第9話 ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)
文字数 7,068文字
ニューヨーク州 State of New York
ブルックリン区 Borough of Brooklyn
ジャックとマギーを乗せたイエローキャブを、理不尽に捕らえ積載 した大型車載トレーラー。その箱形荷台が上方に開かれて行く。
古びれた薄暗い倉庫に、荷台を開ける電動モーターの音が鳴り響いていた。
ジャックはジャケットの内ポケットからサングラスを取り出し、彫りの深い端正なマスクにそれを装着をする。暗闇であった箱形荷台が開かれ、イエローキャブの車内に眩しい光が差し込んで来たのだ。
「マギー。君は暫く瞼を閉じていて!」
「大丈夫よ! 私もサングラスは持っているから!」
マギーはそう言うと、バックから高級ブランドのサングラスを取り出して、綺麗な顔立ちの上に装着をした。
「よし行くよ!! 舌を噛まないように、歯を食いしばって!」
キャブの運転席に座るジャックはハンドルの下に手を差し入れ、むき出しにした導線をねじり合せる。
『ルルルッ』
そしてジャックは、二度アクセルを踏み鳴らす。
『ブルーン、ブルーン』
旧式なイエローキャブの古びたマフラーから、黒色の排煙が吹き出した。
薄暗い倉庫の中で、大型車載トレーラーの周囲に屯 していた男達はこの予想外の出来事に一様 に驚き、皆ポカーンと口を開け事のあらましを見続けていた。
その中で、いち早く我に返った者が、トレーラーの荷台を閉じようと電動モーターのリモコンに手を伸ばす。しかしそれよりも早く、キャブのシフトをバックギアにチェンジしたジャックの車両が、トレーラーの箱形荷台から一気に飛び出してくる。
箱形荷台から勢いよく後方に飛び出したイエローキャブの車体は、上下に大きく跳ね上がるようにバウンドした後、コンクリートで固められた倉庫の床に停車をする。
「逃走開始!!」
ジャックは素早く、キャブのシフトをフロントギアにチェンジする。
マギーとジャックが乗るイエローキャブは、すり減ったタイヤを空回りさせ、前方に急発進した。タイヤの擦れる音とゴムの焦げた匂いが薄暗い倉庫に漂った。
「マギー大丈夫?」
「私は平気よ!!」
ジャックが運転するイエローキャブが、車載トレーラー周囲に屯する男達の脇を通過して、倉庫の出口へと向かって行く。キャブの助手席に乗るマギーはスマートフォンのカメラ機能を使い、あっけにとられた表情を見せる男達の姿や、彼らの車のナンバープレートを次々とカメラに収めていった。
この行為に、周囲に居た男達の表情は一変する。某国の秘密組織に所属する男達にとって、マギーの取った行動は到底容認出来るものではなかった。
男達の視線が集まる中、ジャックが運転する旧式のイエローキャブは錆びついた大型倉庫のシャッターをくぐり抜けて行った。
「Yeah! どうだい。アクションスターのようだろう!!」
バックミラーで後方の状況を確認しながら運転を続けるジャックが興奮した声を出す。
「やるわね。貴方、スタントの経験もあるの?」
マギーがジャックの硬い腕にしがみつく。
「それはないよ! それより、マギー。ここは何処かな?」
「待ってて。いま確認する!!」
トレンチコートコートのポケットからスマートホンを取り出したマギーが応える。
「ジャック。摩天楼が北に見える。ここはブルックリン、アッパーニューヨーク湾に面した湾岸道路、シーポートや倉庫街のど真ん中よ!」
車窓から見える周囲の景色とスマホの位置情報を重ね合わせたマギーが、ジャックに二人が現在いる場所を伝えた。
「ジャック。ここから何処に向かうの?」
「マンハッタンだ‼ マンハッタンに向かう」
「マンハッタン、いいわね。どこまでも貴方に着いて行くわ!」
マギーがジャックの横顔を見詰め嬉しそうに応えた。
「マギー。僕らの車両の、後ろの状況を詳しく教えてくれないか!?」
キャブのスピードを上げ運転を続けるジャックが助手席に座るマギーに尋ねる。
「三台の、黒塗りのセダンが追跡してくる。流石に大型車載トレーラーは追っては来ない!」
キャブの助手席から大きく振り向いた姿勢で、マギーが答えた。
「気を付けて! 奴らはきっと拳銃を使用する」
「拳銃をですって!?」
「そうさ。君がスマートフォンのカメラ機能を使い、彼らの素顔や車両ナンバーを撮影した事で、彼らも引くに引けない状況となった」
「写さないほうが良かったのかしら?」
「いいや。写したのは正解だ!! ここで白黒はっきり決着を着けて措 かないと、今後何時までも僕らに危険が付きまとう!」
ジャックがはっきりと答えた。
「そうね。キッチリ片を付けてあげましょう!」
マギーに異論はない。
「そう。もう二度と僕らのデートの邪魔をしないように」
ジャックは旧式のイエローキャブを猛スピードで走らせている。
(デートって言った!?)
ジャックの口から突然飛び出したフルーティな言葉に、マギーは甘い喜びを感じていた。
ビジネスの申し込みをと待ち合わせをした筈の二人の時間が、何時の間にデートの時間に変わったのか? ジャックは発言の過ちに気付く事もなく、運転に集中をしている。
「それと、マギー。僕のスマホを持っていて。位置情報システムをONにして、ニューヨーク市警に連絡を入れるんだ。ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教授ジャック ヒィーリィオゥ ハリソンが、某国の諜報部員に監禁されるも自力で脱出、現在ブルックリン湾岸道路をマンハッタンに向けて逃走中。至急救援を頼むとね。そう伝えて!」
「解ったわ。某国の諜報部員と断言していいのね?」
「良い。たとえ間違っていたとしても、その方が市警も迅速に動いてくれると思う!」
マギーはジャックのスマートフォンを左手で受け取ると、自身のスマホはストライプスーツの内ポケットにしまい込んだ。しかしマギーがスマホの操作を開始する前に、二人の乗るイエローキャブのボンネットから白い煙が立ち上る。
これまで順調に走り続けてきたイエローキャブの速度がみるみると落ちて行った。
「ジャックどうしたの?」
マギーが悲鳴をあげる。
「エンジンルームから煙が出た。これ以上の走行は無理みたいだ」
ダッシュボード、メーターパネルの表示には、エンジンオイルの消失を示すランプが点滅していた。
「オイルが漏れたのね!?」
「車載トレーラーから勢いよく飛び出した時に、きっと車体を傷つけたんだ!」
「オンボロなのに、頑張ってくれたのね!」
「うん」
そしてあっという間に、二人の乗るイエローキャブは停車してしまう。
「マギー、早く車から出るんだ。早く、追いつかれてしまう!」
キャブの運転席から急いで飛び出してきたジャックが、助手席のドアを開けマギーの腕を引っ張り上げる。
「ジャック。市警に通報を…」
「解っている。けれど今は逃げるんだ。銃口の射程に入るのは得策じゃない!」
「どうするの?」
「走りながら考える。どこかに身を隠して市警に通報する。しかし、別の良い考えが浮かんだら即座に変更だ。いずれにしても、通報しても額を撃ち抜かれては意味がない。マギー、そうだろう。今は唯、走るんだ!!」
ジャックは湾岸道路の路肩にイエローキャブを乗り捨て、マギーの手を引きながら湾岸倉庫へと逃走を続ける。
走る二人の後方からは三台の黒塗りのセダンが迫っていた。
道路沿いを走り続け、立ち並ぶ倉庫群にたどり着いた二人は、セダンからは陰となる倉庫の海側の道へと回り込んだ。
「ジャック ハリソン教授!」
センスの好い黒いスクータに跨 り、沖に向かい投げ釣りをしていた青年が、突如目の前に現れたジャックを見つけて大声を上げる。
「教授。そんなに息を切らして、どうしたのですか?」
ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教室、ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンが、偶然友人と共にこの岸壁で釣りを楽しんでいた。
「マーティン。見ての通りだ。某国の諜報機関に追われている。君の自慢の黒いスクーターを僕に貸してくれ」
ジャックは教え子のマーティンに頼んだ。
もう一刻の猶予 もなかった。
緊迫した状況を察知したマーティン ヘンダーソンは即座にスクーターから降りて、ジャックとマギーにスクーターの座席を譲り渡す。
「教授、大丈夫です。このスクータは250cc。ぶっちぎりで逃げ切ってください!」
「マーティン。これからブルックリン橋を渡りニュヨーク庁舎 へと向かう。市警に通報を頼む。諜報部員は僕の後を追ってくるが、君も直ぐに逃げてくれ。君を危険な目に合わせてすまない!」
ジャックの切迫した声を聞いたマーティン ヘンダーソンは即座に釣竿を投げ出し、友人の持つオフロードバイクに飛び乗ると、この場を後にする。
そこに三台の黒塗りのセダンが到着する。
「マギー、ごめん。君の大切な頭を守るメットは無いんだ!」
マーティン ヘンダーソンのスクーターに跨ったジャックがマギーに断りを入れる。
「大丈夫よ! 私の頭は硬いし、違反金ぐらい、私にも払えるわよ!」
マギーはスクーターに跨り、ジャックの背中にしがみつく。
目の前にジャックとマギーの姿を見つけた諜報部員たちは、停止させた車のドアを開け、急いで二人に向かい駆け出そうとする。しかし二人が乗るスクーターが動き出すと、又即座に車に戻り込む。
「凄いマシーンね!」
「ああ。僕の教え子はブルジョアの出身らしい」
ジャックは後部座席にマギーを乗せスクーターを発進させた。二人を乗せたスクーターはぐんぐんと加速度を増し、湾岸倉庫群を抜け、再び湾岸道路へと高速で車体を乗り入れた。
追跡してきた三台の黒塗りのセダンも、大急ぎで方向変換をして、二人が乗るスクーターを追いかけて行く。
「ビューティフル !!」
友人と共にオフロードバイクに跨るマーティン ヘンダーソンが、三台の黒塗りセダンから逃走するジャックとマギーの勇姿を見て、大きな叫びをあげた。
『マーティン。君の論文通過は、たった今ここで決まった』
美しい流線型のボディ、世界最高峰のメタリックブラックシップに跨るジャックが呟く。
「マギー、しっかり掴まっていて。スクーターのメーター最高表示速度は160Km/時、これでマンハッタンに乗り込む!」
「ええ。貴方のボディに、しっかりとしがみついているわ!」
マギーが大声で応えた。
二人はブルックリン湾岸道路を北上しマンハッタンへと向かった。後方からは三台の黒塗りのセダンが、猛烈なスピードで追い上げて来ていた。
「マギー。あいつはきっと、僕らに銃口を向けてくる。発煙筒を着火して、煙幕で奴らの視界を遮 るんだ!」
スクーターのサイドミラー越しに、迫るセダンの助手席から男が半身を乗り出す様子を確認したジャックが、マギーに指示する。
高速で操縦を続けざるを得ない危険なスクーターの後部座席で、マギーは恐れる素振りも見せず、手放しで発煙筒に火を灯した。
「マギー。男が銃口を向けた。気を付けて!!」
ジャックは、男に拳銃の標準を定めさせないよう、スクーターを操り必死の蛇行運転を繰り返して行く。後方車両から放たれた数発の銃弾が、ジャックの右耳を擦 めた。
「あら。胸元に入れておいたスパナ、落としちゃったわよ」
「ギュギュユ」タイヤのゴムのねじれる音に続いて、「ダン、ダダンダーン」と、大きな衝突音が湾岸道路に鳴り響いた。後方から銃撃を仕掛けてきた黒塗りのセダンが、道路わきのフェンスに激突して横転する。マギーの落としたスパナが、フロントガラスを割って車内に飛び込んでいたのだ。
「ジャック。やっちゃったわよ!?」
高速で走り続けるスクーターから後ろを振り向いたマギーが、興奮した様子で声を上げた。
「自業自得」
「そうよね。だって私たち撃ち殺される所だったんだもの…」
「マギー、油断しないで! まだ二台来る!」
ジャックは更にスクーターを加速させた。
その時、マギーの着るネイビー ストライプスーツの内ポケットから、着信を知らせる振動が伝わる。スクータの後部座席に跨るマギーが、左手でシートのキャリアを握り右手で取り出したスマホから流れ出たのは、超有名なスパイ アクション映画のテーマ曲であった。
「お母様!? 何よ? こんな非常事態に!」
マギーも若い秘書ジェミニと同様に、会長イザベルから着信メロディーの変更を強いられていたのだ。
「お母様!!」
「あんた、出るのが早い。1分15秒は待ちなよ!!」
「お母様!!」
マギーは大声を上げる。
「お母様!! 今は非常事態です!」
マギーが母親と通話している間にも、追跡してくる二台の黒塗りのセダンは助手席の窓を開け、こちらに銃口を定める機会を狙っている。
「何かあったんだね?」
会長イザベルが緊迫した声で尋ねる。
「お母様。某国の諜報部員に追われているの。ジャックと二人、スクーターでブルックリン湾岸道路をマンハッタンに向け逃走中です。後ろから銃口を向けた二台のセダンが猛烈な勢いで追跡してくる」
「よし任せな! 先ずは、スマートフォンの通話をテレビ電話回線に変更だ。お前は、今起ってる事の総てを映像に映し止めるんだ。その上で、お前の美しい声でわかりやすく解説も入れるんだよ。二分後にスタートする。それまでは二人とも頑張り続けるんだ!」
イザベルは何かを確信した様子で話し続ける。
「了解。さっき撮った写真も転送するわね!」
マギーが母親に応える。
「マギー、誰からの電話?」
スクータの運転を続けるジャックがマギーに尋ねる。
「私のお母様! ジャック、もう大丈夫。だけど、もう少しだけ頑張って!」
マギーは精一杯の力でジャックのからだを抱き締め、優しいにおいがするジャックの背中に顔をうずめた。
「Good afternoon. How are you? 私はライズ ゴールド ムーン コーポレーション ジェネラルマネージャーのマギー デュナミス ロペス です。ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教授ジャック ヒィーリィオゥ ハリソン と二人、某国の諜報部員に監禁されたの。ジャックの機転で何とか脱走はしたけれど、諜報部員の追跡は続いている。今、ブルックリン湾岸道路をメタリックブラックのスクーターに乗り、マンハッタンに向けて逃走中です。黒塗りのセダンから銃口を向けられ、とても危険な追撃を受けている最中よ。これからブルックリン橋を渡りNew York市庁舎へと向かいます。お願い、緊急に救助を要請します」
マギーの美しい声と録画した全ての映像が世界中に発信されてゆく。
ライズ ゴールド ムーン コーポレーション会長であるマギーの母親イザベルが、即座に系列テレビ局に情報の公開を依頼した。それが世界に瞬時に発信されたのだ。
ニューヨーク総合私立大学、ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンからの通報を受けていたNew York市警が、即座にブルックリン橋を閉鎖する。
ブルックリン橋の上空には、市警や各社報道機関のヘリコプターが所狭しと飛び回り、猛スピードで追撃を続ける某国諜報機関の高級セダンや、車列をすり抜けながら走行するジャックとマギーの勇姿をリアルタイムで世界に配信する。
それは例えば、Tokyo Japan 新宿アルタビジョンにも、シンガポールやフィンランドの国々にも、この映像は流されてゆく。そして、タイムズスクエア LEDビジョンの前では、ニューヨークの街並みを歩く人々が皆足を止め、リアルタイムな映像を見詰めていた。
勿論、マギーが居住するビルのドアマンも、清掃員トミーやフルーツ店主ボブも、この映像にくぎ付けになる。気弱なジェミニなどは、黒塗りセダンからマギーに向け銃弾が発射されるたびに、何度も卒倒する始末だ。
既にすべてのチャンネル、ネットワークでこの映像が映し出されていた。世界中が、ジャックとマギーの勇姿に喝采 を送った。
「マギー。もう大丈夫だよ!」
スクーターの後部座席に跨り、柔らかい肉体 をジャックに押し付けていたマギーに、ジャックが声を掛ける。
「車列は渋滞だ。僕らを追跡してきたセダンは遥か後方となり、その姿はもう確認できない」
メタリックブラックのスクーターを操縦 り、車列の側面を自在にすり抜けて来たジャック。その走りの前に、諜報部員の乗る黒塗りのセダンは、もはや付いて来る事が出来なかった。
ブルックリン橋のマンハッタン側からは、緊急車両や市警のパトカーが、二人が乗るスクーターの横を逆方向に通り抜けて行く。上空には、二人を守り飛ぶ市警のヘリコプターの姿があった。
「流石よ。貴方はタフね」
マギーはジャックの逞 しい背中を抱き締めながら呟く。
「君の方こそ。凄くチャーミングなのに、とても頼りになる」
ジャックはシャツの中に隠したレンチを地面に放り投げる。
「帰ろう。マギー」
ジャックとマギーはニューヨーク市警の警察車両に無事保護された。二人は市警のパトカーに乗せられ、ニューヨーク市警本部庁舎へと送られる。
ブルックリン橋に封じ込められた某国の諜報部員はすべて、警察に身柄を取り押さえられ、湾岸道路で横転したセダンの乗員と共に市警に留置された。ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンのスクーターは、警察の手で無事彼のもとに返還された。マギーとジャックは、ニューヨーク市警本部庁舎で状況の説明と捜査資料作成に協力した後、高級捜査車両に乗せられマギーのビルへと送り届けられた。
ブルックリン区 Borough of Brooklyn
ジャックとマギーを乗せたイエローキャブを、理不尽に捕らえ
古びれた薄暗い倉庫に、荷台を開ける電動モーターの音が鳴り響いていた。
ジャックはジャケットの内ポケットからサングラスを取り出し、彫りの深い端正なマスクにそれを装着をする。暗闇であった箱形荷台が開かれ、イエローキャブの車内に眩しい光が差し込んで来たのだ。
「マギー。君は暫く瞼を閉じていて!」
「大丈夫よ! 私もサングラスは持っているから!」
マギーはそう言うと、バックから高級ブランドのサングラスを取り出して、綺麗な顔立ちの上に装着をした。
「よし行くよ!! 舌を噛まないように、歯を食いしばって!」
キャブの運転席に座るジャックはハンドルの下に手を差し入れ、むき出しにした導線をねじり合せる。
『ルルルッ』
そしてジャックは、二度アクセルを踏み鳴らす。
『ブルーン、ブルーン』
旧式なイエローキャブの古びたマフラーから、黒色の排煙が吹き出した。
薄暗い倉庫の中で、大型車載トレーラーの周囲に
その中で、いち早く我に返った者が、トレーラーの荷台を閉じようと電動モーターのリモコンに手を伸ばす。しかしそれよりも早く、キャブのシフトをバックギアにチェンジしたジャックの車両が、トレーラーの箱形荷台から一気に飛び出してくる。
箱形荷台から勢いよく後方に飛び出したイエローキャブの車体は、上下に大きく跳ね上がるようにバウンドした後、コンクリートで固められた倉庫の床に停車をする。
「逃走開始!!」
ジャックは素早く、キャブのシフトをフロントギアにチェンジする。
マギーとジャックが乗るイエローキャブは、すり減ったタイヤを空回りさせ、前方に急発進した。タイヤの擦れる音とゴムの焦げた匂いが薄暗い倉庫に漂った。
「マギー大丈夫?」
「私は平気よ!!」
ジャックが運転するイエローキャブが、車載トレーラー周囲に屯する男達の脇を通過して、倉庫の出口へと向かって行く。キャブの助手席に乗るマギーはスマートフォンのカメラ機能を使い、あっけにとられた表情を見せる男達の姿や、彼らの車のナンバープレートを次々とカメラに収めていった。
この行為に、周囲に居た男達の表情は一変する。某国の秘密組織に所属する男達にとって、マギーの取った行動は到底容認出来るものではなかった。
男達の視線が集まる中、ジャックが運転する旧式のイエローキャブは錆びついた大型倉庫のシャッターをくぐり抜けて行った。
「
バックミラーで後方の状況を確認しながら運転を続けるジャックが興奮した声を出す。
「やるわね。貴方、スタントの経験もあるの?」
マギーがジャックの硬い腕にしがみつく。
「それはないよ! それより、マギー。ここは何処かな?」
「待ってて。いま確認する!!」
トレンチコートコートのポケットからスマートホンを取り出したマギーが応える。
「ジャック。摩天楼が北に見える。ここはブルックリン、アッパーニューヨーク湾に面した湾岸道路、シーポートや倉庫街のど真ん中よ!」
車窓から見える周囲の景色とスマホの位置情報を重ね合わせたマギーが、ジャックに二人が現在いる場所を伝えた。
「ジャック。ここから何処に向かうの?」
「マンハッタンだ‼ マンハッタンに向かう」
「マンハッタン、いいわね。どこまでも貴方に着いて行くわ!」
マギーがジャックの横顔を見詰め嬉しそうに応えた。
「マギー。僕らの車両の、後ろの状況を詳しく教えてくれないか!?」
キャブのスピードを上げ運転を続けるジャックが助手席に座るマギーに尋ねる。
「三台の、黒塗りのセダンが追跡してくる。流石に大型車載トレーラーは追っては来ない!」
キャブの助手席から大きく振り向いた姿勢で、マギーが答えた。
「気を付けて! 奴らはきっと拳銃を使用する」
「拳銃をですって!?」
「そうさ。君がスマートフォンのカメラ機能を使い、彼らの素顔や車両ナンバーを撮影した事で、彼らも引くに引けない状況となった」
「写さないほうが良かったのかしら?」
「いいや。写したのは正解だ!! ここで白黒はっきり決着を着けて
ジャックがはっきりと答えた。
「そうね。キッチリ片を付けてあげましょう!」
マギーに異論はない。
「そう。もう二度と僕らのデートの邪魔をしないように」
ジャックは旧式のイエローキャブを猛スピードで走らせている。
(デートって言った!?)
ジャックの口から突然飛び出したフルーティな言葉に、マギーは甘い喜びを感じていた。
ビジネスの申し込みをと待ち合わせをした筈の二人の時間が、何時の間にデートの時間に変わったのか? ジャックは発言の過ちに気付く事もなく、運転に集中をしている。
「それと、マギー。僕のスマホを持っていて。位置情報システムをONにして、ニューヨーク市警に連絡を入れるんだ。ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教授ジャック ヒィーリィオゥ ハリソンが、某国の諜報部員に監禁されるも自力で脱出、現在ブルックリン湾岸道路をマンハッタンに向けて逃走中。至急救援を頼むとね。そう伝えて!」
「解ったわ。某国の諜報部員と断言していいのね?」
「良い。たとえ間違っていたとしても、その方が市警も迅速に動いてくれると思う!」
マギーはジャックのスマートフォンを左手で受け取ると、自身のスマホはストライプスーツの内ポケットにしまい込んだ。しかしマギーがスマホの操作を開始する前に、二人の乗るイエローキャブのボンネットから白い煙が立ち上る。
これまで順調に走り続けてきたイエローキャブの速度がみるみると落ちて行った。
「ジャックどうしたの?」
マギーが悲鳴をあげる。
「エンジンルームから煙が出た。これ以上の走行は無理みたいだ」
ダッシュボード、メーターパネルの表示には、エンジンオイルの消失を示すランプが点滅していた。
「オイルが漏れたのね!?」
「車載トレーラーから勢いよく飛び出した時に、きっと車体を傷つけたんだ!」
「オンボロなのに、頑張ってくれたのね!」
「うん」
そしてあっという間に、二人の乗るイエローキャブは停車してしまう。
「マギー、早く車から出るんだ。早く、追いつかれてしまう!」
キャブの運転席から急いで飛び出してきたジャックが、助手席のドアを開けマギーの腕を引っ張り上げる。
「ジャック。市警に通報を…」
「解っている。けれど今は逃げるんだ。銃口の射程に入るのは得策じゃない!」
「どうするの?」
「走りながら考える。どこかに身を隠して市警に通報する。しかし、別の良い考えが浮かんだら即座に変更だ。いずれにしても、通報しても額を撃ち抜かれては意味がない。マギー、そうだろう。今は唯、走るんだ!!」
ジャックは湾岸道路の路肩にイエローキャブを乗り捨て、マギーの手を引きながら湾岸倉庫へと逃走を続ける。
走る二人の後方からは三台の黒塗りのセダンが迫っていた。
道路沿いを走り続け、立ち並ぶ倉庫群にたどり着いた二人は、セダンからは陰となる倉庫の海側の道へと回り込んだ。
「ジャック ハリソン教授!」
センスの好い黒いスクータに
「教授。そんなに息を切らして、どうしたのですか?」
ニューヨーク総合私立大学航空宇宙物理学教室、ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンが、偶然友人と共にこの岸壁で釣りを楽しんでいた。
「マーティン。見ての通りだ。某国の諜報機関に追われている。君の自慢の黒いスクーターを僕に貸してくれ」
ジャックは教え子のマーティンに頼んだ。
もう一刻の
緊迫した状況を察知したマーティン ヘンダーソンは即座にスクーターから降りて、ジャックとマギーにスクーターの座席を譲り渡す。
「教授、大丈夫です。このスクータは250cc。ぶっちぎりで逃げ切ってください!」
「マーティン。これからブルックリン橋を渡りニュヨーク
ジャックの切迫した声を聞いたマーティン ヘンダーソンは即座に釣竿を投げ出し、友人の持つオフロードバイクに飛び乗ると、この場を後にする。
そこに三台の黒塗りのセダンが到着する。
「マギー、ごめん。君の大切な頭を守るメットは無いんだ!」
マーティン ヘンダーソンのスクーターに跨ったジャックがマギーに断りを入れる。
「大丈夫よ! 私の頭は硬いし、違反金ぐらい、私にも払えるわよ!」
マギーはスクーターに跨り、ジャックの背中にしがみつく。
目の前にジャックとマギーの姿を見つけた諜報部員たちは、停止させた車のドアを開け、急いで二人に向かい駆け出そうとする。しかし二人が乗るスクーターが動き出すと、又即座に車に戻り込む。
「凄いマシーンね!」
「ああ。僕の教え子はブルジョアの出身らしい」
ジャックは後部座席にマギーを乗せスクーターを発進させた。二人を乗せたスクーターはぐんぐんと加速度を増し、湾岸倉庫群を抜け、再び湾岸道路へと高速で車体を乗り入れた。
追跡してきた三台の黒塗りのセダンも、大急ぎで方向変換をして、二人が乗るスクーターを追いかけて行く。
「
友人と共にオフロードバイクに跨るマーティン ヘンダーソンが、三台の黒塗りセダンから逃走するジャックとマギーの勇姿を見て、大きな叫びをあげた。
『マーティン。君の論文通過は、たった今ここで決まった』
美しい流線型のボディ、世界最高峰のメタリックブラックシップに跨るジャックが呟く。
「マギー、しっかり掴まっていて。スクーターのメーター最高表示速度は160Km/時、これでマンハッタンに乗り込む!」
「ええ。貴方のボディに、しっかりとしがみついているわ!」
マギーが大声で応えた。
二人はブルックリン湾岸道路を北上しマンハッタンへと向かった。後方からは三台の黒塗りのセダンが、猛烈なスピードで追い上げて来ていた。
「マギー。あいつはきっと、僕らに銃口を向けてくる。発煙筒を着火して、煙幕で奴らの視界を
スクーターのサイドミラー越しに、迫るセダンの助手席から男が半身を乗り出す様子を確認したジャックが、マギーに指示する。
高速で操縦を続けざるを得ない危険なスクーターの後部座席で、マギーは恐れる素振りも見せず、手放しで発煙筒に火を灯した。
「マギー。男が銃口を向けた。気を付けて!!」
ジャックは、男に拳銃の標準を定めさせないよう、スクーターを操り必死の蛇行運転を繰り返して行く。後方車両から放たれた数発の銃弾が、ジャックの右耳を
「あら。胸元に入れておいたスパナ、落としちゃったわよ」
「ギュギュユ」タイヤのゴムのねじれる音に続いて、「ダン、ダダンダーン」と、大きな衝突音が湾岸道路に鳴り響いた。後方から銃撃を仕掛けてきた黒塗りのセダンが、道路わきのフェンスに激突して横転する。マギーの落としたスパナが、フロントガラスを割って車内に飛び込んでいたのだ。
「ジャック。やっちゃったわよ!?」
高速で走り続けるスクーターから後ろを振り向いたマギーが、興奮した様子で声を上げた。
「自業自得」
「そうよね。だって私たち撃ち殺される所だったんだもの…」
「マギー、油断しないで! まだ二台来る!」
ジャックは更にスクーターを加速させた。
その時、マギーの着るネイビー ストライプスーツの内ポケットから、着信を知らせる振動が伝わる。スクータの後部座席に跨るマギーが、左手でシートのキャリアを握り右手で取り出したスマホから流れ出たのは、超有名なスパイ アクション映画のテーマ曲であった。
「お母様!? 何よ? こんな非常事態に!」
マギーも若い秘書ジェミニと同様に、会長イザベルから着信メロディーの変更を強いられていたのだ。
「お母様!!」
「あんた、出るのが早い。1分15秒は待ちなよ!!」
「お母様!!」
マギーは大声を上げる。
「お母様!! 今は非常事態です!」
マギーが母親と通話している間にも、追跡してくる二台の黒塗りのセダンは助手席の窓を開け、こちらに銃口を定める機会を狙っている。
「何かあったんだね?」
会長イザベルが緊迫した声で尋ねる。
「お母様。某国の諜報部員に追われているの。ジャックと二人、スクーターでブルックリン湾岸道路をマンハッタンに向け逃走中です。後ろから銃口を向けた二台のセダンが猛烈な勢いで追跡してくる」
「よし任せな! 先ずは、スマートフォンの通話をテレビ電話回線に変更だ。お前は、今起ってる事の総てを映像に映し止めるんだ。その上で、お前の美しい声でわかりやすく解説も入れるんだよ。二分後にスタートする。それまでは二人とも頑張り続けるんだ!」
イザベルは何かを確信した様子で話し続ける。
「了解。さっき撮った写真も転送するわね!」
マギーが母親に応える。
「マギー、誰からの電話?」
スクータの運転を続けるジャックがマギーに尋ねる。
「私のお母様! ジャック、もう大丈夫。だけど、もう少しだけ頑張って!」
マギーは精一杯の力でジャックのからだを抱き締め、優しいにおいがするジャックの背中に顔をうずめた。
「Good afternoon. How are you? 私はライズ ゴールド ムーン コーポレーション ジェネラルマネージャーの
マギーの美しい声と録画した全ての映像が世界中に発信されてゆく。
ライズ ゴールド ムーン コーポレーション会長であるマギーの母親イザベルが、即座に系列テレビ局に情報の公開を依頼した。それが世界に瞬時に発信されたのだ。
ニューヨーク総合私立大学、ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンからの通報を受けていたNew York市警が、即座にブルックリン橋を閉鎖する。
ブルックリン橋の上空には、市警や各社報道機関のヘリコプターが所狭しと飛び回り、猛スピードで追撃を続ける某国諜報機関の高級セダンや、車列をすり抜けながら走行するジャックとマギーの勇姿をリアルタイムで世界に配信する。
それは例えば、Tokyo Japan 新宿アルタビジョンにも、シンガポールやフィンランドの国々にも、この映像は流されてゆく。そして、タイムズスクエア LEDビジョンの前では、ニューヨークの街並みを歩く人々が皆足を止め、リアルタイムな映像を見詰めていた。
勿論、マギーが居住するビルのドアマンも、清掃員トミーやフルーツ店主ボブも、この映像にくぎ付けになる。気弱なジェミニなどは、黒塗りセダンからマギーに向け銃弾が発射されるたびに、何度も卒倒する始末だ。
既にすべてのチャンネル、ネットワークでこの映像が映し出されていた。世界中が、ジャックとマギーの勇姿に
「マギー。もう大丈夫だよ!」
スクーターの後部座席に跨り、柔らかい
「車列は渋滞だ。僕らを追跡してきたセダンは遥か後方となり、その姿はもう確認できない」
メタリックブラックのスクーターを
ブルックリン橋のマンハッタン側からは、緊急車両や市警のパトカーが、二人が乗るスクーターの横を逆方向に通り抜けて行く。上空には、二人を守り飛ぶ市警のヘリコプターの姿があった。
「流石よ。貴方はタフね」
マギーはジャックの
「君の方こそ。凄くチャーミングなのに、とても頼りになる」
ジャックはシャツの中に隠したレンチを地面に放り投げる。
「帰ろう。マギー」
ジャックとマギーはニューヨーク市警の警察車両に無事保護された。二人は市警のパトカーに乗せられ、ニューヨーク市警本部庁舎へと送られる。
ブルックリン橋に封じ込められた某国の諜報部員はすべて、警察に身柄を取り押さえられ、湾岸道路で横転したセダンの乗員と共に市警に留置された。ジャックのセミナーに通う秀才マーティン ヘンダーソンのスクーターは、警察の手で無事彼のもとに返還された。マギーとジャックは、ニューヨーク市警本部庁舎で状況の説明と捜査資料作成に協力した後、高級捜査車両に乗せられマギーのビルへと送り届けられた。