文字数 5,528文字

 フォーラムの当日、来賓の一人を控室に案内してから受付に戻ると、ホールの扉のそばに長谷さんの姿があった。
 長谷さんは、理香と同じくらいの年代の男性と二人で談笑していた。男性の方は初めて見る顔だ。
『Facebookでも紹介させてもらえたらと思うんですが、構いませんか?』
 木曜日の電話でそう言っていたから、きっと知り合いなのだろう。細身のスーツにローズ系のポケットチーフが嫌味なく似合っている。
 長谷さん自身はこれまでと変わらないはずなのに、どこか遠い世界の人みたいに思えた。こんな区民センターなんかじゃなくて、どこか別の──例えば、都心のしゃれた通り沿いのオフィスなんかにいそうな人。
 昨日、川辺社長に話を聞くまでは、長谷さんに会ったら、感謝の気持ちと、納品されたパンフレットを見て感じたことを、素直な言葉で伝えたいと思っていた。でも、今は話しかける勇気すら湧かない。
 この仕事を選んだことを後悔したことはないし、自分なりに頑張っているとも思う。だから堂々としていればいい。なのに、どうしてこんなにみじめな気持ちにならないといけないのか自分でも分からない。
 理香は、長谷さんからそっと目をそらし、長机に並べた受付名簿の向こうで待機してくれていた和希ちゃんに「おつかれさま」と声をかけた。
「裏、大丈夫なんですか?」
「うん。お茶だけ出して、丸岡先生とスミレ先生にお任せしてきた。出足はどう? どのくらい来てる?」
「順調ですよ」
 理香は、机の上の参加者名簿に目を落とした。受付を通過した人の名前の横に「○」がつけられている。
「今、半分ちょいってとこかなあ」
 壁の時計を見ると、開会まで、まだあと二十分ある。確かに順調だ。
「あと、飛び込みの人がちらほら。長谷さんのお知り合いも何人か来られてるみたいですよ。ほら、あの方もそうです」
 和希ちゃんは「ありがたいですよね」と言いながら、長谷さんの連れに視線を向けた。
「名刺をもらったんですけど」名刺の束を手に取り、一枚ずつめくっていく。「あ、この人」
 差し出された名刺には、大手広告代理店の社名と「クリエーション1部」という部署名が入っていた。ああなるほど、と思う。いかにもそんなイメージだ。
「長谷さん、気軽に出入りしてくださってましたけど、ああしてると、やっぱり世界が違うって感じですね。カッコいいなあ」
 意味もなく卑屈になりそうになって、理香は、気持ちを取り繕うように「デザイナーって、みんな研さんみたいなのかと思ってた」と口にした。
 和希ちゃんが「ぶぷっ、アフロ」と笑う。「そういえば、あの人もデザイナーでしたね。あっちはあっちで、また違う世界っていうか──違う人種?」
「でも、長谷さんって研さんの紹介なのよね」
「ぎゃー、忘れてましたけど、そういえばそうでしたね。うっそーって感じ」
 軽口をたたき合っているうちに、気持ちが落ち着いてきた。和希ちゃんと、ついでに研さんに心の中で感謝する。
 その時、長谷さんが理香の声に気づいたのか、目を上げた。ふわっとした笑顔を見せてくれる。あわててぺこりと頭を下げると、長谷さんが小さく手を振った。和希ちゃんがぱっと理香の方を振り向いた。
「まさか?」という問いかけに、理香はあわてて「そんなことあるわけないでしょ」と否定し、心の中で「だって、違う世界の人だよ」とつけ加えた。


 雑談をするひまがあったのはそこまでだった。
 開会十五分前を過ぎたあたりから、にわかに人が集まってきて、受付が混雑し始めた。列ができていることに気づいた長谷さんが資料の配布を手伝ってくれて、恐縮する。
 しばらくして、別のボランティアと受付を交代してもらい、来賓控室に移動した。そこから先は、来賓のステージへの誘導に、ステージ転換にと、ひたすら走り回った。基調講演が始まってからは、記録用のビデオの脇に陣取り、報告書作成のためのメモを取った。
 苦労して準備したフォーラムも、いざ始まってしまえば、終わりまであっという間だ。
 閉会のあいさつを聞いてから、ホールの扉を開け放った。すぐ外で待機し、大きなトラブルもなく終わったことに感謝しながら、会場から次々に出てくる人たちに「おつかれさまでした」「ありがとうございました」と頭を下げた。
 来場者の中には、日頃からつき合いのある団体の関係者もたくさんいて、何人もの人が労いの言葉をかけてくれた。プログラムの中でも、丸岡先生がファシリテーターを務めたパネルディスカッションが特に好評で、「ぜひ二回目を」とリクエストされた時は、とても嬉しかった。
「理香さん」
 人の流れが落ち着いたころ、名前を呼ばれた。顔を上げると、長谷さんが少し離れたところで手招きをしていた。数人の男女に囲まれている。
「“理香さん”?」
 和希ちゃんのつぶやきが隣から聞こえたが、説明している余裕はない。
「名刺、持ってる?」
 決して大きな声ではないのに、長谷さんの声はちゃんと耳に届いた。理香は「はい」と返事をし、和希ちゃんに「ちょっと行ってくるね」と声をかけて、その場を離れた。
 ローズ系のポケットチーフの男性の正体は分かっている。ほかの数人も、きっと同じような人たちなんだろうな、と思う。気後れがしてしまうけれど、AFFは恥ずかしく思わなければならないような団体ではない。だから、ちゃんと顔を上げて近づいていく。そうして、促されるままに長谷さんの隣に立った。
「せっかくの機会だから、あなたにも紹介しますね。名刺を交換しておけば、何かいいことがあるかもしれないし」長谷さんは自分の周囲を見回して、いたずらっぽく笑った。「──まあ、ないかもしれないけど。特に、小川さんのところはケチな会社だから」
 周囲が爆笑する中で、小川と呼ばれたポケットチーフの男性が口をとがらせた。
「長谷さん、自分の古巣をケチって言いますか?」
「古巣」という言葉で、長谷さんの経歴が分かった。研さんと同じ“有名美大”を卒業して、この人と同じ大手広告代理店に勤めていたということだ。川辺社長の話も併せて考えれば、たぶん広告業界の第一線にいた。そして、独立して自分の会社を設立した。
 才能にあふれ、それに見合った評価を受けて、自分の道を歩んでいる人。
──遠い──。
 本来なら、きっと接点なんてなかったはずの人だ。自分から興味を持ってAFFに関わってくれている研さんとは違う。
 理香は余計な思考を無理やり頭から追い払った。今考えるべきことじゃない、と自分に言い聞かせる。
「だって、ケチですよね?」
 目の前では長谷さんとその後輩の会話が続いている。
「まあ、ケチですけどね」
 小川さんが不機嫌な声で言ったかと思うと、いきなり笑い出した。ぱりっとした表情がはがれて人懐こくなる。理香は、その顔に少しだけ勇気づけられながら、名刺を交換して回った。
 流通大手、出版、音楽レーベル──。
たぶん、日ごろは足を運ぶことなんてない類の催しにわざわざ顔を見せてまで、長谷貴文というデザイナーとつながりたいと考えている人たち。
 多岐にわたる業種に、長谷さんの交流の広さを感じた。きっと、その一番端っこに、かろうじて理香がいるということなのだろう。


 フォーラムの打ち上げは、駅近くの通り沿いにある小さなイタリアンを貸し切って行われた。
 普段から、よく使わせてもらっている店だ。オーナーは中学校のPTA役員で、AFFの活動に賛同してくれている。時には、区民センターに自家製のスイーツを差し入れてくれることもある。
 会場の撤収作業が終わったあと、区民センターの担当者のチェックを受けていたら、遅くなってしまった。一人遅れて到着し、狭い階段を上がってドアを開けると、中はすでに盛り上がっていた。
「理香先生の到着でーす」
 和希ちゃんの声を合図に、あちこちから「おつかれー」の声が上がる。目の前に差し出されたグラスを受け取ると、四方八方からワインのボトルが出てきた。赤と白を同時に注がれそうになり、あわてて「白でお願いします」と言う。
「かんぱーい」の声とともに、あちこちでグラスをぶつけ合う音がした。理香は、その場に立ったまま、周囲の人とグラスを触れ合わせた。
「ここ、ここ!」
 大きな声で呼ばれて、和希ちゃんの隣の椅子に腰を下ろした。ワインを一口飲んで改めて周囲を見回す。今日の打ち上げは交流会も兼ねていて、会費さえ払えば誰でも参加できる。いつものメンバーに他団体の人も交ざっていて、にぎやかだ。
 気がついたら、たくさんの人の中に長谷さんの姿をさがしていた。
 長谷さんは、最後まで片付けを手伝ってくれていた。だから、そのままこっちに流れて来ているんじゃないかと思っていた。でも──。
──いない──。
 テーブルの向こうで、丸岡先生が今日のパネリストと話し込んでいる。理香のすぐ隣では、和希ちゃんが大学生グループとバカ話に興じていた。部屋の端っこでは、スミレ先生と篠崎先生がビールを酌み交わしている。その横に、教育委員会のソーシャルワーカーの顔も見えた。けれど、長谷さんの姿はどこにも見当たらない。
──帰っちゃった。
 苦労して準備したフォーラムの打ち上げなのに、そして、気の置けない仲間たちに囲まれているのに、突然、この場にいる意味がなくなってしまったかのような気がした。そこでようやく、もう少し同じ空間にいたかったのだと気がついた。あの人と──。
「すっごい残念」
 ぽかんと空いた心に、声が飛び込んできた。見ると、大学生の一人が和希ちゃんに話しかけていた。一瞬、自分が言われたのかと思った。
「何が?」
 あっさりと聞き返した和希ちゃんに、彼女が答えた。
「長谷さん」
 どきっとする。理香はそっと目を逸らした。でも、耳はどうしても二人の会話を拾ってしまう。
「あの人、カッコいいなって思ってて。センター出る時に『打ち上げ、参加されますよね』って声かけたんだけど」
 和希ちゃんが、呆れたように口をはさんだ。
「──あんたさあ、彼氏探したいなら、よそでやりなよ。合コンじゃないんだから。みっともない」
「ひっどい、和希。そこまで言う? ちょっと声かけただけじゃん」
 彼女は抗議し、それから、つまらなそうにテーブルに頬杖をついた。理香は思わず目を上げた。
「っていうか、ダメだよ、あの人」
「そうかもね」と和希ちゃんが同意する。「かわいそうだけど、あんたのことは好みじゃないかもね。少なくとも、合コン慣れしてないタイプの方が好きそう」
 彼女が、片手で長い髪をかきあげた。少し茶色くて、きれいな髪だ。
「違うよ。あたしがどうこうって話じゃなくて、用事があるんだって」
──仕事かな。無理をして時間を割いてくれたから、忙しいのかもしれない。
 ぼんやりと考えていたら、和希ちゃんの向こうで彼女が言った。
「────」
 思考が停止した。単語の意味は分かるけれど、言葉の意味が理解できない。
──今なんて言ったの? わたし、聞き間違えた?
「えっと、なんだって?」和希ちゃんが聞き返した。
「だから、娘さんの塾の迎え。夕飯は家で食べる予定だから、って」
 すぐ隣で交わされている会話から、耳も心も閉ざすことができない。
「中学一年なんだって」
 彼女は言い、不機嫌な顔でビールをぐいっとあおった。理香は視線を落とした。グラスを持つ手が震えていた。ワインをこぼさないようにグラスをテーブルに置き、震えを抑えようと、膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。自分が動揺しているのが分かった。
「あの人、せいぜい三十ちょいじゃん。びっくりした」
「長谷さんはさあ──」
 言いかけた和希ちゃんの声が、周囲の会話の隙間を抜けて、思いがけずきれいに通った。言葉の途中で、近くの男子学生がさっと食いついた。
「『長谷さん』って、デザイナーさんだよね、パンフレットの」
 みんな多少なりとも気になっていたらしく、名前が出た途端に、そこここで話題が盛り上がり始める。
「時々来てたけど、あの人、何者?」
「パンフレット、クオリティ高すぎだよね」
 いつの間にか川辺社長まで参戦し、理香にしたのと同じ話を熱く語り出した。社長が口にしたフルネームをスマホで検索したらしい誰かが、大きな声を上げた。
「日本のグラフィックデザイナー30にあがってる。なんかすごいよ、五番目に出てる。カンヌライオンズ20XXゴールド、日本広告アワード20XX特別賞──。ねえ、カンヌライオンズって映画祭とどう違うの?」
 声は暴力だ。無理矢理に耳に入ってくる。
 賞の名前なんて知らなくても、あの人が特別だということは、とっくに知っている。遠い世界の人だということも、手を伸ばすことさえできない人だということも、ちゃんと分かった。分かったから、だから──。
──もういい、聞きたくない。何も。
 なぜか涙がこぼれそうになるけれど、泣くわけにはいかない。
 あの人のきれいな手も、声も、ほほえんだ顔も、あの人が創り出すやわらかな世界も、いつの間にか溜めこんでしまっていたいくつもの優しい記憶のすべてを必死で閉め出して、心を空っぽにする。
 難しいことじゃない。だって、わずかな時間に過ぎない。初めて顔を合わせた日から、今日までの時間は。
──大丈夫、まだ間に合う。
 理香は、懸命に自分に言い聞かせた。
──大丈夫、遅くなんてない。だから、よかった。好きになる前で、よかった──。
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