第四章 ④
文字数 3,962文字
銭湯の裏に向かった。
そこに大きな欅の木があった。
父は、無言で俺を木に縛りつけた。
そんなこと、初めてだった。
恐怖を感じた。
納戸に閉じ込められたり、
頬が腫れるほど殴られたり、
バットで叩かれることもあったが、
木に縛られ、食事もトイレも
出来ないと言う厳罰は、あの日が
初めてだった。
俺は、木に縛られ、自由を奪われ、
自分のやった罪の重さを認識した。
ちゃんと理解できた。
自分の罪の重大さを。
だから、ある意味、父に感謝している。
木に縛りつけてくれたことを。
それぐらいしてくれていなければ、
俺はダメだったのだ。
だけど、父は、それで終わらなかった。
縛り終え、一度家に戻った、父は、
すぐに、戻って来た。
「解いてもらえるのかな?」と一瞬
甘いことを考えたが、
父が手にする金属バットが
目に入り、そんな考えはすぐに彼方に
消えて行った…。
木に縛りつけられて、逃げることも
動くこともできない、俺の尻は、
父の金属バットで何十回も叩かれた。
手加減なんか、一切ない。
正直、折れる、と本気で思った。
「この野郎ッ!よく聞けー!!
貴様ぁぁ!!
前に、おもらしをした女の子の
身代わりになって、ずっと悪者扱い
されたって言う小学生の男の子の
話しを聞いただろうがッ!
同じ小学生で、貴様は、逆に
か弱い女の子を追いかけまわし、
挙句の果てに、皆の前で
おもらしをさせるだとぅ?!
ふざけんなッ!!
このクソ野郎!貴様は、
一体何やってんだーー!!!」
父は叫びながら、何度も何度も
バットを振ってくれた。
途中で、父の叫びは、泣き声に変わって
いった。それが、分かった。
俺も、泣いた。
痛み、悲しみ、やり切れなさ……。
嵐のような時間が過ぎて、
父は金属バットを投げ捨てた。
そして、ぎゃん泣きする俺に言った。
「泣くな‼てめぇが、泣ける立場かぁ?!
朝まで、このまま突っ立てろッ。
夕食も抜きだ!
このまま小便でも、クソでも
垂れ流せ、このクソめがッ!!」
そして、家の方に歩いて行った…。
俺は、分かった。
このまま木に縛りつけられ、
奥中の味わった苦しみを俺も
味わうのだと。
俺も明日の朝までに何回か
おもらしするんだなぁと。
周りが、どんどん暗くなる。
真暗な闇の中、木に縛りつけられ、
シクシクと泣いていた。
どれぐらいたっただろう。多分、
1時間、2時間か……。
急に人の気配を感じた。
「父が、また何か……」と恐る恐る
振り返ると、そこには、白い服を着た、
父と同じくらいの年齢の男の人が
立っていた。
名前は思い出せなかったが、
顔は見たことがある。
たしか、母が、
「遠い親戚で、お金持ちのおじさんよ」と
言っていた、人だ。
その人は、俺に気づくと、
目を大きく見開いて、言った。
「なっ、何やってんねん!?
君は、ここの次男坊やろ?」
そう言いながら、俺に近づき、
俺の肩に手を置いてくれた。
そして、俺を、自由にしてくれた。
自由にされたことで、ホッとして、
俺はさらに泣きじゃくった。
すぐに、外の異変に気付いたのか、
母と兄が、家から飛び出して来た。
高校生の兄は、その親戚のおじさんに
気づくと、驚いた表情を
浮かべながらも丁寧にお辞儀した。
母は、戸惑っていた。
何で、その人が、こんな時間に、
ここにいるのかが分からないような、
感じだった。
でも、すぐに、思い当たったようで、
今度は、驚きながらも、
恐縮したような態度になった。
そして、言った。
「ご面倒をおかけしまして……。
申し訳ありません」
それから、ペコペコと頭を下げていた。
本当に、申し訳ないような感じで……。
だが、俺は、分からなかった。
何で、こんな夜に、
遠い親戚のおじさんが、来たのか?
遠い親戚のおじさんは、
俺のことを、母と兄に
引き渡しながら、言った。
「何かあったんだろうけど、
もう反省してるんだから、
こんなに泣いて……。家に入れてあげて。」
そして、母に尋ねた。
「義牧さんは、もう寝てるのかい?」
母は、「はい」と頷いた。
その人は、言ってくれた。
「私が、勝手に解いて、
勝手に家の中に入れて、
『もう反省しているから、
家の中で寝させてあげなさい』と
強く言い張ったと、明日の朝、
義牧さんに言っていいから……」
母と兄は、深く、その人に、
お辞儀した。
俺も、習った。
ちなみに、今だから分かるが、
あれは、将来の義姉の父だった。
それに、今なら、誰が、
義姉の父を呼んでくれたのかも、
なんとなく分かる。
結局、あの当時は、その人が、
何のために我が家に来たのかも、
誰なのかも、よく分からないまま
だったが、俺を助けてくれた、
恩人と言うことで、子どもながらに
感謝した。
その後、母は、俺を2階の和室に
連れて行った。
そして、俺は、その日、
生まれて初めて母に殴られた。
びっくりした。
父には殴られまくってきた。
しかし、母に殴られたのは
本当に初めてだった。
もちろん母だから、
父の拳にくらべれば、
たいしたことはない。
母は俺を一発だけ殴って、
涙ながらに言った。
「女の子を、あんな恥ずかしい目に
遭わせて……。あんたは何をしてんの?!」
そして、大声で泣いた。
実際、父に木に縛りつけられ、
バットでぶったたかれるより、
この母の一発と涙が、強烈だった。
確かに、尻はパンパンだった。
腫れっぱなしで、1,2週間は
椅子に座るのが本当にきつかった。
だが、あの母に殴られた頬の痛みは、
それよりも、ずっと続いたように
感じる。
ガンガン響き続けた。
今でも思い出す。
あの音、あの痛み。
今、思う。両親について…。
「よくぞ、あの日、殴ってくださった」
と。
世間では、甘やかされて育つ子どもが
多い。
両親に殴られると言うことを
経験しない子どもが多い。
だが、あの日、
あんなに殴られなければ、自分は、
自分のしてしまったことを
軽く考えて、深く反省することも
なかっただろう。
おそらく、のうのうとその後も、
奥中のことなんか忘れて、
生きているはずだ。
そして、俺は、柔道を、奥中が学校に
来なくなってすぐに、やめた。
大好きな柔道だったが、自分に
罰を課すと言う一面も
ちょっとだけあった。
だが、同時に体が拒絶反応、
拒否反応を出していたのだった。
技を決めたり、相手の上に
乗っかったりするならば、
俺の中で、あの日 のことが
フラッシュバックする。
俺の体の下で泣いている、
おもらししてしまっている奥中の姿が
バンッ―と俺に襲いかかってくる!!
被害者の奥中が事件の後に
苦しむなら分かるが、加害者の俺が
ずっとその記憶に苛まれる。
これは、俺への天からの罰だと
幼心に考えた。
もう柔道はできなかった。
そして、俺は、柔道から逃げた。
その後、今日にいたるまで、
奥中とは一度も会っていない。
そして、俺は小学校を卒業した。
奥中と一緒に卒業すべきだったのに、
奥中はいなかった。
もう、奥中のことを
憶えている子もほとんど
いなかったはずなのだ。
そして、俺は地元の中学校に
進んだ。
だが、中学に入学して早々大事件が
我が家に起きた。
母が、突然倒れた……。
中学の授業中に俺は
呼び出された。
「何かな…?何か、したかな?」と
考えながら職員室に向かった。
何も思い当たらなかった。
職員室に入ると、女の教頭先生が
「あっ。1年の……。
家の人から電話よ。
お母さんが大変なんだって。
落ち着いてね」と言いながら、
電話の受話器を渡してくれた。
電話をかけてきていたのは、
兄の奥さん…、兄嫁だった。
俺より9歳年上の人で、兄とは
高校卒業してすぐに婚約し、
その次の年に結婚した。
あの頃は、もう結婚していたけれど、
まだ二人に子どもはできていなかった。
つまり、俺に、姪や甥はいなかった。
実際、中学1年で叔父になっても、
俺はピンとこないで困っていた
かもしれない……。
ちなみに、話がそれだしているけれど、
俺が始めて『叔父さん』になったのは、
高校1年の時だった。
そう兄夫婦、二人には、
長い間子どもが生れなかった。
もう中学生の男子だ。
色々なことは分かっていた。
夫婦の営みのことも…。
だから、子どもが生れない
兄夫婦のことは、
「経済的事情とかあって、
避妊してるんじゃないの。
そういうことはしているけれど、
子どもは作らないようにしてんだな。」
と、俺なりに考えていた。
と言うより、あの当時の俺には、
そうとしか考えられなかったし、
その後もそう信じ切っていた。
だけど、ある日、母が父に
「美織さん、またダメだったって。
あの子、表面的には明るく
振舞ってるけど、
かなり傷ついてるわ……。
それに、義治もこれ以上はお金も
出さないし、治療にも
協力したくないって、言っている
らしいの……。
美織さんには、赤ちゃんが
できないし、私は倒れちゃうし……。
お父さん、これでも、本当に
神様はいるのかなぁ」と
話しているのを聞いてしまった。
どっちかと言うと、愚痴のように
聞こえたし、母がこんなに弱音を
吐くのも初めて聞いた。
これが、中2の冬だった。
俺は、「そうだったのか……。」と
立ち尽くした。
予想だにしない事実だった。
兄嫁から、そんな雰囲気は
全く感じていなかったから、ずっと。
それで、話を戻す。
そんな明るく、穏やかで、笑顔の
かわいい兄嫁からの学校への突然の
電話。
俺は、中学1年、兄嫁は22歳だった
はず。
だが、この時、兄嫁はパニックに
なっていた、取り乱していた。
すすり泣いていた。
只事じゃないと思った。
「義時君!?
お義母さんが急に銭湯で
倒れちゃったの!
脳出血じゃないかって、
お医者さんが……。
とにかく、今、市立中央病院に
いるから急いで来て!」と、
兄嫁は叫ぶように言った。
一瞬、何が起こってるか
分からなかった。
何秒かして、言われたことを
理解した。
「嘘だろ……」と信じられなかった。
信じたくなかった。
受話器が右手の中から滑り落ちた。
何も聞こえないような感じだった。
母が、今にもこの世から消えて
行ってしまうような感じがした。
教頭が大きな声で何か言っていたが、
全く何を言われたか憶えていない。
(著作権は、篠原元にあります)