第1話

文字数 1,983文字

 男は走っていた。走っても走っても、追っ手があらわれる。だが、男は息を切らすこと無く、大木の幹の影に隠れ、気配を絶った。
 追っ手が近づいてくる。男は気配をさぐり、追っ手が一人であることを確認した。追っ手が隠れた木の横を通り抜けた瞬間、後ろから襲いかかった。口を塞ぎ、首をかき切る。直後に飛び下がり、噴きでる血を避けた。

 数人いた追っ手を全て倒した男は、深い森の中を音も立てずに移動した。近くの炭焼き小屋に忍びこみ、あまりつぎ当てのない小袖、手ぬぐいを盗んだ。
 深い森の中で一か月以上戦ってきた。顔も体も着物も泥と汗と血で汚れていた。匂いもかなりきつい。匂いで追っ手に気づかれる恐れがある。人の中に溶け込むのにも不利であった。
 川辺に降りると着物を脱ぎ、体を拭いた。男の体は細身だが、余分な肉はついておらず引き締まっていた。よく見れば体中に傷がある。殆どが治っているが、まだ血を流している傷もあった。近くにあった薬草を摘み、草を噛んで柔らかくし、傷の上から貼り付けた。裂いた手ぬぐいを包帯がわりに巻きつけた。
 がさごそと後ろの森から音が聞こえた。男は気配を断ち、後ろの岩と同化した。
 あらわれたのは、鹿の親子であった。臆病な鹿……しかも、子連れの時はかなり神経質になっている。僅かな人の気配でも、鹿は逃げる。だが、鹿の親子は男がすぐそばにいるにも関わらず、逃げない。鹿の親子を見送る男の目は優しく、先程までの暗さは感じられない。

 下生えの多い深い森を音を立てずに移動し、男は村に近づく。
 追っ手にとり、村近くは待ち伏せに最適である。隠れる場所が多く、村の人々の存在により追っ手の気配がわかりにくくなる。そして、何より逃げる者がほっとする事により、油断が生じるからである。
 それ故、男はすぐに村には近づかない。ゆっくり人の不自然な気配がないか確認した。追っ手の気配は感じられなかった。少し安堵した。

 村はずれの社を今日のねぐらに決めた。社は古びてはいたが、綺麗に掃除が行き届いていて、心地良さそうだ。もっとも男は、雨風さえ凌げれば心地よさなど関係ないのだが。
 男は、横になる事はせず、刀を抱き、座ったままいきなり深い眠りに落ちる。それほど時がたたない内に男の本能が反応し、直ぐに覚醒した。

 どこからか、酒を飲みくだを巻く男たちの声が近寄ってくる。女の泣き声も混ざっていた。
 どこかの無頼の群れが女を拐かしたのだろうと察しをつけた。この場所を奴らもねぐらにしようとしたのだろう。
 男は煩わしげに、眉を寄せた。本当ならば、この場から黙って立ち去るのが一番いい。だが、数日ぶりの休息を邪魔された男は苛立っていた。

「ちょうどいい所に社があるぜ。そこで俺が初を頂戴しておれが満足したら、お前たちも存分に死ぬまで可愛がってやれ。飽きたら、岡場所に売っちまおう」
 女の悲鳴は男達の獣性を煽るだけであった。男はため息をついて、ゆらりと立ち上がった。
「ち、舌を噛みきりやがった。裸に向いてその辺に捨てておけ。着物なんかは少しは売れるだろう」
 男は、社の扉を開けた。無頼達は死者から着物を剥ぎ、現れた白い肌に夢中になり、男の気配に気がつかない。

 無頼の一人が、突然硬直した。胸から横になった切先が飛び出した。次の瞬間、崩れ落ちた。
 男は軽く刀をふり次の男の首を切り、返り血を浴びないように身を翻した。残りの男達は、がなりながら刀を振り回した。そんな剣筋では、男にとり子供の遊びと何もかわらない。ほとんど、動く事なく無頼たちを全員殺した。
 無頼の着物で刀についた血と脂をこそげ取り、鹿の皮で手入れをした。そっと鞘に戻す。
 無頼の懐を探り財布を抜きとった。その中から、いくらか金を抜き、残りを一つの財布に纏めた。
 男は、死んだ女に着物を着せた。もちろん、きちんとは着せられない。それでも男を知らぬ肌をそのまま晒すのは、気の毒だと思ったのだ。無頼から奪った財布を女の懐に入れ、社の隅に寝かせた。少しでも金があれば、ちゃんと弔ってもらえるだろう。

 男はまた走り始めた。走りながら、思い出していた。
「なあ、才蔵。抜けないか? もう、我は嫌だ。毒を飲むのも蛇に噛まれるのも仲間と戦うのも……我と才蔵が組めば追っ手も怖くねぇし」
(お前はそう言ったし、俺も抜けたかった。任にかこつけて里を抜け出した。でも、なんでお前は俺を売った?)
「聞いてくれ、薬が必要だったんだ。母ちゃんが重い病で……」
(先に言ってくれたら、喜んで売られてやったのに。信じていたんだぜ。お前だけは……お前だけは……)
 男……才蔵は友も追っ手も全て殺し、里を抜けた。
 あれから、半年、数多の追っ手を退けてきた。どれほどの仲間を倒してきたのだろうか、もう数えるのを諦めた。
 それでも……才蔵は走る。

(死ぬものか、俺は生きる。生き抜いてやる)
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