萌香のいない日に(3)
文字数 1,589文字
まだ陽も登らぬその日の早朝、彼は自宅にある道場に足を運んでいた。
湯本流剣術道場。これがこの道場の正式名称だ。そして、彼は幼い頃からここで剣術の修行を積まされている。
まだ誰も現れていない道場には、若干独特の臭いが籠っている。彼はその日一番に道場を訪れ、雨戸やら格子窓、全ての扉を全開にし、道場の澱んだ空気を吐き出し、家の周囲に拡がる森林の冷気を取り込んだ。
そして中央に正座する。
これは、まだ道場に誰もいない時、彼だけに出来る特権だ。
「道場に出るのも久し振りだなぁ……」
彼、湯本譲治隊員は、湯本流宗家の嫡子として生を受けた。彼にとって、このことは決して喜ばしいことでは無かった。厳しい修行に自分の生まれを呪ったことすらある。だが、今、彼はそのことに感謝すらしていたのだ。
彼が異星人討伐隊に入れたのは、少なからず湯本流剣術のお蔭であったし、間違いなくこの道場の修行が、彼の重要なスキルを生み出す土壌となっている。
「おっと、のんびりもしていられない……」
湯本隊員はそう言うと、床掃除をする為の雑巾を取りに立ち上がった。早くしないと、通いの弟子は兎も角、住み込みの弟子なら、陽の登る前から道場に出て稽古を始めようとするからだ。
雑巾掛けは彼にとって重要なルーティーンであった。名前が譲治であっても、これだけは他人には譲りたくないのだ。
先ず足腰の鍛錬になる。爪先で床を蹴って、ダッシュを何本もやるのと同じだ。だが、本当に大事なのはそこではない。
一日、稽古が行われると、少なからず道場に傷みが出る。それは壁より床が顕著だ。床板が少し凹んでいる様なこともあるし、端が割れて笹くれ立っていることもある。彼は練習前に床の危険な部位を補習し、凹凸を確認しておけるのだ。
昔、床に檜の枝先が落ちていたことがあって、父親からこっぴどく叱られたことがあった。
「なんで僕だけ、そんな些細 な事で叱られるんだ!」
子供ときの湯本隊員はそう思って、父親の叱責に納得が行かなかった。だが、今ならばそれが分かる。
彼は湯本剣術の宗家を継ぐ者。道場の管理、弟子の安全に全責任を負わねばならない身なのだ。檜の小枝一つにも気を配らねばならず、彼の軽率な判断により、いつ、誰が危険な目に合わないとも限らない。父はそれを伝えたかったのだろう。
湯本隊員は彼自身でも、雑巾掛けを続ける内、細かいことにも気を配るようになったと思っている。勿論、全てを完全に把握することなど不可能だ。ミスもあるし、事前に気付かなかった事だって今でも少なくはない。だが、それでも、何も情報を得ようとしない人間より、情報を全て得ようとした人間の方が、より多く情報を得られることだけは間違いないことなのだ。
確かに間違った情報を得たり、情報を取り違えたりして、情報を得なかった方が良い結果を得られることもある。だが、それを理由に情報を得ようとしないのは、怠惰以外の何物でもないと彼は考えている。
湯本隊員のこの姿勢は、彼の成績、特にプログラミング技術に関して、非常に良い影響を与えていた。そして、それが現在の異星人討伐隊での、彼のポジションへと繋がっているのだ。
彼は稽古場の雑巾掛けを終えると、最後に一段高く、床の間の様になった師範の座の拭き掃除を行った。正直、父親には悪いが、この場所の掃除は事の序でだ。ここにあったゴミが稽古場に落ちて来ないことを確認する程度の意味でしかない。
湯本流剣術に於いては、師範であっても宗家であっても皆、1人の剣士に過ぎない。弟子や後輩は、師範などを先達者として接してはくれるが、それ以上の権威などは何も無いのである。
彼らは肩書などではなく、身の処し方、日々の姿勢で弟子に師範として認められなければならない。
まぁ、それも建前で、現実には宗家ですら一段高い場所から弟子に指導したりしているのだが……。
湯本流剣術道場。これがこの道場の正式名称だ。そして、彼は幼い頃からここで剣術の修行を積まされている。
まだ誰も現れていない道場には、若干独特の臭いが籠っている。彼はその日一番に道場を訪れ、雨戸やら格子窓、全ての扉を全開にし、道場の澱んだ空気を吐き出し、家の周囲に拡がる森林の冷気を取り込んだ。
そして中央に正座する。
これは、まだ道場に誰もいない時、彼だけに出来る特権だ。
「道場に出るのも久し振りだなぁ……」
彼、湯本譲治隊員は、湯本流宗家の嫡子として生を受けた。彼にとって、このことは決して喜ばしいことでは無かった。厳しい修行に自分の生まれを呪ったことすらある。だが、今、彼はそのことに感謝すらしていたのだ。
彼が異星人討伐隊に入れたのは、少なからず湯本流剣術のお蔭であったし、間違いなくこの道場の修行が、彼の重要なスキルを生み出す土壌となっている。
「おっと、のんびりもしていられない……」
湯本隊員はそう言うと、床掃除をする為の雑巾を取りに立ち上がった。早くしないと、通いの弟子は兎も角、住み込みの弟子なら、陽の登る前から道場に出て稽古を始めようとするからだ。
雑巾掛けは彼にとって重要なルーティーンであった。名前が譲治であっても、これだけは他人には譲りたくないのだ。
先ず足腰の鍛錬になる。爪先で床を蹴って、ダッシュを何本もやるのと同じだ。だが、本当に大事なのはそこではない。
一日、稽古が行われると、少なからず道場に傷みが出る。それは壁より床が顕著だ。床板が少し凹んでいる様なこともあるし、端が割れて笹くれ立っていることもある。彼は練習前に床の危険な部位を補習し、凹凸を確認しておけるのだ。
昔、床に檜の枝先が落ちていたことがあって、父親からこっぴどく叱られたことがあった。
「なんで僕だけ、そんな
子供ときの湯本隊員はそう思って、父親の叱責に納得が行かなかった。だが、今ならばそれが分かる。
彼は湯本剣術の宗家を継ぐ者。道場の管理、弟子の安全に全責任を負わねばならない身なのだ。檜の小枝一つにも気を配らねばならず、彼の軽率な判断により、いつ、誰が危険な目に合わないとも限らない。父はそれを伝えたかったのだろう。
湯本隊員は彼自身でも、雑巾掛けを続ける内、細かいことにも気を配るようになったと思っている。勿論、全てを完全に把握することなど不可能だ。ミスもあるし、事前に気付かなかった事だって今でも少なくはない。だが、それでも、何も情報を得ようとしない人間より、情報を全て得ようとした人間の方が、より多く情報を得られることだけは間違いないことなのだ。
確かに間違った情報を得たり、情報を取り違えたりして、情報を得なかった方が良い結果を得られることもある。だが、それを理由に情報を得ようとしないのは、怠惰以外の何物でもないと彼は考えている。
湯本隊員のこの姿勢は、彼の成績、特にプログラミング技術に関して、非常に良い影響を与えていた。そして、それが現在の異星人討伐隊での、彼のポジションへと繋がっているのだ。
彼は稽古場の雑巾掛けを終えると、最後に一段高く、床の間の様になった師範の座の拭き掃除を行った。正直、父親には悪いが、この場所の掃除は事の序でだ。ここにあったゴミが稽古場に落ちて来ないことを確認する程度の意味でしかない。
湯本流剣術に於いては、師範であっても宗家であっても皆、1人の剣士に過ぎない。弟子や後輩は、師範などを先達者として接してはくれるが、それ以上の権威などは何も無いのである。
彼らは肩書などではなく、身の処し方、日々の姿勢で弟子に師範として認められなければならない。
まぁ、それも建前で、現実には宗家ですら一段高い場所から弟子に指導したりしているのだが……。