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文字数 7,777文字

束の間の盆休みが終わり、再び錦糸町に活気が戻っていた。
無料案内所の前に、黒龍會の幹部である趙佳一(チャオジャイ)尹明輝(ユンミョンヒ)の姿があった。
二人は自分たちと同じ位の背丈の東欧系外国人の男を挟むようにして立ち、何事か問い詰めているように見えた。東欧系の男は大袈裟な身振り手振りを交えて必死に抗っている。他の客引き連中は少し離れた場所から様子を伺っていた。
これまでにも牡丹橋通りや馬車通りの暗がりで集団に囲まれたり、殴られたりする客引きやチンピラの姿を見掛けたことがある。錦糸町では日常茶飯事の光景だったから、あまり気にも留めていなかったのだが、今こうして記憶を辿ってみると、その場にいたのは趙のような巨漢の男や、尹のような刃物を思わせる男だったかもしれない。
その内、尹が男の耳元で何か囁き、同時に趙が男の襟を掴んで強引に引き摺りながら、建物裏の駐輪所の暗がりへと消えて行った。
深夜のパトロール。黒龍會のシマで勝手な商売は許さない。そんなところだろうか。

『バー松尾』へ顔を出すのは二週間ぶりだった。出迎えてくれた明日香ママはスパンコールをあしらった黒のカットソーに細身のデニムという、身体の線の細さがより強調された出で立ちだった。そして席に着くなり、すぐに良く冷えたおしぼりを手渡してくれた。
その晩はバーブラ・ストライサンドが静かに流れていた。
「嫌んなっちゃうわね。夜になっても蒸し暑いまんまでさ」
俺はタオルで顔を拭きながら答えた。
「ああ。だからママの淹れてくれる冷たいビールが飲みたくなったんだ」
「あら、嬉しいこと」
明日香ママはそう言ったものの、その顔に本当の笑顔はなかった。まだいつかの優男のことを引き摺っているのだろうか。だとしたら、らしくない。いつもならとうに気持ちを切り替えて、新しい男に乗り換えているタイミングだ。
俺はゆっくり注がれていく琥珀を眺めながら尋ねた。
「最近、真鍋さん、来た?」
ママは首を横に振った。
「あの人、先週から一度も顔を見せてないのよ。もしかしたらあんな記事を書いたもんだから、今度こそ本当に殺されちゃったのかもね」
そう言ってママは泡が消えるまでの間、一旦瓶を置くとカウンターの下から一冊の雑誌を取り出した。それは例のタブロイド誌『実話ダイナマイト』だった。
デフォルメされた悪人顔のアニメキャラが自らの腕に注射を打ち、恍惚とした表情を浮かべるイラストの上に〈歌舞伎町ドラッグ戦争〉〈中国マフィア第三勢力〉〈暗躍する北朝鮮スパイ〉〈セックス教団潜入〉などのセンセーショナルな見出しが躍っていた。
その中で一際目を引いたのが〈衝撃ルポ! 日本代表ストライカー集団レイプ事件〉だった。
巻頭カラー特集とテキスト記事の二部構成で一年前に起こった〈サッカー日本代表・竹廣和哉らによる集団レイプ事件と示談交渉〉の経緯。その後の取材を巡る球団及びサッカー連盟の非常識な対応と記者自身が被った〈暴行襲撃事件〉の真相。そして執拗な取材の末に辿り着いた〈襲撃事件首謀者の告白〉などが真鍋の署名記事として事細かに書かれていた。
この記事が契機となり、スポーツ新聞やテレビワイドショーによる後追い報道が過熱していた。
竹廣の所属チームである横須賀FCの広報部は〈事実関係確認中〉とし、日本サッカー連盟は出版社及び記事を書いた記者に対して法的訴訟も辞さないと鼻息を荒くしたが、肝心の竹廣の代理人であるイノセントは事実関係が明らかになるまで竹廣との契約は一旦保留し、契約したスポンサーへは賠償金を支払う用意があると発表した為、世間の竹廣に対する見方は一気にグレーから黒へと変わった。
またある女性週刊誌は共犯者で竹廣の先輩であるアリーナ副支配人の北嶋靖之の悪評を取材して掲載した。北嶋は他にも些末な女性問題を起こしていた。
更にある地上波放送局が被害者である長峰真希と独占契約を交わし、実名顔出しの生放送で証言させたことで、もはや竹廣に勝ち目はなくなってしまった。
長峰は連日ワイドショー番組に出演し、涙ながらに悲劇のヒロインを演じた。一昔前までレイプ被害者が公の場で証言するなど考えられないことだった。第三者からの誹謗中傷など二次被害を恐れたからだ。
しかし長峰本人もまた代理人の胡散臭い若手弁護士も、その可能性をまったく考慮していないように見えた。むしろ幼少期から願っていた〈テレビに出て大勢の人に注目されたい〉という夢が意外な形で実現したからだろうか、深刻な事件の割に本人はどこか嬉しさを隠しきれないでいた。
そして竹廣は決まりかけていた欧州クラブへの移籍話が白紙解消になったと噂された。

その間、真鍋にも数多くの取材依頼が殺到したらしいが、当の本人は人知れず東京を離れて雲隠れを決めていた。動かした山が大き過ぎて、土砂崩れに飲み込まれるのを恐れたのだろう。ほとぼりが冷めるまで隠れているつもりなのかも知れない。
「ところで今日、あなたの兄弟分は?」
明日香ママは興味なさそうにタブロイド誌を捲りながら言った。
「最近、会ってないんだ」
「あら、寂しいわね」
真鍋が襲われた夜、龍傑は恐るべき組織力で瞬く間に犯人を特定し、その身柄を確保してみせた。そしてその時、垣間見せた暴力性と、龍傑の悪のDNAを受け継ぐ忠実な部下たちの姿に、少なからずカルチャーショックを受けた。
どうやら俺は穏やかで陽気な龍傑を見過ぎたせいで、感覚が鈍っていたようだ。
冷静に考えれば龍傑の足場は黒社会にある。龍傑は数多くの犯罪組織が蠢くこの錦糸町で、黒社会の首領として、ヤクザや中国マフィアを出し抜いて支配者たらんとする悪の華だった。
俺は今さらながらその事実を受け止め、龍傑と距離を置こうとしていた。だから敢えてこちらから連絡をしていないのだ。そしてなぜか龍傑からの連絡も、この二週間ほどなかった。
俺は以前と変わらず、ハヤブサ便のアルバイトをこなし、終わった後はラビリンスの〈送り〉を続けている。いつかのドタキャンについては結局、誰も触れず仕舞いだった。
しかし一つ大きく変わったことがあるとすれば、乗客や坊主頭の態度だった。キャバ嬢たちは個人差こそあれど、こちらに対して一定の礼儀が感じられるようになったし、坊主頭に関してはまるで直属の上司に接するような礼儀正しさに変わった。
それはつまり、俺自身が龍傑の身内だということが浸透しているという証拠だった。困る訳ではないが、正直やりにくかった。

店に三人組のサラリーマンが入って来て、雰囲気が騒がしくなったところで勘定をして店を出た。
帰り道、鼻をつく湿った空気がどことなく甘く、今にも雨が降り出しそうな気配があった。俺は歩いて高架下を潜り、相撲部屋の前を通り過ぎて、小さな公園の前に出た。
その公園に沿った歩道の脇にシルバーのメルセデスG63(ゲレンデヴァーゲン)が停まっていた。芸能界やテレビ業界では抜群の人気を誇る車種だが、足立ナンバー犇めく江東区にあっては、極めて異質な世田谷ナンバーと併せて、否が応でも人目を引いた。
俺は歩調を緩め、慎重に近付いて行った。すると案の定、左側の運転席と右側の後部座席ドアが同時に開き、二人の男が降りてきた。その距離およそ五メートル。
運転席から降り立ったのは先日、ホテルカシモトのシガーバーで会ったシルバラード取締役の南徳次だった。南は白いセットアップのジャージを着ており、その胸元には黒と赤の書体で〈空手道拳錬會(からてどうけんれんかい)〉と刺繍されていた。前回は終始座っていたから気付かなかったが身長は思っていたよりも低い。恐らく百六十五センチ前後だろう。
そして後部座席から降りてきた男の顔にも、残念ながら見覚えがあった。
それは芸能プロダクション・トランザムの専務・蛭田修二(ひるたしゅうじ)だった。かつて同じ総映グループに所属しながら互いに忌み嫌い合い、百パーセント混じり気なしの敵として認定していた男だ。
関東の半グレ集団の中でも、特に伝説的存在として知られる社長の播戸哲也という、虎の威を借りる狐。いや狐にすらなれないドブ底のネズミだ。
真鍋の調べによればシルバラードはトランザムの子会社だった。トランザムは総映グループの第二勢力である『中川企画(なかがわきかく)』の元チーフマネージャーだった播戸が、独立して興したプロダクションである。
中川企画の先代・中川幸雄(なかがわゆきお)社長が、高齢を理由に会長職に退くことを口にし始めてからと言うもの、後継者は自分しかいない、そう信じていた播戸だったが、実際二代目に任命されたのはアメリカ帰りの長男・中川洋一郎(なかがわよういちろう)だった。
もちろん業界的にはまったくの未経験者で、どちらかと言えば温室育ちの素人である。その洋一郎の教育係を任命された播戸は表向き穏便に、しかし実際は憤怒やるかたない思いで中川企画から独立した。
その後、トランザムは芸能プロダクションだけでなく、別名義で飲食店経営やAV関連の会社などを手広く経営し、創業から数年後にはグループ随一の資金力を誇るまでになった。
そして皮肉なことに、ICEもまたトランザム所属だった。
そのトランザムでなんの実力もないのに、ただ播戸の忠実なイエスマンというだけの理由で専務取締役という好待遇を得ているのがこの蛭田修二である。
今、目の前にいる蛭田は薄茶色のストライプのスーツに先の尖った赤紫色の革靴、ノーネクタイに白いワイシャツといったセンスの欠片もない恰好で、だらしない笑みを浮かべた品のない顔に卑しさが張り付いていた。
「よお、黒木――、久しぶりだな。それにしてもいったい何時間待たせるんだ」
「悪いな、すっかり約束を忘れていたよ」
「けっ、減らず口も相変わらずだな。しかしよ、この南から話を聞いて驚いたぞ。まさかこの期に及んでまたお前の名前を聞くとはな。とっくにどこかで野垂れ死んでるものとばかり思ってたからな」
蛭田は同年齢でキャリアもほぼ同じだったが、出会った当初からまるで馬が合わなかった。腫れぼったい一重瞼で常に眠そうな目、薄い唇と形の悪い顎。貧相な男。冴えない男。信用のできない男。
「まあ、誤解すんなよ。別に今度のことで文句を言いに来た訳じゃねえんだ。正直、細井のところがどうなろうと知ったこっちゃねえ。俺はただてめえのその間抜けヅラを拝みにきただけだ」
細井のところ、つまり同じ総映グループのイノセントのことだ。相変わらず仲間内で醜い足の引っ張り合いが横行しているらしい。
総映グループ創始者である石山泳幸が掲げた<小さな所帯でも数が集まれば巨大な芸能界で戦っていける> 
そのイデオロギーは俺がムーンシャインにいた頃、既に崩壊していた。
特にこの蛭田は昔も今も、他人を出し抜くことしか考えていない屑だ。
しかし相変わらず細井のことは思い出せていなかった。私が勝手に熱をあげていただけ――。そう言われるだけの関係。なのに何も思い出せない。俺は蛭田に鎌をかけた。
「それにしても総映グループもすっかり変わったな。俺がいた頃はあんな女マネージャーが出世できるような長閑な会社じゃなかった」
「女マネージャー? てめえ何言ってんだ。細井圭子なんてお前、上の愛人だから出世したってだけで、ただの売れない女優崩れだ、あんなもん」
それを聞いた隣の南が鼻を鳴らして嘲笑った。女優崩れ? その言葉で記憶の別の扉が開いた。そして幾らもかからずに、あの自信を帯びた挑発的な微笑の正体に辿り着いた。
なるほど確かに少し痩せたし、雰囲気も年相応に変わっているが、あの意味ありげな微笑は変わっていない。そうだ、確かに俺は彼女を知っている。
細井圭子のかつての芸名は細川雫(ほそかわしずく)。中川企画に所属していた女優だ。確かに一度も売れることのなかった元女優だ。堰を切ったように眠っていた記憶がむくむくと蘇ってきた。

俺と細井の出会いは北海道で、その場にはこの蛭田修二もいた。
俺は所属の若手俳優を連れて、ドラマの撮影現場である小樽の現場を訪れた。撮影は何日間かの缶詰で、うちの役者は途中参加だった。
その現場で旧知のメイク担当スタッフから相談を持ち掛けられた。
内容は同じ現場にいる中川企画の女優・細川雫と担当マネージャー蛭田修二の問題だった。
その前の晩、細川は酔った蛭田に犯されかけたと言う。必死で抵抗して逆上した蛭田に殴られたが、どうにか犯されずに済んだ。
「可哀そうに左瞼が腫れちゃってどうにかメイクで誤魔化したけど。でもそんなことより、もし次また蛭田が襲ってきたら、あの子ナイフで刺すと言ってるの。冗談でしょって言ったら本気よって、小型ナイフを見せてくれたわ。朝一番で釣具店に行って買ってきたんだって。あの目は確かに本気かも。ねえ、そんなことになったら大変だから、黒ちゃん、目を光らせといてくれない?」
頼まれた通り、俺はさりげなく蛭田の動向を見張った。そしてその晩遅く、宿舎とは異なる小樽運河沿いのホテルのバーに入って行く蛭田と細川の後を追った。
如何にも重い足取りの細川の肩には小さなショルダーバッグがあった。その中に釣り用のナイフを忍ばせているのだろう。俺は小雪舞い散る中、十分ほど待ってから酔ったふりをしてバーに入っていった。店の奥のカウンター席に二人はいた。蛭田は細川の肩を抱き、耳元で何か囁いている。俺は偶然を装い、二人の隣に座った。
「何しに来たんだ、黒木。お前は関係ないだろ、向こうへ行けよ」
そう露骨に迷惑がる蛭田を無視して、俺はカルーアミルクを注文した。こんなことでもなければ一生注文することのない甘ったるいカクテルだ。
そして俺は蛭田にもたれ掛かるようにして強引に乾杯を迫り、跳ね返される勢いを利用して、蛭田の背広にカルーアミルクをすべてぶちまけてやった。
すぐに咽そうなほど甘い香りが辺りに漂った。時間が経てば発酵して得も言われぬ悪臭を放つだろう。
蛭田は濡れた自分の背広を見下ろして、「てめえ、この野郎!」と大声を張り上げ、俺の胸倉を掴んだ。
その瞬間、俺は顔から酒の気配を消して、がなり立てる蛭田をただ黙って見つめた。
蛭田は何か言いかけて、俺の目の中を覗き込み、ついさっきまでそこにいた酔っ払いを探しているようだったが、やがてその男はもうどこにもいないという事実に気付き、襟首を掴んでいた手をそっと離した。
俺は至って冷静な口調で言った。
「蛭田、今から表に出て、雪の中で運動でもするか?」
顔を引きつらせた蛭田は足元に唾を吐き捨てると、細川に向かって八つ当たりのような悪態をつき、お前ら二人とも覚悟しておけよ、この先とんでもない不幸に見舞われるぞ、と予言者めいた捨て台詞を残し、不機嫌そうに去って行った。
その後、細川雫とどんな会話を交わしたかまでは覚えていない。あくまで俺の印象だが、特に礼らしい言葉もなかった気がするし、その後も細川とは二、三度現場で会ったきりだった。
俺に熱をあげていた? だとすればあの時がきっかけなのだろうが、俺の記憶に細川のそんな素振りは微塵も残っちゃいなかった。
「おい、お前、人の話聞いてんのか」
蛭田の声で現実に戻された。
「すまない、ちょっと圏外だった。……ところで細川、いや細井圭子は誰の愛人なんだ? 会長か?」
この場合、総映グループのマネージャー同士が話す時の〈会長〉とは、本家の石山泳幸その人を指す。
「馬鹿か――、会長な訳ねえだろ。だいたい、なんでてめえにそんなこと話さなきゃならないんだ? 調子に乗るんじゃねえ」
総映グループのナンバー2は、総映エンタープライズ現社長の安田忠信(やすだただのぶ)だと思われているが、実際、安田は単なる石山のイエスマンに過ぎず、愛人をグループの中で出世させる豪胆さなど持ち合わせていない。
もちろん中川企画の中川会長でもないだろう。さすがに自分の息子の手前、堂々と愛人を働かせたりはしないはずだ。
「とにかく、うちの会長も社長も、もう誰もお前の名前など聞きたくないんだよ。わかるか? お前がしでかしたことで、うちのグループがどれだけ迷惑を被ったか」
俺はポケットからキャメルを取り出した。一本振り出して咥え、傷だらけのジッポーで火を付ける。煙を深く吸い込み、今にも雨が降り出しそうな闇夜に紫煙を燻らせた。
蛭田の口が死にかけた魚のように動いているが、俺の耳には何も届かなかった。
煙草が不味い。いがらっぽくて吐き気がする。俺は七割以上残るキャメルを足元に落として踵で踏みにじった。そこで蛭田の声が戻った。
「おい、南――。昔、こいつが何をしでかしたか教えてやろうか?」
南が興味深そうに蛭田に向き直った。
俺は一歩踏みだした。本当は走り出したいのに、まるで夢の中のように足に力が入らない。ゆっくり一歩ずつ歩いて、南と蛭田の脇を抜けて行こうとした。
「いいか、南。こいつはな、人を――」
その瞬間、無意識に右腕を撓らせていた。蛭田の顔面、その醜い鼻っ面目掛けて――。
しかし拳が蛭田を捉える前に隣にいた南が、「なんやコラッ」と短く叫び、同時に右の強烈な廻し蹴りが俺の腹に突き刺さった。
途端に肺の空気が抜け、呼吸が出来なくなった。
熟練した空手の蹴り。思わず膝を付き、空気を求めて宙を掻きむしった。声が出ない。過去の経験を信じ、意識して肺の中の空気を少しずつ吐くことに集中し、ようやくまともな呼吸を取り戻したものの、すぐに強烈な吐き気に襲われた。
そして結局、抗えきれずに数秒後、胃の中のものをすべて地面にぶちまけていた。バー松尾で口にしたナッツ類やビールと共に、絶望や自責の念まですべて――。
頭上から蛭田のせせら笑いが聞こえた。
「ああ、汚ねえなテメエは。ゲロ塗れでまるでゴミみてえだな。……だけどお前、今、俺を殴ろうとしたろ? ああ? 何考えてんだこのクソ野郎――」そう言って蛭田は脇腹を蹴り上げてきた。
もちろん痛くも痒くもない。しかしその背後で緊張の糸を切らしていない南の存在が怖かった。蛭田は奇声をあげて、尖った靴先を飛ばしてきた。その憑かれたような笑い声は、いつか深夜のドキュメンタリー番組で見たブチハイエナの鳴き声に似ていた。
俺は蹴られるがままダンゴ虫のように背中を丸め、嵐が過ぎ去るのを待った。
蛭田は三十秒ほどで動きを止めると、両手を膝について呼吸を荒げた。そして内ポケットから紫色のハンカチを取り出して、それで靴先を拭うと、そのハンカチを俺の目の前に棄てた。
「いいか黒木――。二度とその汚ねえツラを見せんじゃねえぞ。今度てめえのツラを見たら殺すからな。忘れんなよ」

メルセデスが走り去っってもしばらく、俺はそのまま地面に横たわっていた。
コンクリートと砂利で出来た無機質な公園。その冷たさが背中を伝って来た。
俺は己の無力さに打ち拉がれて気力を失くしていた。
蛭田一人、殴り倒すことができない。
冬子一人、助けることができない。
俺は自分を呪い、関わる者すべてを呪い、冷酷な運命を呪った。そしていつまでも終わらない夜を呪った。
一粒、二粒――、冷たい雫が顔面を捉えたかと思うと突如、大粒の雨が降り出した。
すぐに背中までずぶ濡れになったが、不思議なことにそれが嫌ではなかった。
まるでスコールのような激しい雨脚がシェルターとなって、俺を現実世界から匿ってくれている、そう思えたからだ。
このまま雨に抱かれたまま、消えて無くなればいいと心から願った。
最初から存在しなかった〈存在〉になれたらどれだけ楽だろうと。
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