【2020水無月】隔離扱いとおうち時間
文字数 1,781文字
先月末に解除されたけれど、職場からの自粛要請は続く。
残業は減りつつある。とはいえまだ陽性の方は入院しているし、救急外来にも発熱外来にも人は来る。来院すれば処置もするしPCR検査もする。
外来は、陽性だろうが陰性だろうが、症状がある限り対応は同じだ。完全防護具での対応。
感染者数ではなく、受診患者数の問題なのだ。
解除とともに一般外来に人が戻りつつある。それにより待ち時間ができてクレームも増えている。皆、一刻も早く病院から出たいのだろう。以前は黙ってテレビや本を見て待っていたり、顔見知りの人と話す様子が見られることもあったけれど、今はそれぞれ一定の距離を保ち緊張した顔で座っている。毎日のように誰かが待合室で怒っている。敵はウイルスではなく不安やストレスなのかもしれない。
風邪症状の人が連絡もなく来院し、玄関のトリアージをくぐり抜けて一般待合室に普通に座っていた。
「微熱だから問題ないでしょ。風邪だからさ、薬だけくれればいいからさ」と話す男性。聞いている間、何度も咳込んでいる。周りにいた人たちが、針先のような鋭い視線を送ってきたり、そっと席を立ち離れて行ったりするのが視界の隅に入る。
風邪症状の方は、こちらになります、と別のブースへ案内しようとすると「なんだよ隔離されるのかよ、ひどい扱いだな」と、なかなか了承いただけない。「あんたらの方がコロナじゃないのか」「まったく、ふざけんなよ。早く薬だせよ」と、たくさんの罵声と不満をぶつけられる。
何とか発熱外来へと案内するが、検査は頑なに拒否。鼻腔に綿棒を入れる以上、協力がなければ難しい。肺CTもお金がかかるからと拒否。内服薬だけで帰られる。「ひっどい病院だ」と言い捨てて。不安や怒りの源となる彼のおかれている状況になんとか想像力を働かせ、自分を保つ。
案内、問診、診察介助、徒労に終わった検査の説明と必要性の説明、処方箋の発行と処方薬の受け取り方、今後症状の変化があったときの連絡先について、そして会計。発熱外来には医事課もクラークも清掃も入らない。全てひとりで罵声を浴びながらしていると、感情を押し殺すための機能なのか、脳内に靄がかかっていく。時計を見ると四十分程しか経っていなかった。もう丸一日使ったかのような疲労感が押し寄せる。
もし彼が陽性だとしたら私は何か罪になるのだろうか、そんなことを思う。説得することも心を解 すことも出来なかった無力感に駆られながら、消毒液を手に持ち清掃消毒作業を始めた。
痛みは、どれだけ歳を重ね少しはかわしかたを覚えたとしても、時に唐突にぶつかってくる。いけないと感じつつも、アルコールの量が増え、酒の力でストレスを無理に降り飛ばそうとしていた。そのストレスは、「く」の字型をしていて、飛ばしても飛ばしてもブーメランのように戻ってきては、私に当たった。
ここ数ヶ月で、私の中の何かが大きく変わった。普段のSNSでは楽しく能天気なことを綴っていながら、ひどく冷めた自分を見つけることがある。SNS上の私は幸せそうで、それは決して嘘ではないのに。
おうち時間充実とかおうちカフェとかという言葉がやたらと目につくようになり、その世間との距離感についていけなくなっている。見聞きするたび少しずつ心が剥がれていくのを感じていた。今まで以上に働いて、stay homeならぬcan't go homeの私たち。少しでも家に帰りたいと願う私たちは疎外感を感じ、世間の流れにはどうしたって乗れなくて、耳をふさぎ目を閉じたくなってしまう。
「最初は何とも思ってなかったんだけど、だんだんと最近は温度差を感じすぎて見るのもつらい」とSNSを辞めた看護師がいる。
まだ、そこまでじゃない。だいじょうぶ。私はまだ、だいじょうぶ。
でも。
やるせなさは募り、おうち時間や流行りの話題を楽しんでいる人を、恨めし気に感じている自分に嫌気がさしてしまう。仕事があるだけ幸せなはずなのに、被害者意識を持っている自分を見つけては、気持ちがずぶずぶと泥の中へ沈んでいくような自己嫌悪感。人と比べるのではなく、自らのするべきことに、目をしっかりと向けていればいいだけなのに。弱い自分を試されているのだろうか。
おまじないのように繰り返す、絵本に出てくる
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
残業は減りつつある。とはいえまだ陽性の方は入院しているし、救急外来にも発熱外来にも人は来る。来院すれば処置もするしPCR検査もする。
外来は、陽性だろうが陰性だろうが、症状がある限り対応は同じだ。完全防護具での対応。
感染者数ではなく、受診患者数の問題なのだ。
解除とともに一般外来に人が戻りつつある。それにより待ち時間ができてクレームも増えている。皆、一刻も早く病院から出たいのだろう。以前は黙ってテレビや本を見て待っていたり、顔見知りの人と話す様子が見られることもあったけれど、今はそれぞれ一定の距離を保ち緊張した顔で座っている。毎日のように誰かが待合室で怒っている。敵はウイルスではなく不安やストレスなのかもしれない。
風邪症状の人が連絡もなく来院し、玄関のトリアージをくぐり抜けて一般待合室に普通に座っていた。
「微熱だから問題ないでしょ。風邪だからさ、薬だけくれればいいからさ」と話す男性。聞いている間、何度も咳込んでいる。周りにいた人たちが、針先のような鋭い視線を送ってきたり、そっと席を立ち離れて行ったりするのが視界の隅に入る。
風邪症状の方は、こちらになります、と別のブースへ案内しようとすると「なんだよ隔離されるのかよ、ひどい扱いだな」と、なかなか了承いただけない。「あんたらの方がコロナじゃないのか」「まったく、ふざけんなよ。早く薬だせよ」と、たくさんの罵声と不満をぶつけられる。
何とか発熱外来へと案内するが、検査は頑なに拒否。鼻腔に綿棒を入れる以上、協力がなければ難しい。肺CTもお金がかかるからと拒否。内服薬だけで帰られる。「ひっどい病院だ」と言い捨てて。不安や怒りの源となる彼のおかれている状況になんとか想像力を働かせ、自分を保つ。
案内、問診、診察介助、徒労に終わった検査の説明と必要性の説明、処方箋の発行と処方薬の受け取り方、今後症状の変化があったときの連絡先について、そして会計。発熱外来には医事課もクラークも清掃も入らない。全てひとりで罵声を浴びながらしていると、感情を押し殺すための機能なのか、脳内に靄がかかっていく。時計を見ると四十分程しか経っていなかった。もう丸一日使ったかのような疲労感が押し寄せる。
もし彼が陽性だとしたら私は何か罪になるのだろうか、そんなことを思う。説得することも心を
痛みは、どれだけ歳を重ね少しはかわしかたを覚えたとしても、時に唐突にぶつかってくる。いけないと感じつつも、アルコールの量が増え、酒の力でストレスを無理に降り飛ばそうとしていた。そのストレスは、「く」の字型をしていて、飛ばしても飛ばしてもブーメランのように戻ってきては、私に当たった。
ここ数ヶ月で、私の中の何かが大きく変わった。普段のSNSでは楽しく能天気なことを綴っていながら、ひどく冷めた自分を見つけることがある。SNS上の私は幸せそうで、それは決して嘘ではないのに。
おうち時間充実とかおうちカフェとかという言葉がやたらと目につくようになり、その世間との距離感についていけなくなっている。見聞きするたび少しずつ心が剥がれていくのを感じていた。今まで以上に働いて、stay homeならぬcan't go homeの私たち。少しでも家に帰りたいと願う私たちは疎外感を感じ、世間の流れにはどうしたって乗れなくて、耳をふさぎ目を閉じたくなってしまう。
「最初は何とも思ってなかったんだけど、だんだんと最近は温度差を感じすぎて見るのもつらい」とSNSを辞めた看護師がいる。
まだ、そこまでじゃない。だいじょうぶ。私はまだ、だいじょうぶ。
でも。
やるせなさは募り、おうち時間や流行りの話題を楽しんでいる人を、恨めし気に感じている自分に嫌気がさしてしまう。仕事があるだけ幸せなはずなのに、被害者意識を持っている自分を見つけては、気持ちがずぶずぶと泥の中へ沈んでいくような自己嫌悪感。人と比べるのではなく、自らのするべきことに、目をしっかりと向けていればいいだけなのに。弱い自分を試されているのだろうか。
おまじないのように繰り返す、絵本に出てくる
こん
の言葉。だいじょうぶ、だいじょうぶ。