第10話 夏から冬にかけての思い出と現実

文字数 1,354文字

 内部進学とはいえ、中三の夏はやっぱり勉強しないといけないようで、特に里沙さんのように東大を受けるような子は、もう大学の受験体制に入っていた。
 引き摺られるように、四人とも勉学に励んでいる。ここで勉強したり、図書館に行ったり……。
 勉強することは、良いことなのだけど、ここに来て『受験生の母』をするとは思わなかったよ。人生って面白いね。

 そういう感じで夏が過ぎ、秋が過ぎして、いつの間にか冬が来ていた。
 今日なんかは、珍しく小雪が舞っている。
 だけど、僕の庭は相変わらず季節が分からなくなるような、花咲乱れる庭になっているのだけれども……。



 夏から冬にかけては、あまり良い思い出がない。
 そう言ってしまったら、千代さんに失礼なんだろうけど。

 夏に千代さんは結納が決まって、正式に婚約することになった。
 あの夏も暑くて千代さんははしたなくも、タライに水を張って氷屋さんの氷を入れて足を付けてたんだよな。
 千代さんの婚約者のお金で買った氷と、ジュースを飲むのに使っているストローもそうだっけ……。
 今考えると随分ひどい話だ。婚約者にお金だけ出させて、自分は他の男と逢い引きだなんて。

『会ったことも無い人なの。私、お金のために売られていくようなものなの』
 その縁談が決まったとき、僕はなんて言ったのだっけ?
 ああそうだ、『おめでとう』って言ったんだ。
 僕は見ているだけで良かった。何もかも諦めて、平穏な一生を送るつもりだったからね。
 こんなに何もかもが不自由な中、自分の意思をハッキリ言い、行動する千代さんが好きだった。人のものだと分かっていても、好きだった。
 僕の苦労に巻き込めないと思ったのに。

『おねがい……。ここに置いて下さい。わたし、伸也さんの事が好きなの。ずっと……。苦労したとしても、ずっと伸也さんと一緒じゃないと、私』
 泣きながら背中に縋ってきた千代さんを、手放すことができず。
 僕は、ひどいことをしてしまった。
 これは、賭けだと言って…………。



 自分の部屋で椅子に座ったまま僕は溜息を吐く。
 もう過去のことだ……何度、後悔してもどうしようも無い。

 さて、明日も学校の弁当作りだ。
 現実の慌ただしさが、救いになっているな。
 僕は寝るために、寝間着に着替えようとしていた。
 
 不意に玄関の呼び鈴が鳴る。
「誰だろう? こんな夜更けに……」
 そう思っていたら、隣の由希子さんの部屋のドアの音がした。
 普段は、呼び鈴が鳴っても出ないのに、何が。
 嫌な予感がして、僕も部屋を飛び出る。

「由希子さん。どうしたの」
 僕は、階段を降りようとした由希子さんの腕を掴む。
 由希子さんは、何か必死な顔をしていた。
「危ないよ。こんな時間の訪問に、女の子が出たら」
「だって……出ないと」
 由希子さんは必死に僕の手を離そうとしている。
「とにかく、僕が出るから……一緒に行こう」
 何か知ってそうな由希子さんと二人で階段を降りた。
 まだ呼び鈴が鳴っている。扉をダンダン叩かれないだけ、マシか。

「はい、はい。そんなに呼び鈴を押さなくても……」
カチャッと扉を開けると、愛理さんとその後ろに泣きそうな顔の早苗さんが立っていた。
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