第二十二話 他人に対する気遣い

文字数 1,144文字

 誰もいない。
 五月蠅く騒ぎ立てる女もなく。
 ひたすらに静かである。
 整然と並んだ個室のドアはどれも閉まっている。
 一番奥だったか。
 カツコツと己の足音だけが響き一番奥の個室の前で止まる。
 物音一つ漏れてこない個室の前、俺は足を振り上げドアに蹴り込んだ。
 バッキンと静謐な化粧室に音が轟きドアは吹き飛び、その先に時雨さんがいた。
 時雨さんは便器に尻を呑まれ、まるで海で浮き輪の穴に尻を入れて浮かぶような格好をしている。スカートは無くショーツは床に落ちていて、本当に根元まで引き締まった太股が晒されている。これが青い空や青い海の元なら健康的に見えるだろうが、便器から生えていることで背徳的なスパイスが掛かった卑猥な芸術に見える。
 俺は時雨さんの下半身を見ないよう時雨さんの傍に駆け寄った。
「時雨、俺にしっかりと抱きつけっ」
 時雨さんは恥ずかしそうな顔を見せ視線を外して戸惑いを見せた。
まあ、好きでも無い男に抱きつくのは躊躇いがあるだろうが、今はそんなときじゃ無い。俺から抱きつこうかと行動に起こす前に、死ぬよりはマシと思ってくれたのか時雨さんの方から俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
時雨さんの柔らかい胸が潰れ密着し、暖かい体温が胸越しに伝わってくる。
例えこれが愛情表現からのハグで無いとしても、心は諦めている俺にとっては形だけで十分過ぎるご褒美。答えなくては彼氏じゃ無い。
 俺は屈んだ上体から腕は便器の縁を掴み、足にはあらん限りの力を込めた。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 だが時雨さんは僅かでも上に持ち上がらない。俺の持つ四肢の力を全て込めているのにまるで持ち上がらない。
何て力だ。
 このままじゃ駄目だ、例え俺が命を賭けても無駄だ。根性で何とかなるのは物語の中だけだ。
このままなら俺は時雨さんに引きづり込まれるように便器に吸い込まれてしまう。便器に吸い込まれて終わる、そんなマヌケすぎる最後なんか認められるかっ。
「時雨、手を離せ」
「えっ。ボクを見捨てるの?」
 ぽつりと漏れた時雨さんの耳元を小さく震わす声。
 心が傷付くが冷徹になれ。
「時間が無いんだよっ、離せっ」
 何の説明も無い俺の叫びに時雨さんの拘束は優しく解かれ、俺は踏ん張っていた反動で後ろに蹌踉めいた。蹌踉めき俺が離れて見えた時雨さんの顔はしょうがないといたずらっ子を許す母のような顔をしていた。
 時雨さんは俺が自分可愛さに見捨てたと思っている。
 そう思ったのなら罵ればいいじゃないか、怒ればいいじゃないか、恨み言を言えばいいじゃないか。
なのに時雨さんは黙って俺を解放してくれた。
その心は気高い。
でも甘えてくれない心に俺は悲しかった。
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