第7話 ふむ
文字数 1,872文字
「で、相談事とはなんだ」万年様がおばば様と僕を交互に見た。近くで見る万年様は、思いもかけぬほどにやさし気な面差しだった。
「このものの飼い主の話なのです」おばば様が口を開いた。
「ふむ」
「助けたいと申しているのです」
「ほぉ、猫族が人を助けたいとな、それはまた珍しい話じゃ。長く生きておるが、初めて耳にした」
万年様がじっと僕を見た。あっさりと断られるのか、そんなことはできぬと。
いくら待っても万年様は口を開かない。静寂 を埋めるように吹いた風に、百日紅 の葉が光と影を揺らし、息が詰まるような時間が過ぎた。やがて万年様はふんと鼻から息を吐いた。
「わかった、聞こう」
万年様は否定しなかった。それも、わかったと言った。僕は、逸 る気持ちを抑えきれずに話し始めた。
涼音さんの彼氏のこと、それを見た僕の率直な感想、最近の涼音さんの様子。
前足に顎を乗せ、まるで眠ったように話を聞いていた万年様が顔を上げた。
「お前の感じ取ったことは、自分の損得に左右されてはおらぬか?」
「損得? あ、はい、たぶん……」いや、絶対。
「その、つくねさんとやらが好きなのだな」
「あ、あの──」間違いは指摘すべきだろうか。けれど、こんなに偉いお方にそれは失礼なのではないだろうか。
おばば様を見たけど、困ったような顔をしただけだった。
万年様が咳払いをした。
「どんな字を書く」
「涼しい音ですずねです」
「そうか。で、そのすね毛さんとやらが好きなのだな」
「あ、え……はい?」
冗談にしてもちょっと……。おばば様がため息交じりに呟 いて、目を泳がせた万年様がコホンと再び咳払いをした。この方たちの上下関係さえつかめなくなった。
「わしは孤独じゃ」万年様が空を仰いだ。きゅっと引き結んだ口元がふにふにと震え、その目は悲し気に細まっている。「わしはとことん孤独じゃ」
「あたしは──」おばば様が口を開き、万年様がそれを見た。「万年様がいるから──孤独ではありません」
「だから助けたいのだな」おばば様の告白に恐るべき速さで立ち直った万年様は、滑った冗談のすべてをなきものにして続けた。
「はい」僕は大きく頷いた。
「まさか、独り占めしたいからではあるまいな」
万年様の鋭い目が、じっと僕を見る。
「いえ、僕は涼音さんが幸せならそれでいいんです」
「そうか」万年様はゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと歩くが、わしの家に行こう。ばば、降りるぞ。お前はもう跳ぶな」
万年様は校門の壁面にゆるゆると前足を下ろし、驚くような身軽さで門から飛び降りた。僕もそれに続いた。
おばば様を迎えるためだろう、万年様は校門をくぐった。なんとやさしい。
「カモナ マイハウスじゃ」
「かもなまい?」
「ずいぶんと流行った歌じゃ。戦争の後じゃ。江利チエミじゃったかな、ばば」
「そんな話、この子にはわかりませんよ」おばば様が笑った。
「そうか? つい最近なのにな」
万年様が前を歩き、おばば様と僕がそれに付き従った。
日差しは強かったけれど、吹く風がひげを撫で心地のいい午後だった。
路地を抜け、駐車場を突っ切り、商店街を通って橋を渡った。
川のほとりのツツジの咲く植込みに、万年様は入っていった。
「構わん、入れ」
そこには横っちょをくりぬいた発泡スチロールの家があった。その前には食事と水が置かれている。地上で最も賢く尊いお方の家にしてはみすぼらしかったけど、あえてそこに住んでいることに一種の感動を覚えた。
「人間は争 いもするが、それは力を持った者の驕 り高ぶりじゃ。多くの人間はやさしい生き物なのじゃ。それが証拠に、わしの家と食事まで用意してくれる。実のところは無用なのだが、好意を無視するわけにもいかんのでな、ここに住んでおる。涼音さんとやらもやさしいのだろうな」
涼音さん。正解だ。もう冗談にも懲りたようだ。
「はい。まるで母のようです。野良だった僕を拾ってくれました」
「そうか、うん。それもまた縁じゃ。大事にせい。さてと若いの、お前にとっておきの術を施そう」
「術ですか。それはどういうものでしょうか」
「人間になれる術じゃ」
「え? あ……え……はい?」
「このものの飼い主の話なのです」おばば様が口を開いた。
「ふむ」
「助けたいと申しているのです」
「ほぉ、猫族が人を助けたいとな、それはまた珍しい話じゃ。長く生きておるが、初めて耳にした」
万年様がじっと僕を見た。あっさりと断られるのか、そんなことはできぬと。
いくら待っても万年様は口を開かない。
「わかった、聞こう」
万年様は否定しなかった。それも、わかったと言った。僕は、
涼音さんの彼氏のこと、それを見た僕の率直な感想、最近の涼音さんの様子。
前足に顎を乗せ、まるで眠ったように話を聞いていた万年様が顔を上げた。
「お前の感じ取ったことは、自分の損得に左右されてはおらぬか?」
「損得? あ、はい、たぶん……」いや、絶対。
「その、つくねさんとやらが好きなのだな」
「あ、あの──」間違いは指摘すべきだろうか。けれど、こんなに偉いお方にそれは失礼なのではないだろうか。
おばば様を見たけど、困ったような顔をしただけだった。
万年様が咳払いをした。
「どんな字を書く」
「涼しい音ですずねです」
「そうか。で、そのすね毛さんとやらが好きなのだな」
「あ、え……はい?」
冗談にしてもちょっと……。おばば様がため息交じりに
「わしは孤独じゃ」万年様が空を仰いだ。きゅっと引き結んだ口元がふにふにと震え、その目は悲し気に細まっている。「わしはとことん孤独じゃ」
「あたしは──」おばば様が口を開き、万年様がそれを見た。「万年様がいるから──孤独ではありません」
「だから助けたいのだな」おばば様の告白に恐るべき速さで立ち直った万年様は、滑った冗談のすべてをなきものにして続けた。
「はい」僕は大きく頷いた。
「まさか、独り占めしたいからではあるまいな」
万年様の鋭い目が、じっと僕を見る。
「いえ、僕は涼音さんが幸せならそれでいいんです」
「そうか」万年様はゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと歩くが、わしの家に行こう。ばば、降りるぞ。お前はもう跳ぶな」
万年様は校門の壁面にゆるゆると前足を下ろし、驚くような身軽さで門から飛び降りた。僕もそれに続いた。
おばば様を迎えるためだろう、万年様は校門をくぐった。なんとやさしい。
「カモナ マイハウスじゃ」
「かもなまい?」
「ずいぶんと流行った歌じゃ。戦争の後じゃ。江利チエミじゃったかな、ばば」
「そんな話、この子にはわかりませんよ」おばば様が笑った。
「そうか? つい最近なのにな」
万年様が前を歩き、おばば様と僕がそれに付き従った。
日差しは強かったけれど、吹く風がひげを撫で心地のいい午後だった。
路地を抜け、駐車場を突っ切り、商店街を通って橋を渡った。
川のほとりのツツジの咲く植込みに、万年様は入っていった。
「構わん、入れ」
そこには横っちょをくりぬいた発泡スチロールの家があった。その前には食事と水が置かれている。地上で最も賢く尊いお方の家にしてはみすぼらしかったけど、あえてそこに住んでいることに一種の感動を覚えた。
「人間は
涼音さん。正解だ。もう冗談にも懲りたようだ。
「はい。まるで母のようです。野良だった僕を拾ってくれました」
「そうか、うん。それもまた縁じゃ。大事にせい。さてと若いの、お前にとっておきの術を施そう」
「術ですか。それはどういうものでしょうか」
「人間になれる術じゃ」
「え? あ……え……はい?」