第八章 聡美の事件前夜

文字数 7,549文字

第八章 聡美の事件前夜

再び、継夫はお茶屋の店員として働く日々に戻った。もう小説の事は口にしないで、ずっとお茶屋さんとして生きていくつもりなのだろうか。たぶんそうなのだろうと思われる。意外に男性というものは、あきらめがきく。まあ、そういうことだ、みたいな感じで決着をつけることにたけている。武士道という言葉もそこから来たのかもしれない。事実、主君から変な理由で切腹を命じられたりとか、「あきらめる」ことを要求させられることが結構多かった気がする。ところが、女というものはそうはいかない。単に経験不足というだけではなく、もともと潔くスパッと、というものは苦手なようにできているらしい。過去の文献にも、そのせいでいろんな事件が勃発した、という記述は結構ある。

時折、聡美はショッピングモールに行く事があった。当然、お茶屋さんも立地していて、継夫もそこで働いていた。聡美は、さすがに声をかけるなんてことはしなかったけれど、彼がああして働いているのを見るのは、なんだか、かわいそうだなあという気持ちになってしまうのだ。

「ねえねえ、お願いだから二階まで運んでくれないかな。今度は二階の文房具屋へ行きたいんだ。」

遠く離れたところで、杉三がまたそんな事を言っているのが見えた。エレベーターは相変わらず故障したままで、いつまでたっても修理が開始されないのだった。一体なぜだと考えていたが、数日後にショッピングモールは改装のため一時閉店することが決まっていて、エレベーターは現在の位置とはまた別の位置に移転することになっていると店員から聞かされた。そうなったら確かに修理をしても意味がないので、改装するときに直せばいいくらいにしか思っていないのだろう。普通の人から見ればエスカレーターを使えばいいことなので、あまり問題視しないのだが、エスカレーターを登れない杉三たちには死活問題だ。

「ちょうどいい。俺たちもそこへ行くから、手伝ってやろう。」

制服を着た、二人の力のありそうな高校生が、杉三に向かってそう返答した。

「おう、頼む頼む。見かけによらず、しっかりしているね。」

「よし、俺が車いす持ってやるから、お前は背負ってくれ。」

「おっけ。任しておけ。」

高校生の一人が杉三を背負って、もう一人は車いすを持ってエスカレーターを上がっていった。たぶん、制服の色から判断すると、富士市内では結構有名な名門高校に通っている生徒だと思われるので、もしかしたら受験勉強の妨げかもしれないとも言えなくもなかった。もしかしたら、受験勉強の道具を買いに文房具屋に行くのかもしれないのに、障碍者が自分を運んでくれと命令を出して、当然のように文房具屋まで連れて行ってもらうというのは、かえってわがまますぎると言えなくもなかった。高校生たちは、杉三の車いすが手漕ぎでぼろぼろのものであるのを見て、とても驚いていた。受験勉強とはまた違う「発見」なのかもしれないけれど、どうもそれはあまり重要視されないで、試験の結果のほうが重要視されてしまうのは、なんだか悲しいものでもある。

高校生たちは、杉三としゃべりながら、あっという間にエスカレーターを上がってしまった。それを見て、聡美は、彼らが大損をしていることに不憫だと思い、また、大損をさせた杉三が、全く謝罪の言葉を出さないのに怒りも覚えた。現に、私の思い人は、そういう態度を批判しただけなのに、認められなかったじゃないかと。

しばらくその場にとどまった。やがて杉三が高校生たちに背負われて、エスカレーターを降りてくるのが見えた。

「どうもありがとうな。今日は本当に助かった。またどっかで手伝うことがあれば、よろしく頼むぜ。」

高校生たちが、杉三を手早く車いすに乗せる。

「いいよ、おじさん。おじさんの話はとっても面白かったよ。おじさんはこの後、どっか行くのか?」

「ああ、これからタクシーを呼んで家に帰るんだ。」

「じゃあ、俺たち、タクシーが来るまで見送るよ。そんなぼろぼろの車いすじゃ、途中で壊れてしまうのではないかと気になってしょうがないよ。」

高校生たちはそんな事を言っている、それほど、杉三の車いすは古ぼけたものであった。

「だけど、予備校の時間に間に合わなくなるぜ。」

「いいよ、一日くらいさぼったって。それよりも、俺、どうしても放っておけない。」

「そうだよな、一期一会という言葉もある。よし、俺も予備校さぼって、おじさんを見送るよ。」

何を言っているんだ、そんな大事なことをさぼってどうするんだ、と聡美は思ったが、高校生たちにとっては、新鮮な体験なのかもしれなかった。

彼等は、杉三の車いすを押して、次のようにしゃべりながらタクシー乗り場へ向かっていった。聡美も、なんだか気になって、こっそりそのあとをついていく。

「まったくな、困ったことに、俺たちにとって受験生になるってことは、高校球児から、ただの人へ転落だ。それに、今まで学校の名を背負って頑張って来いと言われていたのに、甲子園が終わればもう、成績の悪いお荷物さんだぜ。」

確かに甲子園と受験勉強の両立は非常に難しいものがある。なので、浪人する人が多いと聞く。それはある意味運命的なものというか、高校球児の宿命ともいえる。特に進学を売り物にする高校だと、そうなってしまう。

「そうかそうか。君たちは甲子園まで行ったのね。ついでだから、おじさんというのはやめてくれよ。僕は自分ではおじさんと思ってはいないからな。しいて言えば、杉ちゃんと呼んでくれ、杉ちゃんと。それに、甲子園に行ったことは、決して悪いことではないし、お荷物さんと呼ばれても、小さくなってはいけないよ。受験よりも、甲子園のほうが、思い出としてははるかに大きくなることに気が付きな。」

杉三がそういうと、高校球児たちは目を輝かせた。

「そう言ってくれるのはありがたいのだけど、現に俺たちは今、お荷物さんと言われている。甲子園に行くまでは、一心に期待をされていたが、終わってしまうと、手のひらを返したように、あっという間に先生たちは冷たくなった。まあ、その切り替えがうまくできればそれに越したことはないが、俺たちはどうもそれはできないよな。」

「全く、だから教師ってのは嫌いなんだ。そうやって生徒を道具にしてしまうからな。まあ、それが大人になる第一歩と言って美化するのだろうが、甲子園の思い出は絶対忘れずに持っておきな。逆を言えば、無理やり消そうとしないで、燃え尽きるまでやれたと思いな。そして、受験という砂を噛むような行事よりも、甲子園に行ったことのほうが絶対感動は大きいから、それを忘れるなよ。どうか受験の事よりも、甲子園の思い出のほうを、大事にしてくれることを望む。」

「おう、ありがとう!よかったな。俺、甲子園の思い出なんて忘れてしまえと怒鳴られて、あれほど頑張った高校野球を忘れてしまえとはどういうことだと、食ってかかってやりたかったよ。もちろん、簡単に忘れることができる人もいるけどさ。まあ、一回戦で負けたから、それでよかったのかと解釈すればいいなんていう人もいたけど、どうしてもできなかったんだよ。」

彼が言う通り、甲子園は野球の聖地である。たとえ一回戦だけであっても、そこに立ってプレーができたということは、素晴らしい思い出になるだろう。何十年も高校野球が続いてきたことを考えると、そういう気持ちが沢山詰まっているのだと思われる。

「きっとそれでいいさ。甲子園に出たなんて、すごいもんじゃん。受験は、結果次第では善というよりも口にしたくないことになってしまうが、甲子園は勝っても負けてもすごいことになる。」

杉三がそういうと、高校生たちはパッと顔を輝かせた。これが、学校でどれだけ「お粗末」に扱われてきた証拠だろう。まあ、結局のところ、生徒なんて、学校の評判を上げてくれればそれでいいのだと考えている教師があまりにも多いから、甲子園に行くまでは称賛し、終わってしまったらお荷物さんにしてしまうのである。生徒は、コンピューターのように指示をされればすぐ動くものであるかというと、そうではないことをまるで知らない。

同じ事は、生徒以外にも、発生してしまうのだが、、、。

「ありがとな。俺たち、なんか今日のことで救われた気がしたよ。助けてあげた人に、逆に俺たちが助けてもらったような気がする。今日は本当に嬉しいな。ほんと、ありがとうな!」

「不思議だな。俺たちのほうが、助けてもらうなんて、全く世の中ってのは、面白いな。片っ方だけが得をして、片っ方は損をするなんて、絶対ないんだねえ。」

高校生二人には、確かに新鮮な体験だったようだ。こういう体験のほうが、机に向かって勉強を強いられるより、よほど感動は、大きいと思われる。感動を分かち合うなんて、小学生であれば、それを作文にするなどあったが、高校であれば、そんなことはばかばかしいとされて禁句にされてしまう。中には、それが度を越して「障害」と言われてしまうことさえある。

「本当だ。もっとそういう感動が素直に表現できる場があるといいなあ。若いときにそれを打ち消してしまおうとする教育は、やっぱりよろしくないね。」

杉三がそういうと、ワンボックスのタクシーがちょうど入ってきた。側面にみんなのタクシーと書かれていて、障害者マークもちゃんとついている。

「おう、いいところへ来てくれたね。ちょっと乗せて行ってくれ。」

杉三が、運転手に向かって手を挙げると、タクシーは彼らの前に止まった。がっちりした体格の中年運転手がタクシーを降りてきて、後部座席のドアを開けた。

「はいよ。君たちも一緒に乗るのかい?」

「いや、俺たちは、すぐそこの予備校に寄って行きますが、せめて、乗っかるところまで見届けてからでもいいでしょうか。なんだかどうも、心配でなりませんので。」

高校生たちは、そんなことを言い出した。ここでもし普通の大人であれば、勉強する時間が無くなるだろ、さっさと帰れとかそういう言葉を言うのだろうが、運転手はそういう考えの人物ではないらしかった。

「はいよ。それなら、そうしなよ。どうせ君たちは、向こうの藤高校に行っている生徒だろ。それならある程度、自己管理もできるのだろうから、社会勉強だと思って見学していきなよ。」

「運転手さん、高校は階級とは違うんだぞ。」

杉三が訂正したが、藤高校となれば、超有名高校だ。誰でも一度や二度はあこがれるところだ。文武両道で進学率だけでなく、よく甲子園に出場していることで名を知られていた。

多少、高校の名を口にすることで、ある程度通っている生徒の、自己管理能力もわかると言われていた。それは、一部では人種差別にもつながるが、田舎地域であればあるほど、そういう傾向がある。たぶん、運転手もそう思ったのだろう。ほかの高校の生徒は、遊んでばかりいて、強制しなければならないという気持ちが生じてしまうことが多いが、藤高校となると多少免除される。

「まあ、俺たちは、そこに行ってても、ほんの端くれだけどね。」

高校生がそう訂正しても、運転手の意見は変わらない。

「謙遜するなよ。そこに入っているだけでも、ほかの子とは違うでしょう。で、杉ちゃん、どこまで行くの?」

「あ、うちまで送って行ってくれればそれでいい。」

「よしわかった。じゃ、後ろから乗ってくれ。」

運転手は、後部座席からスロープを出して、杉三を座席に乗せた。

「こんなでかいタクシーに一人で乗って、お金がかかりすぎないかな。」

高校生がそういうと、

「いや、このタクシーは、車体こそでかいが、料金は普通の小型タクシーと変わらないようになっているのさ。まあ、君たちはタクシーなんて、なかなか使わないから、わからないかもしれないけどさ。日本の法律ではそうなっているんだよ。」

運転手がそう解説してくれた。二人は、目を丸くして何か考えている。

「まあ、藤高校に行っているくらいの階級では、きっと幼い頃から何から何まで一番で、最高級の移動手段しか与えられてこなかっただろうし、大量のSPがくっついてくるだろうから、なかなか僕たちが、こうして移動するなんて、見たことなかったよなあ!それならよほど、新鮮だっただろうよ。まあ、きっと、そこへ行っているのだから、ものすごくよい職業に就くこともある程度保証されているとも思うけど、そこへ就いたら、こういう障害者がいるってことも、忘れないでいてくれよな。じゃあ、またな。きっとまたどこかで会おう!」

杉三が、後部座席の窓から手を出して、手の甲を向けてバイバイすると同時に、タクシーはエンジンをかけて走り出して行った。切り替えの早い二人の高校生たちも、そのまま何かしゃべりながら、予備校へ向かっていった。きっと彼らは、このことを何かに生かすことはできるだろう。藤高校と言えば、文字通り、この地域では最高級の高校で、有名な大学に進学していくことも少なくないのだから。そして、逆を言えば、子供のころに感動したことを実現させるのに、身分の高さと経済力は、必要十分条件になる。

聡美は、その一部始終をみて、非常に困るという感情も沸いたが、ある意味では羨ましいとも思った。自分のような身分や経済力では、いくら感動して世の中に提言したいと思っても、できるはずはないことはとっくに知っていた。

その数日後、ショッピングモールは、改装のため、一時的に全面閉店した。聡美も、保育園の仕事に戻ったが、まあ、クラス担任をしているわけではないので、あまり需要なポジションということはなく、子供にもほかの保育士にも、ただの付属品という扱いしかされない一日を過ごしていた。家の中では相変わらず家政婦的な役割を負わされているだけで、何も生きがいなど感じられなかった。

実は、聡美には重大な問題があった。両親が望んでいる「お世継ぎ」をいつまでたっても作れないことであった。血統などどうでもいいが、存在だけはほしいとか彼女の両親は主張していた。外国人のイーヨーと結婚を認める条件もそれだった。それをはやく実現させたいと思ったが、夫のイーヨーは、介護ヘルパーの仕事で忙しく、まず第一にそれをするための時間も場所も提供してくれなかった。聡美は、クラス担任をしていなかったのも、この事業を成功させるためには、時間を持つことが必要だから、依頼されても強固に断ってきたのだが、イーヨーが協力してくればなければできない話なのは一目瞭然。一向に、それが実現できる機会はなかった。イーヨーはイーヨーで、子供が欲しいと望まないわけではないらしいが、それでも、働くきっかけは持ちたいと思っているようで、介護ヘルパーの仕事に打ち込んでいる。それに最近は製鉄所を手伝うとか、知的障碍者施設である紫陽花園を手伝うとか、新たな奉公を始めてしまって余計に家に帰ってくる回数は減った。勤勉を美徳とする国家の出身者ではないし、女性に対して結構支配的なひとが多いと聞かされた地域の人なのに、なんでこんなに家のことに無関心なんだろうと思ってしまわないわけではなかった。

その日も、聡美が早く帰ってきて、ご飯の支度をしていると、ガチャンと玄関ドアが開いた。

「あら、今日は早いじゃない。」

聡美は、思わず夫に声を掛ける。もしかしたら、今日こそできるかも?と期待感がわく。

「ごはんは?」

「とっくに済ませたよ。」

ぶっきらぼうな返事が返ってきた。

「じゃあ、すぐにお風呂に入る?」

「いや、着替えを取りに来ただけで、すぐに紫陽花園のほうへ行くんだよ。この制服じゃ、紫陽花園の人に怪しまれるでしょ。」

介護ヘルパーとして働いている会社では、制服が存在するのだが、紫陽花園では警備員とかそういう者であっても、制服は全くない。つまり、警備員でも私服で仕事をしている。理由は、利用者たちは制服を着用していようがいまいが、お構いなしに好きだと思った人は声を掛けるし、逆に制服を怖がって近づかなくなる利用者もいるからである。

「ちょっと待ってよ。今日は、紫陽花園の手伝いはない日ではないの?」

「まあ、営業はしているからね。老人施設と違って、盆休みとかそういうものはないんだよ。まあ確かに休みを取る職員はいるが、そうなれば必ず誰か代理人を立てる。」

つまり、代理人として、紫陽花園に行くことになったのだろか?

「どういうこと?」

「だからね、紫陽花園の職員さんの一人が、急遽夏風邪でお休みしなければならないので、来てくれないかって、電話が入ったからね、ちょっと手伝ってくるんだ。」

「じゃあ、帰りはいつになるの?」

イラっとして、思わず確証を聞いてしまう。

「明日は、朝から別のお宅へ呼び出されているから、今夜はどこかカプセルでも泊まっていこうと思っているよ。全部が終わるのはいつかわからないな。」

日本人と違って、何でも合理的に考えてしまう習慣も身についてしまっているようだ。日本人であれば、短時間でも家に帰ってくるのかもしれないが、イーヨーの頭にはそういう考えはないらしいのである。まあ確かに、富士市内にはカプセルホテルというものは駅前に結構ある。ちょっと泊まる程度であれば、使わないてはないと思っているのだろう。しかし、聡美はそんなもの作らなくてもいいのにと思ってしまった。

「ちょっとだけでも家に帰ってきたら?」

「いや、そうしたらかえって遠回りになって、呼び出されたお宅に遅刻したら大変だ。今日だって、七時までには紫陽花園に行かなきゃならないんだから、のんびり会話なんかしている暇はないよ。」

そういって、さっさと着替えを取りに自室に行ってしまうのであった。聡美は、大事なチャンスを逃してしまったとして、思わず地団駄を踏みたいほど悔しかった。そんな聡美に声を掛けることもせず、イーヨーは、私服に着替えて、出かけてしまった。隣の部屋で年老いた両親が、働き者なのはいいが、あんまり働き過ぎて体を壊さないようにね、なんて、間延びした口調で言っていた。

聡美は、手っ取り早く夕食を作ったが、両親と一緒に食べる気はしなかった。テーブルの上に食器を乱暴に置くと、何を怒っているんだと注意をしそうな両親に、ちょっと買い忘れたものがあるからすぐに買ってきますと言って、ドアを乱暴に開けて部屋を出て行った。
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