じだ。
 『受け取らない』ことも含め、『曲解』しようが『難癖』つけようが『読み違え』しようが、受け取った側に真意が伝わらず、言動が変わらなければ、発信者の『負け』なのだ。
 こうしたハードルをすべて抜け、仮に俺の言いたいことが、正確に伝わったとしよう。
 それでもこの男は、ネコの飼い方を変えたりはしない、と断言していい。
 たとえ理解できたところで、まだ「反論する」という方法がある。俺にその反論を伝えなる必要などない。自分の中でそれなりの言い訳、理由を考えて、自分自身をだませればそれで終了だ。
 もし本当に納得してしまえば、今までの考え方、生き方が間違っていたと認めなくてはならないわけで、つまりは自分の積み上げてきた人生の全否定にもつながる。
 こうした、周囲の迷惑を顧みないタイプの人間が、そんな屈辱を受け入れることは百パーセントない。
 それを乗り越えて、より正しいと思える方向へと価値観をブラッシュアップするのが、本来のあるべき人間の姿であるのだが、年を取るほどそれは難しくなるのも事実である。

 何が言いたいのか。
 ゴミをポイ捨てする人間も、同じなのだ。
 その男が、現在はネコの外飼いが、認められない社会になってきたことを知らないわけではないように、ポイ捨て犯も『ポイ捨てが悪いこと』と知らないわけではない。
 だが、どちらも『本当の意味で悪いこと』だとは思っていない。
 自分なりに理由をつけ、その行為を『やってもいいこと』と自己正当化しているからやれるのだ。
 めんどくさいから、大したことじゃないから、誰かが片付けてくれるから、ここは他のゴミも落ちてるから……正当化とも言えないような、根拠の欠片もないくだらない言い訳が、彼等の拠って立つところである。
 そんな奴らは、「ポイ捨て禁止」の看板を見ても、「ああ、ここは禁止なんだな。じゃあ、あっちならいいだろう」くらいの認識しかない。
 地球上すべてであらゆる「ポイ捨て」という行為が禁止なのだ、とは思わないわけだ。
 誰かに見とがめられ、注意されたとしても、居直って怒るのが関の山。
 「その通り だから 余計に腹が立ち」という川柳があるが、その通りになるだけだ。
 悪いことを本当に悪いことと知っていてやるような人間もいるのだろうが、ごく少数だ。
 そんな人間でも、自分が悪であることに耐えられないから、自分よりも悪いやつを探す。
 自分がこうなのは、社会が悪い、政治が悪い、大人が悪い、アイツの方が悪い、弱い奴が悪い、だまされる奴が悪い……しょうもない愚者の言い訳に過ぎないが、それが彼らの中では金科玉条となる。
 この言い訳づくりは、自己正当化するタイプのポイ捨て人間にも見られる。
 つまり、こうしたポイ捨て人間にポイ捨て行為をやめさせようとして注意しても、その場はいうことを聞くかもしれないが、その後の行動は決して変わらない。
 何故なら、まず、まともに聞き入れない。反発する。そして、自己正当化する。次は見つからないようにやる。という結果になるからだ。
 『ポイ捨て人間』にポイ捨てが悪いことだと理解させるのは、『ダンゴムシにピタゴラスの定理を教えるよりも難しい』と、前にも書いたが、つまりはそういうことだ。
 『分からない』というヤツに教え、そいつに行動を変えてもらうのは、非常に簡単だ。
 『そんなこと分かってる』というヤツに教え、そいつの行動を変えようとしても、ほぼ不可能なのだ。
 ただ、たしかにそれも多様性の範疇ともいえる。
 今、主流だからといって、それが十年後も正しいかどうかは分からないのだから、考え方は色々あっていい。
 だが、どう風向きが変わろうと、ゴミのポイ捨てが正しい行いとされる社会がやってくる可能性は、ほぼゼロに近いと言わざるを得ない。
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