3、学ぶ魔訶迦葉

文字数 9,918文字

学ぶ摩訶迦葉

勤めている看護師を送り出して、さて、そろそろ自分も自宅に帰ろうかと、影浦千代吉が、帰り支度をしている時であった。

何だか、まだ用件があると知らせるように、影浦医院に設置された固定電話がピピピピとなった。

「はい、影浦医院でございますが。」

影浦千代吉は電話を取った。

「あ、ああ、あの、影浦先生でございますか。あの、私、植松と申しますが、ちょっとお尋ねしたいことがございまして。」

「植松?」

聞いたことのない苗字だ。というと、新規で診察を希望してきた患者さんだろうか。

「はい、植松と申します。植松直紀です。」

何だか若い男性のようにみえるけど、具合が悪そうという感じはしない。

「はあ、植松直紀さんですか。一体どうされたんです。どこか体に具合の悪いところはありますか?」

「はい。そのことでちょっと先生に話がしたいんです。」

影浦は、多分、体の事で何か困っていて、そのことを話したいんだなと思ったので、それ以上話は聞かなかった。

「了解しました。それでは、日付を決定したいので、何時がいいのか希望を言ってください。土日以外なら、開院していますので。」

「それでは、なるべくなら早い方がいいですね。えーと、例えば、明日か明後日か、空いていませんでしょうか。」

影浦は、壁に貼ってある、カレンダーを眺めて

「ええ、明日の午前中なら比較的空いてますよ。午後は、ちょっと混雑することが多いので、少し待たなければならないと思いますけどね。9時か、9時半当たりが空いていますが。」

と、言った。

「それでは、明日のその時間にお願いできますでしょうか。」

と、電話口でその患者はそういっている。

「わかりました。初診の方は、30分以上時間をかけますので、ちょっと、余裕をもっていらしてください。」

と、影浦は言ったところ、彼は、

「わかりました。明日、その時に必ず伺いますので。」

といった。影浦は、わかりましたと言って、手帳に植松さんと書き込んだ。

翌日。影浦が影浦医院の開院準備をしていると、専用の駐車場に、車が一台止まった。軽自動車やワゴン車など、現在流行っている車ではなくて、赤い色のクーペであった。実はのっている車で、結構患者の性格がわかってしまう物である。赤いクーペに乗っている以上、矢鱈に熱い人で、声もおおきくて、やることなすことがおおきい。そういう人に違いない。

「すみません。あの、影浦医院といいますのは、こちらでしょうか?」

ふいに声がして、影浦は入り口の外へ出た。

「ええ、確かに、影浦医院はこちらですし、影浦千代吉とは僕の事ですけど。」

と、影浦がこたえると、その人は変な顔をした。あんまり頼れそうでもないなとでも思っているのだろうか。とりあえず影浦は、その人を、病院の中へ入らせる。

「どうぞ。診察室はこちらです。」

といって、影浦は、診察室へその人を案内した。

「何だ、病院の診察室って感じがしないですね。」

「ええ、まあ。精神科ですからね。」

とりあえず、患者椅子に彼を座らせた。いわゆる、くるくる回る小さな椅子ではないことに、その人はとてもおどろいていた。

「今日は、どういうことで、来院されましたか?気分が酷く落ち込んで、何もする気がしないとかですか?其れとも、良くない声が聞こえてきたり、思考が変な風に行ってしまうとかですか?」

影浦も医師の椅子に座る。この影浦医院では、医師も患者も、柔らかくてふんわりした椅子に座ることが定説になっている。

「いや、ちょっと聞きたいことがありまして。心関係の仕事は、こういう先生に聞いてみないと情報がないと思ったものですから、、、。」

「仕事ですか?」

影浦は、ちょっと話す口調を変えて言った。

「ええ、はい、もともとは、ある高校で教師をしていました。植松直紀です。でも、教師という仕事は、生徒には向き合えそうですが、実は出来ないということを知って、いま、別の仕事に付こうと思っているんです。」

と話す、植松。影浦も、こういう人がたまにやってくることはあったなと思いながらそれを聞いていた。

「ああ、そうですか、で、例えばどんな風に仕事をしたいですか?」

とりあえず、そこを聞いてみる。

「はい。教師は、学問を教えるしか出来ません。そうではなくて、もっと生徒と分かり合えるような

仕事をしたいんです。」

確かにそうだなと影浦も思うことがある。もう少し教師が、患者である生徒に踏み込んでくれたらいいのになあと思った例はいくらでもある。そればかりか、教師が非常に冷たいというか、何のためにいるんだろう、と、かんがえさせられた例だって、本当に何度でもある。

「まあ確かに、そういうことはありますよ。うちの患者さんでも、本来生徒と向き合いたかったのに、それを出来なくて病んでしまう教師も沢山居ますから。特に、高校や中学校は多いんですよね。何でしょうね。熱意が空回りしちゃうのかな。そういう人って、本当は高く評価して貰いたいんだけど、そういう人は、捨てられちゃうんですね。なんででしょうね。」

「ええ、だから僕は学校という所から逃げました。これからは、学校の先生という立場ではなく、もっと、いろんな人の力になってやれる仕事を目指します。」

「そうですか。わかりました。特にお薬とかそういうものは要らないかな。僕、余り、薬というモノは使いたくないほうでして。」

と、影浦は、にこやかに言った。確かに、矢鱈薬を与えてしまうのも考え物だ。具体的な病気というモノはなくても、薬を出してしまう精神科医も多いが、影浦はそういうことはしたくなかった。

「はい、そうではなくて、ちょっとやり方を教えてほしいんです。そういう、困っている人の役に立てるように、何かしたいとは、思っているのですが、具体的に、どうしたらいいのか。まあ、とりあえず、何か資格を取ろうと思うんですがね。調べてみたら、資格が数多くありすぎて、どれが一番有効なのか、はっきりしないんですよ。先生から見て、どれが有効なのか、教えて頂けないでしょうか?」

植松は、やっと本題を切り出した。これを一番聞いてみたかった。

「ええ、そうですね。はっきり言って、資格なんてものは、こういう職業の場合、一つ取って置けばいいのであって、それに甲乙つけることは、余り進められません。大事なことはね、患者さんと、信頼関係が持てるかどうか、何ですよ。それがどんなに高名な資格であっても、患者さんが信頼してくれなければ、腕がいいとは言えませんし、有名な資格でなくても、適格に話をして、患者さんにアドバイスができる人であれば、腕がいい人といえます。其れには、資格の甲乙何て関係ないのですよ。」

と、影浦はこたえた。それを聞いて、大体の人は落胆の表情を示すのだが、植松は違っていた。

「そうですか。では、どれをとっても、大体同じという事でしょうか?」

「ええ、学ぶことは、ほとんど変わりません。まず初めに、入りやすそうだなとお思いになった養成講座に参加して見ては如何ですか?」

「はあ、そうですか。となると、どの講座を選べばいいのでしょうか?」

植松が質問すると、影浦は、そうですねと少し考えて、

「そうですね、余り専門的すぎると、受けるのも難しいでしょうから、こういうモノは高校と同じです。比較的、偏差値の低いもの、難易度の低い物から始めてみてはどうでしょう?」

と答えた。

「でもそれでは、僕のいた学校と同じになってしまう。それでは、学びたいと思っても、学びたくないほかの生徒に邪魔されて、かえって勉強がしにくくなるのではないでしょうか?」

植松が又聞くと、

「いいえ、大人の講座はそこが違います。そういう所のほうが、いろんな階級の人がやって来ますから、人間的にも成長しやすいでしょうしね。学校は、レベルの高い所でないと安全に学習することは難しいのですが、大人の講座では、レベルが高いとかえって、取り組みにくくなるものですよ。其れよりも、大人の講座では、なかまがいた方が、絶対に、有利に進むことが出来ます。」

と、影浦は言った。それでは、学校のやり方とまるっきりの真逆ということになるのかと、植松は、そこが意外で、ちょっとびっくりしてしまう。

「大人の講座というモノはそういうものです。学校で教わった通りの、参考書をつかって、誰にも頼らず、一人でなんでもかんでも出来るのかというものではありません。其れよりも、なかまがいて、協力し合って学ぶほうが、一番いいんです。本当はね、学校で、これを教えればいいんですけど。でも

学校というモノはそれを推奨されないようですね。まあ、教育機関なのでしかたないのかな。そういうやり方に対応できないで、不登校になったり、中退してしまう学生もいらっしゃる。本当は、大人の勉強法を教えたら、また変わってくるんでしょうけどね。」

影浦は、にこやかに言っているが、それは、学校の教師に対しては、痛手の言葉だった。そのようなことを学校では一切教えようとはしなかった。みんなで協力して勉強なんて、そんなことは、禁忌としかどの教師も教えようとしなかったのだ。

「きっとみんな、そういう教え方しかしなかったんでしょうよ。一人ひとりというより、どの生徒も、自分で誰の助けも借りずに、必死で勉強して、みんながいい成績をとって、みんながいい大学へ行き、学校の名声を上げる。それが、理想の学校何でしょうけどね。そのような学校なんて、ほんの一握りですよ。ですが、どうしてそういうことに気が付かないんでしょうね。そういう事じゃなくて、一人ひとり、やり方は違っていいはずでしょ。しかし、どうしてなんでしょうね。今の学校というのは、そういうことは教えないんですね。其れで、みんないい点を取って、みんないい学校に行くように向かわせる。」

「は、はい、、、。すみません。」

植松は、申し訳なさそうに頭を下げた。

「僕に謝ってどうするんです。大事なことは、あなたが、どう動くかでしょう。そういうことに気が付いたんですから、それを実行するかというのが一番大事なんですよ。僕たちは、ただ、あなたに気が付いて貰いたくて、色々いいますけど、大事なのはいわれたあなたが、それを実行出来るか胴かなんです。」

影浦にそういわれて、植松はもう返す言葉がなくて、涙を流してしまったほどであった。

「もう、泣かないでくださいよ。其れよりも、実行することでしょ。今日は、診察料だけで結構ですから、其れよりも、あなたががんばってくださらないと。」

「有難うございます、、、。」

と言っても、どうやって講座を探して申し込んだらいいのかわからず、ちょっと困ってしまった植松であった。その気持ちはもろに顔に出てしまっているらしい。影浦は、にこやかに笑った。

「其れならば、まあ、さわりの講座ですけど、ここを受講してみたらどうですか。本当に、最初の初歩的なものなんですけど。対して資格取得には、役にたたないかもしれないですけれどね。それでも良ければ、紹介しましょうか?僕の患者さんの中にも、多少受けたことのある人がおられます。」

影浦は、机の中から、一枚の紙きれを差し出した。

「これですね。えーと、場所は、富士宮市の富士山環境交流プラザです。講師は確か、えーと。」

最近、影浦も老眼になったのだろうか、A4サイズの紙切れに書かれた文字が、何だかぼやけてしまって、よく見えなかった。

「ああ、これによると古川涼さんと書いてある。」

「そうそう。古川涼さんです。たいへん優秀な療法家で、僕たち精神科医より的確な治療をすることで有名ですよ。ただ。」

「ただ、何ですか?」

植松が聞くと、

「これをいうのはどうかと思いますが、あの人、視力がないんです。ですから、講義をする時は板書することは出来ませんし、資料も何もありません。ただ、講演を聞くだけという形になる。それでもよろしければの話ですよ。其れだけの事ですが、それは重大な事です。」

と、影浦が言った。つまるところの全盲ということだ。そうなると、盲導犬でも連れていくのだろうか。其れとも、白い杖をついて、歩いているのだろうか。

「まあ、これを言ってしまうとね、大体の人は諦めるんです。まあ、それでは、いけないんですけど。本来はね。僕たちは、普通の人も障害のある方も同じようにしなければなりません。そうですけど、大体の人は、そうではないみたいです。」

それは若しかして、影浦さんが言った、おかしな教育のせいだろうかと植松は思った。あの学校では、弱いもの、出来ないものは切り捨てろといった。其れよりも、自分の地位と点数を上げることが最大の使命だと言った。そういうことが結果として、そういう障害のある人たちを馬鹿にしてしまうのではないだろうか。

「そうですか、、、。」

「受講してみますか?場所について、講師に問合せが出来ないのが、ちょっと残念ではあるのですが。」

もう一度影浦は聞いた。

「え、ええ。やってみます。場所については、僕が何とか調べてみますので。」

富士山環境交流プラザの場所さえ知らないのが、何とも悲しかったが、よし、やってみようという気になって、植松は行ってみることにした。

「じゃあ、ここに申込用紙がありますから、持って行ってください。これを郵送で、富士山環境交流プラザに送ってください。そうすると、プラザのほうから、返信が来ると思いますから。」

影浦に申込書を渡されて、植松は有難うと礼を言って、申込用紙を受け取った。

「よろしくお願いします。若しかしたら、うちの患者さんと遭遇するかもしれないけれど、そうしたら、一緒に学ぶのを手伝ってやってください。」

「わかりました。」

植松はそういって、もう帰りますと影浦に言った。

「今日は本当に良いことを教えてくださって有難うございました。これから、新しい自分への第一歩として、がんばって行こうと思います。」

「僕はただ、情報を伝えただけの事ですから。それにがんばるのは、僕じゃありません。それを忘れないで行ってください。」

影浦は、にこやかに言って、診察室の扉を開けた。植松が、椅子から静かに立ちあがり、診察室から出ていくのをじっと見ていた。

その日、植松は自宅にかえって、急いでその申込用紙に、自分の名前と住所を書き込み、100円ショップで封筒を買って、富士山環境交流プラザの宛先を書き、郵便局へいって、郵送した。

その数日後。植松の滅多に空かない郵便ポストに、一通の手紙が来た。すぐに開けると、中身は富士山環境交流プラザからのもので、内容は、心理学入門講座の申し込みが受理されたという事であった。誰かが打ったものだろか、流暢なワード文書でこう書いてある。

「講座に申込みいただき有難うございます。つたない講演ではございますが精一杯お話させていただく所存ですのでどうぞよろしくお願いいたします。」

句読点がないという所から、おそらく画面を見ることが出来なかったのだろう。つまりこの文書は、講師が打ったものだろう。それでは、やっぱり影浦の言ったことは本当だなと思った。

そして申込書が受理されて三日後。それが、講座の開始される日だった。植松は、またクーペを飛ばして、富士山環境交流プラザに向かう。比較的、わかりやすい場所であったが、そこに向かうバスもなく、車で行くしか手段がない場所であった。

会場に入ると、受講生は、意外に多く、十人近くの人数がいた。もっと少ないかなと思っていたが、意外にそうでもなかった。

そのまま自由に机に座って構わないといわれたので、植松はすぐ近くにある机に座った。それから数分後、講演が始まった。講師は、確かに盲人であった。なぜなら、助手のものに、手を引いてもらって演台に上がった。影浦が言った通り、板書というモノは一切ないし、資料というものも配られなかった。ほんのさわりと影浦がいっていたが、それにしては非常に難しい内容であり、ただ聞いているだけでは、全くわからなくなってしまいそうだった。重大な所は、用意していたノートに書いたが、何か資料のようなものがなければ、全くついていけない内容であった。

講演は、二時間程度で終わった。ほかの受講生たちは、大満足した顔で帰っていく。どうしてみんなこういうことでわかるんだろうか、と、植松は思った。こういう時は先生に質問しなければまずついていけない言葉が沢山あった。

他にもそういう受講生はいたらしい。一人の男性が、盲目の講師と何か話をしている。確かに講師はノートを見てどうのということは出来ないが、それでも、ちゃんと彼と言葉を交わしていた。これを見て、植松は、何だかちょっとその人が羨ましいというか憎たらしく感じてしまった。それを感じて、ハッとする。

若しかしたら、うちの生徒たちもこういう気持だったのではないだろうか、、、。

そういう出来る人にしか先生は相手にしない。そういう見捨てられた気持が積み重なって、みな先生のいうことを聞かない生徒になってしまったのではないだろうか。

彼らも、生徒なりに、傷ついている。

植松は初めてそういう気持を知った。教師としてやっていた時は、なんでみんないう事を聞いてくれないのか!と思っていたのに、こういう時になって、やっとそういうもどかしさというものが、わかったような気がする。

でも、生徒たちは、それに反抗するすべは持っていないのだ。それをするのなら、不登校になるか、退学するしかないということもちょっと感づいたのである。

でも、植松は、影浦の言葉を思い出した。がんばるのは僕じゃないと。なので、人任せにはしないで、自分で動かなければいけないと思った。

「あの、すみません。」

先ほどの受講生がまだ話しているのに割り込んで、植松は講師に質問する。講師の古川涼は、黄色くなった、焦点の合わない目で、植松を見た。植松は其れで、心が通じたと確信した。

「あの、今日初めてこちらの講座に来させていただきました。植松と申します。あの、ちょっと用語でわからないところがありますので、教えていただけないでしょうか。」

涼は、もし植松の顔を見ることが出来たら、きっと良い質問だと思ってくれたのだろうか。そっと彼の顔に笑みがこぼれた。

隣にいた、受講生も何だか熱心にやっている人が出たな、という顔をしている。植松が、涼と話し始めると、隣の受講生も、復習のつもりなのか、一生懸命メモを取り始めた。

「高野さんまでメモを取っているんですか?」

ふいに涼がそんなことを言い出す。どうしてわかるんだと思ったら、

「いえね、鉛筆を動かす音が、二つ聞こえるんです。」

と種明かしをしてくれた。先ほどの、堅苦しい話はどこへやら、講師の涼は、盲目であってもにこやかな顔をしている。

高野さんというのは今いる隣の受講生だ。ちょっと硬い感じの顔つきであるが、それは真剣に勉強しようという気持の現れだ。

「あの、そろそろ、この会場を次の方にお渡しする時刻でして。」

ふいに係員がそんなことをいいながらやってくる。

「ええ?でもまだ聞きたいことは沢山あるのに。まだ半分も終ってない。」

植松がそう呟いた。まあ、時間制限は何処にでもあるから、後は、しかたないのかと思ったが、隣にいる高野という男性も同じ気持だったらしい。ちょっとがっかりしてため息をついたのがわかる。

「ああ、よろしかったら、空いている時間に僕のオフィスに来てくれてもいいですよ。意欲的に学びたいという方が高野さんだけではなくてもう一人増えてくれて、嬉しいです。二人がもし、携帯電話か何かお持ちなら、其れで其れでお互い連絡を取り合ってください。」

スマートフォンといわないのも、やっぱり盲人だと思いながら、植松は嬉しくなって、

「わかりました!」

といった。

「それでは手っ取り早く連絡出来るツールとして、ラインのIDか何か教えてくれませんかね。」

と、植松は隣の高野さんにいう。

「ああ、そうですか。申し訳ありませんが、僕はラインを持っていないんですよ。連絡は全部電話ということにしています。メールやラインは、ちょっと相手の表情や口調がわからないので、あまり好きではないんですよ。だから、電話しか持っていないという訳で。」

こういうとき、学校で生徒たちであれば、ラインを持っていないという事だけでも、いじめに発展する可能性もある。でも、植松はそういう生徒と同じようにはならないと決めていたので、

「わかりました。其れならラインではなく、電話で結構です。電話番号を教えてください。」

とお願いした。

「はい。」

彼は、手帳を取り出して、急いで自分の名前と住所、そして、電話番号を丁寧に書いた。そのページを破って、植松に渡す。

「高野正志さんですね。よろしくお願いします。」

植松は自分は先ほど講習会で使っていたノートの最後のページを破り、植松直紀と書いて自分の住所と電話番号を書いた。電話なんて、半年以上使っていないから、使いかたをまちがえないようにしなければなと思った。

こういう時には、目の不自由な涼に配慮しなければならないかと思ったが、涼は大事な事ですからしっかりやってくれと言って、笑っていた。

「じゃあ、二人で日程を決めてうちへお電話くださいね。多分手伝いのものが出ると思いますが、お名前を名乗ってくれれば、お電話代わりますから。」

涼がそういうと、係のものが早く出てくれという目で植松たちを見た。涼はそういうことには気付けない。植松は、先生、もう帰りましょうと、彼らをそとへ出した。

交流プラザの外へ出ると、形式的な挨拶を交わして、涼は、手伝い人と一緒に車に乗って帰っていく。目の見えない彼には、車というものはものすごく苦手なのだと、苦笑いしていっていた。

「あの、高野さん。」

植松はちょっと高野正志に聞いてみる。

「あなたも、学校とか教育関係者だったんですか?」

「いいえ、僕は教育関係者じゃありません。言ってみれば落ちぶれです。」

と、高野正志はちょっと照れくさそうにいう。

「落ちぶれ?でも、こういう所に勉強に来るのだし、ああして講師の先生と話したりもしているんですから、それでは何か別の訳があるんでしょう?落ちぶれだったら、勉強したりしませんよ。そうでしょう?」

植松がもう一度聞くと、

「ええ、まあ、学生の頃は落ちぶれでしたので、今もう一回勉強しようとしているのかもしれないですね。うちの教室、問題がある人が結構来るんですよ。だから、的確に教える技術も必要かなと思って。それでこの講座に習いに来ているんです。」

と、高野正志はこたえた。

「そ、そうなんですか。あなたは一体何をしている方なんですか?問題のある人が来ているって、何か、福祉の仕事でもされているんですか?」

「まあ、そうなのかもしれないですね。でも、僕がやっているのは、ピアノ教室何です。まあ、音楽学校を出ている訳ではありませんが、ピアノをとおして、生きようと思ってくれたら、いいかなと思ってやっております。」

ああ、そうか!やっと真剣に生きている大人というモノが初めて出来た!こういう大人がいてくれたら、生徒たちも、話を聞いてくれるのではないだろうか。

でも、そんな話をしても、腐りきった生徒には届くかどうか疑問だった。

だから、自分が変わっていくんだ。植松はそう決断する。影浦先生が言っていた、貴重ななかまとは、この人のことをいうのではないだろうか。

そうなってくれるように、こっちも努力しなきゃ。

「僕もがんばりますから、一緒に受けていきましょうね。高野さん。」

と、植松は彼に言った。

「はい。僕の事は、高野さんというほど、価値はありません。だから、呼ぶならマーシーと呼んでください。」

と、彼はにこやかに言う。

「よろしくお願いします!」

植松はマーシーに、にこやかに言って、頭を下げたのであった。




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