第4話

文字数 12,171文字

 それから私と美佳は優斗を激しく求め、気が付いたころには三人とも服を脱いで裸になっていた。裸になった私は同じく裸になった優斗を抱きしめ、何度も唇を吸って優斗を受け入れた。優斗が私の中に入っていると、私は自分の頭の中で優斗が私の中にある様々な物に触れて、色々な知識を学ぼうとしているような気がした。
 暫くすると、私は受け入れた優斗の案内に疲れて彼から離れた。興味の対象を失った優斗は隣に居た美佳と一緒になり二人だけの時間を共有し始めた。私の貧相な身体とは違い、美佳のふっくらした身体つきは、各部の丸みや豊かな乳房と臀部の膨らみが温もりと柔らかさを強く感じさせる。横から見ると優斗と美佳はくるくるとその場で追いかけっこをして、大人の真似をするようにお互いを求めあっている。美佳は楽しい時間を過ごしているのか、口元に笑みを浮かべて優斗を受け入れて、胸元にある成人した私より大きい乳房を弄ばせていた。美佳の白く大きな乳房は薄紅色の花を思わせる先端部を持ち、はっきりとした女と母性を咲かせて、優斗を幼子に戻している。自分の乳房を弄ばれ、吸い付いてくる美佳にはそれが嬉しいのか、優しく慈愛に満ちた表情で好きな様にさせていた。
 一通り交わった後、私達は生まれたままの姿で横になっていた。周囲には脱ぎ散らかした服や色々な物が散乱し、上から俯瞰すると神話や伝記に基づく話題をテーマにした、ヨーロッパの天井画のように見えるだろう。優斗は私と美佳の間に挟まれて横になり、何もせず呼吸している。私は優斗の方に身体を向けて、汗ばんだ彼の肩に手を回した。その向こうでは、仰向けになった美佳が何かを失った時に見せる表情で宙を見つめている。息を整えていると、下腹部が上下するのに合わせて彼女の乳房が微かに上下する。それぞれの匂いと熱が満ちた部屋の中で、私達三人は限りなく純粋な存在だった。
 私は部屋の角にある丸いアナログ時計を見た。時刻は午後三時五十二分を指していた。柔らかいオレンジ色の光が部屋に差し込み、経年劣化で色あせた絵画のような世界に私達は居た。
「ねえ、優斗」
 隣で横になっていた美佳が優斗に声を掛ける。優斗は私に背中を向けて美佳の方に振り向く。
「わたし、優斗に認められたかな?」
 微笑みながら美佳は質問した。優斗は暫く間を置いてこう答える。
「美佳の気持ちはわかったよ。俺の事を気にかけてくれて、手を添えてくれるから」
 その言葉に答えるように、美佳は自分の身体を優斗に向けた。そして優斗の手をつかみ、自分の乳房に引き寄せた。
「私は優斗の味方だからね。忘れないで」
 美佳の言葉に反応して、優斗は彼女の方に身体を寄せた。私もその後を追ったが、それよりも早く優斗は美佳の元に行ってしまい、口づけを交わした後、胸元に移り白く大きな乳房の先端にある薄紅色の部分を求めた。花のような美佳の乳頭と乳輪を優斗が含むと、美佳は身体を捩り、両手で抱えるようにして深く乳房を咥えさせた。それを見て私も中に入れて欲しいと思ったが、二人は自分達の世界に入ってしまった。優斗は赤子に戻ったように深く咥えた美佳の乳房を吸い、美佳はその光景を暖かな眼差しで見つめて好きな様にさせている。何を飲み込んでいるのだろうか、優斗の喉奥から音が漏れた。
「わたしも」
 疎外感と羨ましさを覚えた私は思わず口走ってしまった。すると美佳は私を見た後、抱えていた手を開いて仰向けになり、もう片方の乳房に来るよう目で促した。私は促されるまま四つん這いで開かれた胸元に移動して、すがるような眼差しで仰向けの美佳の事を見上げた。美佳の瞳は私よりも年上の女性が持つ自信に満ちていて、私の望むままにしていいと目で言った。
 私は美佳の乳房を見つめた後、そっと顔を近づけて薄紅色の乳頭を乳輪ごと口に含んで吸った。美佳の乳房はまだ若い存在だったが私よりも女の味にあふれ、その奥には暖かく柔らかいものが満ちていた。口の中の小さな先端の中から滲み出ている、見えない温かく甘い何かが、私の中の空洞を満たしてゆく。乳房を含んだまま美佳の顔を見上げると、美佳はそっと私と優斗の首筋に手を添えた後、満足そうな笑みを浮かべて目を閉じた。今こうして私と優斗が愛情を貰っている時、甘く熱を含んだ息を漏らす美佳は何を考えているのだろうか。誰よりも慈しみに溢れ、全てを優しさで包み命の源を与える母親の気分と幸福感だろうか。私は口を動かして美佳の豊かで暖かい乳房を吸いながら、久しぶりに自らを誰かに委ねて楽になれる気分を味わった。
 暫くすると、優斗が身体を捩じらせて美佳を独り占めしようとする。私も美佳の乳房をもっと吸っていたかったが、美佳は優しく私を引き離して優斗の事をあやし始めた。そして再び友達の関係に戻ると、美佳は優斗を受け入れて二人の世界に引きこもった。お預けをくらった私は、重なる優斗と美佳を見るしかなかった。



 それから私達は一時間程交わり、私と美佳は優斗の家を後にした。バイクに乗って戻ると、弟の摩修が先に帰宅していた。
「今戻ったの?」
 弟は帰宅した私に訝しげな眼差しを向けたが私は無視した。
「こういう事もあるわよ」
 私は言い捨てると、浴室に向かって風呂を沸かした。優斗の匂いと美佳の匂いが私に沁みついていたから、それが妙な違和感となって気分がすぐれなかったのだ。
 私は湯船に浸かりながら、さっきまでの事を思い返していた。私は優斗を瞳の中に収めるだけでなく、身体的な手段を用いて優斗を自分の中に受け入れた。私はかき乱される快楽の中で優斗の存在をつかもうとしたが、私はまるで空気が形ある物を掴もうとしているかの如く、触れる事は出来ても自分に引き寄せる事は出来なかった。
 それに対して、美佳は優斗の事を受け入れて、その気持ちや人間としての重さを受け止めていたと思う。私が優斗を受け入れていた時に美佳はどう思っていたか分からないが、私は美佳が優斗を受け入れていた時、二人が自分達の場所にいる事を認識するだけの第三者の目線だった。まるで三人称の小説に出てくる地の文章のような存在だ。ひたすら外側から叙述するだけで、自分から入る事が出来ない。覆いかぶさった美佳には女としての柔らかさと温かさに満ちており、安らぎを与えてくれる存在のように思えた。だから優斗は自分の中にある固く小さな弱い部分を美佳に何度も押し付けていたのだろう。私も何度か美佳の女の部分に触れたが、私よりも清らかで温かな感じがした。
 それから十五分ほどで私は風呂から出た。体の表層部分は禊ぎをしたように軽くなっていたが、一番奥にある部分はかき乱されたままだった。リビングに戻ると、父と母が戻っていた。母はキッチンで夕飯の準備をして、父は弟と何か話していた。
「ああ、香澄」
 声を掛けたのは父だった。
「今度母さんの足車に中古の小さい車を一台買うんだが、お前も使う事があるだろう。出来るなら、保険料とガソリン代を少し出してくれるか?」
「いいよ。車種は決まっているの?」
「ホンダのフィットシャトル。ハイブリットじゃない奴を探して貰っているよ。ハイブリットはバッテリーが死ぬから長持ちしないし」
「そう。色々な見積もりが出たら、負担できる部分は負担するわ」
 私は言い残した。私は母の元に行き、キッチンで夕飯の支度の手伝いに入った。家族は私の変化に気付かないらしい。同じ屋根の下に住んでいても、もう私は一人の人間として独立した存在なのだろうか。
 私は違和感を体の中に残したまま夕食を終えて、自分の部屋に戻った。そして自分のパソコンを立ち上げてワードを開き、優斗に会ってからあまり書かなかった日記を書く事にした。日付を入力し、優斗と会ってそれからの出来事や心情の変化などを綴っていると、あっという間に一二〇〇文字を越えてしまった。下手な掌編小説より内容が濃く、書いていて自分が物語の登場人物になったような錯覚さえ覚えた。もっと書こうと思ったが、私は書くのを止めた。優斗に対する感情をすべて書き出してしまうような気がしたのだ。私はパソコンのワードを保存して、パソコンの電源を落としベッドに入り眠りに着いた。一人だけで寝るベッドは冷たくて寂しく、普段寝る時とは異なる喪失感を感じた。優斗の細さと冷たさ、それに美佳の暖かさと柔らかさが欲しかったが、手に入れられなかった。


 何日か経ったある日。私は部屋の中でいつものように目覚めた。ベッドから這い出て、冷え切った部屋を横切って窓のカーテンを開くと、そこには振り続ける雪が積もり、冷たさと湿度を持った世界が広がっていた。かつて畑で見た白鷺と同じ白さを持つ空は小さな雪を降らせ、ほぼ白黒で彩られた世界に時間の流れを与えていた。
 私は寝巻姿のまま下に降り、リビングに入った。私と弟は冬季休暇に入っていたが、父はまだ仕事だった。リビングでは母が温かいコーヒーを入れていた。
「おはよう」
 私は母に言った。
「おはよう。摩修は真弘と一緒に散歩に行ったわよ。雪の世界を進むとか言って」
 私はその母の言葉に答えなかった。しばらく優斗に会っていないせいか、喪失感が胸の中にあって、それが一定の大きさになり居座っている。これ以上その喪失感は大きくはならないだろうが、そのままにしておいて感覚が無くなるのは嫌だった。
 私は用意してあった朝のコーヒーを一杯飲んで、ダウンコートに身を包んで雪の積もった街に出た。道路に出ると、街の様子は今まで見て来た蓮田の街とは違った表情を見せていた。東京よりも土の匂いが強い土地柄もあり、道や家の間にある畑や広場には雪が残り、冷たい湿り気を土に与え、その熱を少しずつ奪っているのが肌でわかる。東京は固く閉ざされたコンクリートに覆われた街だったから、このようなゆっくりと雪が降り積もる感触が薄い。かつてはこの雪解け水が大地を潤し、春に生まれる新たな生き物たちの命の糧となったのだろう。その息遣いを感じることが出来る場所に住んでいる事に、私は嬉しさを感じた。
 それから十五分ほど歩くと、先程飲んだコーヒーの暖かさも冷たい空気に身をさらしたせいで冷めてしまい。温かい飲み物を求めて私は近くに自動販売機が無いか探したが見当たらなかった。私は神社の辺りまで来て、どうしようか悩んだ挙句、優斗のお気に入りの場所にある診療所の自販機に行く事にした。もしかしたら、この雪に染まった白い景色に見とれる為に優斗がいるかもしれない。と言う淡い希望もあった。
 私は雪が残る歩道を歩き、元荒川に架かる橋に向かった。橋を渡らずに診療所のある方向に曲がってみたが、そこにいるはずの優斗の姿は無かった。
 虚しさを感じた私は診療所の自販機で温かい缶コーヒーを購入し、土手で優斗のように佇んでみた。近くの道路からはシャーベットのような雪が積もった道から発生する、車のロードノイズが聞こえる以外に音はなかった。川の水面も冷たくどこか硬質な印象を与え、白い空を映しているせいか、光の屈折以外に何も無かった。視線を延ばすと、川の端には白く雪化粧した大地が広がり、その上には白色の空が広がっている。三つの物が存在する一つの世界に私は居る。
 かつては優斗が収まっていた世界に私は居るのだ。この様子を見つめているのは、私以外に誰かいるのだろうか。もし居ないのであれば、私はこの世界を構成する三つの内一つに同化したい。私は何だろう。産み育てる大地か、大地の割れ目を流れる川だろうか。それとも交わることなく二つを見下ろす白い空だろうか。もし空なら、川は優斗で大地が美佳だ。私は二人と一緒にいるのだが、その二つに接する事が出来ない存在だ。
 そう思うと、私は胸騒ぎを覚えた。そして土手を離れて畑の方に進み、雪に埋もれた田畑の中を歩いていると、自分が優斗の家の方向に向かっている事に気付いた。ハッとした私は足を止め、別の道から家に戻ろうとした。そして少し家々が立ち並ぶ辺りに来ると、進行方向の方から誰かが一人歩いてきた。見ると、それは冬服に身を包んだ美佳だった。
「ああ、香澄さん。こんにちは」
 私を見つけた美佳は立ち止まって私に挨拶をした。もう立派な女になっているが、まだ表面上は義務教育期間中の娘らしい体裁を保っていた。
「こんにちは」
 私は白い息を吐きながら答えた。美佳の手にはトートバッグが握られ、中には大きな魔法瓶の頭が見えていた。
「雪なのにお出かけ?」
 私はすぐさま次の質問を美佳に投げつけた。
「はい。優斗は余り学校に来ていなかったから、彼が三年生に上がる前に出来る限り勉強しておこうかと思って」
「そう。優斗の家へ行くの?」
「お昼ご飯持参で行きます。暇な今の時期が大切ですから」
 美佳は年頃の娘らしい表情で答えて、再び歩き出した。私も軽く会釈して年上の女としての余裕を保ちながらその場を離れた。これから優斗と美佳は同じ部屋にいて、二人きりの世界で、同じ時間を過ごしている。私はその場にはおらず。遠く離れたこの世界の何処かで何かをしている。私はこの世界を覆う白い空と同じで、この世にあるが二人とは交われない。優斗と美佳は、大地と川の関係なのだ。そう思うと、胸が苦しくなった。
 私は飲み終えた缶コーヒーの空き缶を片手に、途中見つけたコンビニのごみ箱に空き缶を捨てた。そして暖を取る為に中に入り、欲しい物は無かったが店内を物色し始めた。当たり障りのない、すべてが工場で生産された同一規格の物たちが、プリント印刷のパッケージを並べている。私はその中に商品と言う、大きな世界で欲の為に生まれ消えて行く存在の虚しさを噛み締めた。私もいずれこの様に複雑な社会で画一的な存在に加工され、消費されるだけの人間になるのだろうか。
 そうしていると、コンビニの駐車場に一台の古い軽自動車が止まった。ナンバーを見ると、群馬県のナンバーを付けていた。中からは若い男女が降りてきて、足早に店内へと駆け込む。恐らく暖を取るコーヒーを買いに来たのだろう。二人はレジでMサイズのコーヒーを二つ注文し、電子マネーで決済すると店員から手渡された紙コップを手にコーヒーマシンへと向かった。マシンが豆を挽くと、コーヒーが湯気を出しながらカップに注がれて行く。その姿を見て、私は美佳という器に満たされる優斗の事を想像する。
 私は何も買わずにコンビニを後にして、足早に来た道を戻った。そして美佳とすれ違った場所を通り過ぎると、そのまま私は優斗の家の方向へと進み続けた。
 十五分ほど雪の降る田畑の道を通り抜け、私は優斗の住む家がある雑木林のところまで来た。雑木林は白い雪をかぶり、以前来た時とは異なる湿り気をもたらしていた。玄関へと続く小道は、美佳が付けた靴跡が雪の上に残っている。
 私はその小道を進み玄関の前まで来た。鍵は閉まっているだろうかとガラス戸に手を触れたが、鍵は閉まっておらず微かに動いた。ゆっくり開けて中を覗くと、冷たい空気に澱んだ土間には優斗と美佳の靴が行儀よく並んでいた。私は音をたてないようにガラス戸を開けて、中に上がり込む。靴を脱いで音を立てずに進むと、優斗の居間の襖から光が漏れている。何かが蠢く気配と音がした。耳を澄ましてみると、布の擦れる音と何かの水音が聞こえた。
 私は居間の前まで来て半開きになった襖の隙間を覗いてみた。その中では優斗が美佳に多い被さり、口づけをしたりして彼女を求めている。その優斗の気持ちに応えるべく、美佳は着ていたグレーのトレーナーの裾をめくり、白い腹部とブラジャーに包まれた乳房をさらけ出した。美佳は小声で優斗に囁いていたが、優斗は気にしていない様子だった。美佳は優斗の口づけを受けながらブラジャーを外し、豊かに実った二つの乳房を露わにする。優斗を許した美佳は優斗の手をつかみ、自分の乳房へと手を導いた。優斗が美佳の乳房に口づけしようとした時、私は襖を開いた。
 その事に気付いたのは美佳だった。美佳は驚いた表情を浮かべたが、すぐに平静を取り戻した。美佳に夢中になっていた優斗は美佳の異変に気付いたが、私の事を一瞥すると再び美佳に戻った。
 私も、と言葉を発したが、声は喉の奥で凍り付いて出なかった。美佳は優斗を好きな様にさせ、薄紅色の乳頭を含ませた。優斗が胸元に顔をうずめて乳房を吸引する姿を、美佳は余裕と慈しみに満ちた表情で見つめている。それが私と美佳を隔てる決定的な違いだった。美佳には優斗の事を受け止め、何かを施すことが出来るのだ。
 私は膝をついてその中に飛び込み、その中に飛び込んで同じ時間を共有し同じ世界に居たい衝動に駆られた。私は空いている方の美佳の乳頭に近づき、それを含もうとする。だが美佳はそれを拒否して、自分の持つ愛情を優斗にだけ与えた。私は年上の女だからその資格が無いのだろうか、それとも世界を覆うだけの白い空だから、川と大地のように重なりお互いを支えあう事が出来ないのだろうか。私は心臓の裏側が凍りついて、身体の中をめぐる血管から熱が消えて、血液にみぞれの様な物が混じる感覚を覚えた。
 やがて美佳は優斗を受け入れて。ぐるぐると畳の上で交じり合った。そして再び優斗に乳房を吸わせ、優斗が満足すると今度は彼を抱き抱えた。私は何も出来ずに、その一部始終を見るだけで終わったのだ。さっき胸に空いた穴の虚無感が全身を包むと、私は無言のまま優斗の家を後にした。


 私はおぼつかない足取りで土手に戻ると、冷たく横たわったままの元荒川の水面を見つめた。川べりに近づくと、黒い水面は仄かな流れの中に空を映し、何かを失ったような私の表情を浮かばせている。その姿はまるで世界から隔離され、色の無い緩やかな時間のみが流れる場所に押し込まれた哀れな存在だった。
 私は水面から視線を上げ、周囲を見回した。目の前には依然と同じ雪をまとった大地があり、その割れ目に川が流れている。その上には白い空があった。大地と川はお互いに触れているが、その上にある白い空は小さな雪を降らせているだけに過ぎなかった。雪は水面には溶けて消え、大地には少しばかり積もるだけの存在だった。やがて時間が立てば、雪を降らす空は消え失せて雪は無くなり、川と大地だけが残るのだろう。私は流れて居なくなる運命にあるような気がした。
 ここに居ても仕方ないと思い、私はその場を離れて土手を通る道路に出ようとした。すると、人の気配がしたのでその方を振り向くと、黒いダウンとジーンズ姿の優斗が立っている。その手には彼が短文を書き溜めているノートがあり、表紙が雪で微かに濡れていた。
 私は優斗を無視し、その場を離れようとした。もう優斗の瞳の中に私は居ないのだ。そう思った矢先、優斗が声を出した。
「待って」
 その一言に、私は心をピンで刺されたような痛みを味わい、標本になる為に串刺しにされた小さな昆虫の気分を味わった。私と言う存在はこの世界では虫と同じ価値しかないが。仕切られた標本箱の世界では、中心にあってその世界の主体のような気分になる。
「さっきはすみません。動物みたいな事をして」
 優斗は詫びた。人間は動物なのだから、本能の示す道に従ってもいいはずなのに。
「香澄さんは俺の事を好きだって言ってくれましたよね。その時、すごく嬉しかったんです。自分を見てくれる人が居るって思って」
 優斗は今更になって詫びと感謝の言葉を言った。本当なら大した慰めにはならない言葉だが、私には火傷に当てる氷水のように心地よく感じられた。
「いいわよ。私にしてあげられる事は、本を貸す事くらいだから」
 私は弱々しく漏らした。戦争になぜ負けたのかという理由をのちの時代になって解説する歴史学者みたいだなと自分で思う。
「そんな事ないですよ。香澄さんは俺を見つけてくれた」
 優斗は言って、私の事を引き留めた。初めて私に向けられた丁寧な言葉遣いが、私の痛む心の患部に、塗り薬を塗り込むような感じで染み入ってくる。
「見つけてくれたから、俺は今の自分が居るんです。もし香澄さんと言う人の視点が無ければ、俺はあの世界に引きこもったままでした」
 その言葉を聞いて、私は感傷に浸る事を止めた。優斗の話す言葉たちが染み込んで、私の胸の中で熱い波動となって、冷え切った身体に広がるのがわかる。
「私は、あなたの中に居たの?」
 私は優斗に問いかけた。優斗は持っていたノートを開いて、書き綴られた短文たちを読ませてくれた。

「僕は孤独になり、一人で何もない所を彷徨っていた。だがそれは思い込みで、きちんとした何かがある場所に居たのだ。空と大地。僕はこの二つがある事を見落としていた」

 そしてその隣には、次の短文が添えられていた。

「天は僕を見下ろし、進むべき方向と目的を示してくれる。大地は僕を支え何かを与えてくれる存在で、優しく包んでくれる。どちらも僕には大切な存在なのだ」

 その言葉は私が思い描いていた世界そのものだった。私は直接ではないが優斗に常に接している。その文章に書かれた言葉が、空洞になっていた私の中に優斗と言う存在が入り込んで、空洞の中にある虚しさを振り払ってくれる。
 私は雪が舞い降りるノートの中に書かれたその二つの短文を見比べながら、嬉しさとも悲しさとも形容できない感情に満たされた。分かっているのは、それが体温よりも温かく、湧き水のように滾々と吹き出す透明な何かだという事だけだった。気が付くと、私は優斗の事を思い切り抱きしめていた。
「香澄さんは僕に必要な人だから。それだけは忘れないで」
 優斗の言葉が、より深く私の心に入ってくる。それで初めて私と優斗は真の繋がりを持ったような気がした。




 数日経ち、世間はクリスマスを越え新年まであと一週間を切る日になった。だが以前住んでいた東京とは異なって、ここは時間の流れがゆっくりしているのか、正月を連想させるのは家々の前にある松飾りと「謹賀新年」の文字くらいだ。私が成長して、年中行事に対する有難みが希薄になっているのかもしれない。私もいずれ、正月になれば誰かに何かされる側から何かをする側になるのだ。その悲しく不都合な事実は、私からそれまで心に宿していた輝きを奪い、くすんで薄汚い物へと変化させてゆく。それが毎年一回起こっているから、私は生きるのが嫌になり自分が卑屈な存在になるのが分かった。
 私は部屋で読書をした後、窓から外の様子を眺めていた。空は少し赤いような白色で、東京よりも北に位置している街のせいか余計に色々な物が冷たく見える。その寒い空間の中で、私達は体温を発しながら生きていたが、この沈んだ空気がその熱を奪い続けている気がした。
 私は読んでいた本を本棚に戻そうと、部屋を横切って反対側にある本棚に向かった。本棚に本を戻すと、文庫本の段に二冊ほどの余裕がある事に気付いた。何故だろうかと疑問に思うと、優斗にランボーと萩原朔太郎の詩集を貸している事に気付いた。私は動物のような反応で優斗の事を思い出して、身支度を整えて家を後にした。
 私は足早に歩き、いつもとは違う元荒川の土手を通らない道のりで優斗の家に向かった。
 暫く歩くと、以前美佳とすれ違った場所にやって来た。するとそこには、地元の中学生らしき娘達が談笑しているのが見えた。その中に、自転車に跨った美佳の姿が見えた。
 私はその場に立ち止まり、談笑する美佳と友人達の様子を見た。美佳とその友人たちは楽しそうな黄色い声で会話していたが、会話の中に入っている美佳がもう立派な女に変化している事に気付いているだろうか。舌を這わせるようにその様子を見ていると、空から白い雪が舞い降りて来た。最初は綿毛より小さな粒だったが、二分も経たないうちに小指の爪ほどの大きさの物が舞い降りて来た。
 それから程なくして談笑は終わり、美佳は自転車に乗って友人達と離れた。そしてこちらに向かって来ると、道路の端に立っていた私に気付いた。
「ああ、香澄さん。こんにちは」
 美佳は私を見て言った。その言葉は年下の娘らしいイントネーションと声の丸さを持っていたが、腹の奥に確固たる女が宿っている事を私は聞き逃さなかった。
「こんにちは」
 私も慇懃に答えた。頬が寒さで冷え切って、口を動かすと肌が引きつる。美佳は以前の事が気になっているのか、私に顔を向けたくないのかその場を去ろうとした。
「待って」
 私は呼び止めた。呼び止められた美佳は自転車を止めて、外そうとした視線を私に向けた。
「美佳はこれから予定ある?」
「いいえ、特にありません」
「良かったら、一緒に優斗の所に行かない?本を返してもらおうと思って」
 その言葉に美佳は一瞬探るような視線を入れたが、すぐに素直な目つきに戻って頷いた。
「いいですよ」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
 私は答えて、美佳と共に優斗の元へと向かった。
 私と美佳は何もない冷たくなった大地と白色の空の間にある道を進んだ。降り出した雪は当たりの視界を曇らせ、様々な物のシルエットを朧気な物へと変える。一応、工場の資材置き場らしき、鉄の壁で覆われた場所は有ったが近くに人の気配はなく、私達二人がこの世界で唯一の生命体であるような錯覚さえ覚えた。
「あれから、優斗とは何回か会った?」
 私は美佳に質問してみた。美佳は私と視線を合わせずに俯いたままこう答える。
「何回か会いました。差し入れを届けに」
「いいわね。あなたには与えられる物があって」
 私はそこで区切り、美佳の目を覗き込みながらこう続けた。近くには建設会社の資材置き場があった。
「あなた、優斗になんて言われているか知ってる?」
「いいえ」
 美佳はまだ無垢な娘のままで答える。
「あなたは〝自分を支えて何かを与えてくれる大地だ〟って。面白い表現だと思わない?」
 私の言葉に、美佳は少し恐縮した様子でこう答えた。
「私が大地だなんて、母なる大地みたいで変な気分です」
「いいのよ。あなたは母なる大地よ。優斗を受け止めて愛情を与えているのだから」
 私は答えると、美佳の腕を掴んだ。そして驚く美佳をよそに資材置き場の入り口から人気の居ない奥の方へと連れて行った。美佳は何をされるのか分からない様子だったが、抵抗は無かった。私に気を許しているのだろう。美佳の唇を奪い、貪るように唇を動かす。優しく甘い感触が伝わって、私の頭が柔らかくなるのを感じる。美佳もそのようにされるのが心地よいのか私の唇を貪ってくれた。
 粗雑に置かれた資材の陰に姿が完全に隠れる場所まで来ると、私は美佳を自転車から下した。そして美佳を資材の壁側に寄せてまた口づけし、ゆっくり地面に押し倒した。美佳の身体を撫でて、彼女が十分に女性的な柔らかさと丸みを持っている事を知ると、私はダウンコートの前を開いて、トレーナーに包まれた美佳の乳房に手を添えた。美佳は完全に私を許していて、抵抗して声を出すような事はしなかった。
「私は見下ろして優斗を照らす天だと言われたわ。私は優斗を支えて愛を注ぐ大地であるあなたが羨ましい」
 口付けをしながら私は服越しに美佳の乳房を揉みしだいた。彼女はまだ十代半ばの娘だったが、豊かに実り温かさと柔らかさを持つその乳房は、彼女が誰かを育むために十分な役割を持っている証拠だった。
「あなたの受け止めて育む力を私は知りたい」
 私は自分が甘い熱に犯されるのを感じながら、もう片方の手で美佳の服の裾に手を入れた。服の中で温まれた空気が冷えた指先に触れた瞬間、美佳はその手を止めた。美佳は私に少し待つよう目で合図し、自分でトレーナーの裾を肌着ごとまくり上げて大きいサイズのブラジャーに包まれた乳房を露わにした。
 美佳は不自然なほど慈愛に満ちた微笑みを口元に浮かべて、そのままブラジャーのホックを外し、包まれていた乳房をさらけ出した。まだ若くて白い乳房は優しさをたっぷり包んで大きく膨らみ、先端には薄紅色の花を思わせる乳輪と乳頭がある。私は指でその乳房に触れ、雪が舞い降りる寒さの中でも、自分を受け止めてくれる温かさと柔らかさ、そして優しさを知った。顔を近づけると、自分が狭く温かいものに抱かれているような錯覚さえ感じる。私はその温かさと感触を頬で感じ、自分の冷えた肌が温められる。先端部を深く咥えて吸うと、美佳の乳房は仄かな甘みがあって、彼女の心の奥にある、暖かな物を生み出す慈しみの泉に通じていた。喉奥をぐっと鳴らして愛情を貪っていると、三人で交わった時の気分と記憶が甦ってくる。 
「分かります?私が大地である理由」
 美佳は私の頭の上でそう言った。優斗にもこんな風に言葉を掛けるのだろうか。私は自分が女であることを忘れて、美佳の乳房を貪り弄ぶ。外は冷えているのに、彼女の乳房はしっかり温かさを持っていて、触れる物に安らぎを与えてくれる。大人にも子供にもなれない孤独な優斗が求めるのも納得だった。
「私は優斗の為に色んな事が出来ます。彼が命を求めるなら、私は幾らでも与えられます」
 その言葉を聞いて、私は美佳の乳房から口を離した。美佳は服を元に戻し私の唾液で濡れた乳房を隠して、私の目を見た。美佳の目には、自分の一部を与え誰かを支配した時の何処か黒くて醜いものが宿っているように見えた。
「あなたが受け止めて育てる存在だという事は分かった」
 私は答えた。美佳は満足げに微笑んで立ち上がり、近くに立てかけていた自転車のハンドルを持ち、その場を去ろうとした。だが私の手は近くに落ちていた鉄パイプを手に取り、次の瞬間美佳の後頭部めがけて思い切り鉄パイプを振り下ろした。頭に当たった瞬間に力を入れると、頭蓋骨が砕ける感触が掌に伝わり、美佳が鮮血を迸らせ自転車と共に倒れる。そして美佳が倒れた所にもう二回ほど同じ力で鉄パイプを振り下ろして、とどめを刺す。後頭部からにじみ出た温かく赤い鮮血が、冷えた大地に温かさと潤いをもたらしてゆく。それは彼女の中を駆け巡り熱を生み出していたものだったが、命という観念的な物では無かった。
 私は動かなくなって横たわる美佳を見下ろした後、その場を離れ優斗の元に向かった。
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