マフラー

文字数 10,422文字

 

俺はその大手週刊誌のインタビュー記事に釘付けになった。
 鈴木恵子、ブロードウェイミュージカルで主役の座を掴んだ日本人女性として、母国に錦を飾る大きな写真入りの巻頭記事。
 シックなグレーのセーターに鮮やかな赤いコート、セーターと対になるグレーの大きなマフラーを巻いた彼女は、落ち着いた大人の女性としてニューヨークの街に自然に溶け込んでいる。
 そこには気取りもてらいもないが、凜とした存在感が感じられるのは意志の強さを感じさせる視線のせいだろうか。
「まっすぐに見つめて来る眼差しはあの頃のままだな……」

 俺は、まだ無名だった頃の彼女を知っている……。

♪    ♪    ♪    ♪    ♪    ♪    ♪    ♪

 俺、佐藤光一がミュージカルと出会ったのは小学生の頃だ。
 ロングランを続けていた『オペラ座の怪人』、ストーリーの面白さもさることながら、華麗な舞台と重厚な音楽、素晴らしい歌と群舞の華やかさ、そしてそれらが今この時、生で演じられているのだという臨場感、緊迫感に圧倒され、舞台装置や照明も含めた総合芸術として完成度の高さに魅せられた。
 ミュージカル俳優になりたい……最初は漠然とした憧れに過ぎなかったが、中学で演劇部を選んだのは間違いなくそのせいだった。
 そして、実際に演劇を経験した俺ははっきりとそれを目標に定めた。

 中学での学業成績は良かったので、高校は超一流とは行かないまでもそこそこ名の通った大学の付属高を選んだ、大学受験に貴重な時間を費やしたくない、そんな思いからだが、ミュージカル俳優を夢見ながら一般の大学を卒業することも考えている……それが甘い考えだとはその時考えもしなかった。
 高校での部活は合唱部を選んだ、演劇部も当然考えたが、顧問の男性音楽教師が声楽家で、しかも男子部員はごく少なかったから密度の高い指導を受けられると考えたのだ。
 演劇に関しては舞台を見ることでも学べるし、映画を見たり本を読むことも糧になるだろう、しかし、発声や歌唱は若いうちにしっかりした発声を学んだほうが良いと……そして、その選択は間違っていなかった。
 朗々たるテノールとまでは行かなかったが、元よりクラシックの声楽家になろうと言うわけではない、俺は高校時代に本格的な発声を学ぶことが出来た。
 そして英会話力を身につけようと大学は外国語学科英語科を選び、グリークラブに所属する傍ら、小さな劇団にも所属して演劇を学んだ。
 高校の合唱部で学んだ発声は演劇にも生かすことが出来たし、映画や読書も素養となっていた、人前で演技することに慣れてくると、俺は劇団のスターに登りつめて行った……小さな劇団のスターに過ぎなかったが……。

 卒業を控えても就職活動を始めようとしない俺に、とうとう父親が痺れを切らした。
 来るべき時が来たのだ、この問題は避けて通る事は出来ない。
「ニューヨークに渡ってミュージカル俳優を目指す」
 初めてそう宣言した俺に、父親は当然のごとく怒った。
 高校から私立に通わせてくれ、大学へも遣ってくれたのだ、それが唐突に海のものとも山のものともわからないような夢を追うことを宣言したのだから無理もない。
 その後、父親とは何度も衝突し、最後には胸倉をつかみ合うところまで行った、そして、最後に父親は怒鳴りつけるように言った。
「三年だ! いいか、お前に三年だけ猶予をやる、ニューヨークでもどこでも好きな所へ行っちまえ、三年死ぬ気で頑張って、それでダメならキッパリ諦めろ! いいな! わかったか! わかったんなら返事をしろ!」
 俺は父親の胸倉を離して頭を下げた……。


 無論、親の援助など受けられるはずもないし、俺もそんなつもりは毛頭なかった。
 バイトで貯めた当座の生活費を握り締め、俺は夢だけを道標にニューヨークへ渡った、『やってやる』という強い決意と、それに負けない位大きな不安を抱えて。
 

 日本料理店でバイトの口を見つけられたのは幸運だった、オーナーはかつてミュージカル俳優を目指してニューヨークに渡り、夢破れたものの日本に帰ることもまた出来ず、ニューヨークに留まって日本料理店の皿洗いから修業し直した日本人。
 甘い人ではないが演劇を志す者には一定の理解がある人で、オーディションを受けるためにバイトを休む事は多めに見てくれたのだ。

 しかし、想像はしていたが、それ以上に本場のミュージカル界は厳しかった、僅かに開いた門戸の隙間に大勢の志願者が群がる、オフ・ブロードウェイのオーディションにすら俺は落ち続けた。
 俺はひとつ大きな勘違いをしていたことを思い知らされた、俺が日本で学んで来た事はミュージカルの舞台で重要な役を演じる為のもの、しかし、ミュージカルの製作者がオーディションで選ぼうとするのはコーラスライン、すなわちバックコーラス兼バックダンサー達なのだ。
 とりあえず演技力は二の次、歌唱力にもそれほど大きな要求はない、最も求められるのはダンスの上手さ、見栄えなのだ、そしてそれは俺が最も軽視して来たものだった。
 歌わせて貰えれば評価されるはず、台詞回しや発声にも自信はあるし、英会話だって日系二世と間違われるくらいだ、しかし、それ以前に大人数でのダンスのテストで真っ先にステージから下ろされてしまう。
 ダンスを習う金銭的余裕はないから独学で学ぶ以外にはない。
 どんな端役でもいいから台詞を貰うことさえ出来れば輝きを見せられる筈……俺はそう自分に言い聞かせながらダンスの練習に励み、オーディションに挑戦し続けた。
 
 順調に過ごす二年はそう長い月日ではない、しかし、挫折を繰り返しながら、食事も満足に出来ないような苦しい生活の二年は決して短い月日ではない。
 相変わらずオーディションに落ち続ける日々の中で、俺の心は折れかけ、約束の三年を待たずに帰国することも考え始めていた。
 
 そんな折、バイト先の日本料理店に新しい日本人ウエイトレスが入って来た。
「鈴木恵子と言います、まだ英会話も満足に出来ませんが、やる気だけは人に負けませんから、よろしくお願いします」
 彼女の言葉には誇張もなければ卑下もなかった。
 実際、良くこれでニューヨークに出て来れたな、と感心するほど英語が喋れない、いや、しゃべるほうはまだマシだった、彼女は度胸も満点だったから身振り手振りを交えても何とか通じさせてしまう、しかしヒアリングはそうは行かない、聞き取れなかったからと言ってお客さんに何度も何度も聞き返すわけにも行かない、俺は何度も助け舟を出してやったし、店が終われば常用句を教えてもやった。
 しかし、そのおかげで、彼女と親しくなるにはそう時間はかからなかった。


「『オペラ座の怪人』? 私は『キャッツ』だったわ、あの舞台を見てこれしかないと思った」
 同じ作曲家の作品だが内容も雰囲気も大きく違う、そして彼女も俺とは大分違っていた。
「親の許可? そんなの無理に決まってる、あたしは田舎の小さな町の出なの、高校を卒業したら近くの町か、せいぜい最寄りの地方都市で腰掛みたいに就職して、良い人を見つけて結婚する、両親の頭にはそれしかなかったの、東京に出ることすら猛反対されたわ、だから家出同然だったな、片道の切符だけ持って上京したの、幸い十八歳の女の子ならアルバイトには事欠かなかったし……」
 アルバイトの内容はとても訊けなかった、何のスキルも持たない十八歳の娘が、すぐにでも必要な生活費を稼ぐ……出来る事は限られている。
「でも、暮らしていかなきゃならないし、俳優養成学校の授業料も必要だったから」
 それ以上語らないところから察すれば、意に染まない仕事だった事は想像に難くない。
 しかし、そうまでしても彼女は夢に賭けていた。
 親に大学まで行かせて貰い、どこか逃げ道を用意しながら夢を語る俺とは覚悟が違っていたのだ。
「養成学校では歌とダンスを学んだわ、でも主にダンスね、オーディションでまず必要なのはダンスのスキルだから」
 彼女は夢を掴み取るためのヴィジョンもしっかりと見据えていた、本場の舞台に立つ、それがどういうことなのか、それを実現するためにはどうしたら良いのかもしっかり考えていたのだ、いきなりスポットライトを浴びることを夢見ていた俺との違いは覚悟だけではなかった。
「え? 劇団に? だったら演技は勉強して来たのね? 歌もあたしとは段違い、発声からして違うもの」
 それでいて、彼女は俺の得意とするところを認めてくれた、俺と彼女は互いの弱点を補え合える……もちろん、彼女に女性としての魅力を感じなかったわけじゃない、しかし、それ以上に同志として、そして互いの教師として、俺達は互いを必要としていたのだ。

 
 スタジオを借りるような金があるはずもなく、俺達二人の相互レッスンはもっぱら公園のベンチでだった。
「それじゃ全然ダメ、振り付けは憶えましたってだけじゃない」
 彼女は中々手厳しいダンス教師だった。
 しかし確かにその通りだった、そもそも苦手意識が災いしてかダンスの練習が絶対的に不足していたことも否めない。
「歌と同じよ、歌詞とメロディを完全に憶えてからが本当の練習なんだって、あなたがいつも言ってることよ」
 確かに……彼女の台詞回しにも同じことを言ったっけ……。

 季節は春から夏に向かっていた。
 ニューヨークは街中に緑がほとんどない分、公園は広く緑豊かだ。
 俺達は思う存分練習することが出来た、そしてその成果も少しづつ現れて来た。
 俺は全体ダンスで最後まで残れないにせよ、真っ先にステージから降ろされる事はなくなって来た。
 あと少し、あと少しでソロを歌わせてもらえる、そこまで辿りつければ……。
 彼女もコーラスでステージを降ろされる事は滅多になくなった、ダンスはもとより得意、ソロでの歌唱力が認められさえすれば……。

 しかし、その『あと少し』がなかなか超えられない。
 オーディション開始時にはステージに溢れかえっていた受験者が十人程度とまばらになる、その中で選ばれるのは数人だ、そしてそこまで残って来たからにはレベルは高い、その中で目立てないと合格にはならないのだ。
 そして、俺と彼女にはもうひとつ大きな障壁があった。
 それは人種だ。
 差別と言うわけではない、単純に東洋人を求められる作品が少ないのだ。
 同じ位の実力ならば、あるいはこちらが少し勝っていたとしても、それが迷うレベルの差なら白人が、黒人が選ばれる、顔を白く塗って白人に見せかける、黒く塗って黒人の役をやらせる、それよりも最初から白人や黒人を選んでしまったほうが良い……自明の理だ。
 俺たちが役を掴むには、東洋人役があるならばその候補の中で一番にならなくてはいけないし、ないのであれば見た目に少々違和感があってもそれを吹き飛ばす実力、魅力を備えていなければならない。
 早い段階で落とされている時には気がつかなかったハンデ……しかしそれを理由に諦めるわけには行かない。
 焦燥感を、不安を吹き飛ばそうと、俺達は『もう少しだ』と励ましあいながら相互レッスンを続けた。
 
 ニューヨークに秋の訪れは早い。
 春から夏の間は夜になってもそこそこの人出があった公園も、落ち葉が舞うようになると人影もまばらになる。
 俺が持っている防寒着といえばMA-1タイプのジャンパーだけ、彼女はカーキ色のジャンパーコートだけ。
 公園のベンチでのレッスンには寒さが身に沁みるようになってくる、しかも『もう少し』はなかなか乗り越えられない。
 お互いの批評も自然と辛らつになって来る。
 『もう少し』を乗り越えるためには、そこをまず乗り越えなければならないことなどわかっている。
 俺は彼女の歌と演技を重箱の隅をつつくように批評したが、そこに自分自身へのもどかしさ、日に日に深まっていく寒さ、父親と約束した三年の期日が迫ってきていることへの焦りが混じっていなかったと言えば嘘になる。
 彼女は期日こそ区切られていないが、辛い思いには変わりはない、彼女も俺のダンスの隅々にまで細かい注文をつけてくる。
 秋が深まっていくにつれて、これまで二人三脚で頑張って来た俺達の間にも不協和音が響き始めていた。
 
 お互いにイライラを相手にぶつけるようになると、レッスンしても効果は上がらない、むしろやらないほうが良い位だ。
 それは結果に如実に現れた、次のオーディションでは二人とも早々にステージから降ろされてしまったのだ。
 
 オーディションの翌日、俺と彼女は揃って店に出ていたが、仕事上必要な言葉しか交わさなかった、当然相互レッスンもなし……。
 翌日も……そしてそのまた翌日も……。
 
 半ば意欲を失いかけてはいたが、一人でもレッスンしようと俺は重い足を引きずるようにいつもの公園に向かった。
 いつものベンチはそこにある、しかしいつも一緒だった女性の姿はそこにない。
 なんとか奮い立たせた意欲も萎えてしまい、俺は公園を当てもなくほっつき歩いた。
 
 そして気付いた。
 彼女はただ同じ夢を抱く同志と言うだけではない、既にもうかけがえのない存在になっていたことを……。
(今日はもう帰ろう……)
 そう思っていつもは通らない小路を歩いて行くと、フリーマーケットのグループに出くわした、もう店じまいしようと片付けている最中だったが、ある物が俺の眼に飛び込んで来た。
「店じまい?」
「ええ、そうよ、明日またやってるから、良かったら明日来て」
「そのマフラーだけ見せてもらえないかな」
「ええ、もちろんいいわ」
「……これ、いくら?」
「5ドルのつもりだったけど、今買ってくれるなら3ドルでいいわよ」
「ありがとう……貰うよ」

 そっけない薄いグレーのマフラーだったが、その大きさが気に入ったのだ、これがあればニューヨークの冬も乗り切れそうに思えるほどに大きい。
 3ドルを払い、それを首に巻くと少し元気が出て来た、もう三日もレッスンしていない、少しでもやって行かないと……そう思い直していつものベンチを目指して歩き始めた。

 ベンチが見えてきた……そして見慣れた後姿もそこにあった。

「どこほっつき歩いてたのよ」
「そこいらへんだよ」
 彼女の最初の一言はきつい調子だった、しかし、その手には二つのプラスチックカップ。
「せっかくコーヒーを二つも買ってきたのにいないんだから……すっかり冷めちゃったわ」
「……ごめん……」
 カップは二つとも手付かずだった。
 俺達の経済状態ならコーヒー一杯だって無駄には出来ないのに……。
 俺は彼女の隣に腰掛けると、首からマフラーを外し、彼女の首に巻こうとした、すると彼女は俺の手を押し止め、一方の端を自分の首に、もう一方を俺の首に巻いた。
「こうすれば二人ともあったかいじゃない」
「ああ。そうだね……コーヒーもらっていい?」
「もちろん……そのつもりで買ってきたんだから」
「まだちょっとだけ暖かい」
「そうね……でも、マフラーの方が暖かいわ」
 俺達は互いを見つめあいながらコーヒーを飲み干し……どちらからともなく自然に抱き合って唇を重ねた。
 お互いの体温がお互いを暖め合い、一本のマフラーはお互いの距離を縮めてくれた。
 3ドルのマフラーと二つで2ドルのコーヒー……。
 それは、俺達はお互いがお互いを必要としていることを改めて教えてくれた……。


 翌日からはまた厳しい相互レッスン、以前にも増して厳しい批評を交し合う。
 しかし、もうギスギスした空気は流れない、お互いが相手のことを本当に思いやっていると信じることが出来るから……。


 その年のクリスマス・イブ、ニューヨークは雪になった。
 しかし歩けないほどの雪でもない、俺達はいつものように公園へ向かおうとしたが、店のオーナーに呼び止められた。
「おい、この雪でもレッスンか?」
「ええ、そのつもりですが」
「今夜は俺に付き合ってもらえないかな? 店も忙しいからディナータイムも手伝ってもらいたいし……実は最近彼女に振られちゃってね、今年のクリスマスの予定は真っ白なんだ」
 オーナーは妻帯していない、ミュージカル俳優への夢を追いかけ、夢破れてからも料理の修業、店のオープン、店の拡大と結婚するヒマもなかったのだ。
 理解あるオーナーの頼み、しかも……現実的な問題として、俺達の食生活はかなり貧しい、必要最低限度と言っても良いくらいなのだ。
 何しろ理解してもらえるとは言ってもオーディションともなれば店を休まざるを得ない、それにレッスンの時間も必要だからランチタイムまでの勤務、夕方から夜にかけてのディナータイムは働いていないから収入は限られる、その中からでも勉強のために舞台を見に行く費用まで捻出しなければならないのだ。
 何かご馳走してもらえるのなら、それは確かにありがたいことだ。

 閉店後も店に残った俺達とオーナー、三人の前には店では最高級の料理……寿司と温かい茶碗蒸し、そして和牛のステーキが並んでいた。
 帰り際にシェフが用意して行ってくれたものだ。

「この時間になると開いている店もあまりないんでね」
 オーナーはそう言ったが、俺たちにとっては作ったり運んだりこそすれ、これまでは口に入ることのなかった料理だ。
「それで……どの辺まで行ってるんだ?」
「オフ・ブロードウェイなら合格まで指は届く所まで来ていると思うんです、指が掛かりさえすればなんとか這い上がれるんじゃないかと」
「ああ……俺が聞いたのはそっちじゃないんだが……」
 オーナーは微笑とも苦笑とも着かない笑みを俺達に向けた。
「まあ、いい、今は恋より夢ってところなんだな」
 
 実際、彼女が欲しい、彼女を抱きたいと言う気持ちはもちろんある、俺の思いあがりでなければ彼女も応じてくれるんじゃないかと思う。
 しかし、俺は敢えてそれを口にはしなかった。
 彼女が好きだ、一人の女性として愛している。
 しかし、夢を追うためのかけがえのないパートナーであり、彼女にとっての俺も同じ。
 二人ともステージに上がれる日が来たら、俺は彼女に『愛している』と告げ、彼女の全てを独り占めしたいと思っている。
 しかし、俺たちが追っている夢は二兎を追いながら掴めるようなものじゃない、それまでは封印しておく、そのつもりだったのだ。

「しかし、実際、この時期になると外は寒いだろう?」
「ええ、まあ、確かに……」
「もし良ければ閉店後の店を使っても良いぞ、もちろん掃除はしてもらうがね……給料も夜のシフトの方が少しだが高いしな」
 願ってもない申し出だった。
 俺達は顔を見合わせると、思わず軽くキスをかわした……オーナーの目の前だと言うことも忘れて……。

「それで良い……夢を追うことも大切だが、大事な人を見失うこともないようにな」
 俺達はオーナーに深々と頭を下げた。
「話はこれまでだ、せっかくのステーキが冷めちゃ台無しだからな」
 とろけるようなステーキと、久々の日本の味は、俺達に新たな活力を与えてくれた。


 三月の初め、俺達はオーディションを受けるために劇場にいた。
 同じステージ、採用されるのは男女一人づつだ。

 そしてこれは俺が受ける最後のオーディションになる。
 父親と約束した期日は三月末まで、このオーディションに落ちたらもう四月までオーディションはない。
 この三年……殊にこの一年でやれるだけのことはやった、今以上にレベルが上がることはないと思えるほどに。
 このオーディションで結果が出ないならば、少しぐらい引き伸ばした所で結果を出せるとも思えない。
 逆に言えば、俺はこのオーディションに合格できる実力を持っているという自負もある。
 これでダメならば運も持ち合わせていないということだ。

 オーディションは淡々と進み、俺と彼女はステップごとに名前を呼ばれ続けた。
 そして最後にステージに残ったのは男女二人づつ……。
 全てのテストを終え、舞台監督がマイクを握った。

「コウイチ、君の歌は素晴らしいな、声も良く通るから台詞も明瞭だし、良く台本を読み込んで役にもなりきっている、とても印象に残ったよ」
 好意的な評だ……。
「ジョン、君の歌も素晴らしい、コウイチは朗々と歌い上げるが、君には持って生まれたリズム感が備わっているな、甲乙つけがたいよ、しかし、台詞回しにはまだ改善の余地があると思う、少し勢いに任せて声を張り上げすぎる嫌いがあるな」
 ジョンは少しうつむいた……ここまでの評ならば俺の方が好意的だ。
「残るはダンスだ、コウイチは動きの隅々にまで神経が行き渡っている、対してジョンだが、歌でも発揮されたように君には天賦のリズム感を感じる、ダンスにもそれは生きているな」
 いよいよ最後の一言だ……、俺もジョンも固唾を飲む。
「現段階での完成度ならばコウイチが一枚上手だと思う、しかし、ジョンが持っているリズム感は魅力だ、初演までの伸び代に期待して我々はジョンを選ぶことにしたよ」

 終わった……。
 とうとう手は届かなかった……。
 しかし、舞台監督の評は的確だ、俺は自分が出来る限界まで自分を磨き上げることが出来たのだ、もちろん、彼女に支えられてだが……天賦の才に敗れ去るのならそれは明らかに俺の限界だ……惜しかった、本当に惜しい所まで来れた……しかし、俺はダイヤの原石ではなかった、そういうことだ……。

「ケイコ、君のダンスは素晴らしかったよ、動きがダイナミックなのに隅々にまで神経が行き届いている、歌と演技にも充分に合格点を与えられるが、歌だけを取ればダイアナだ、アフリカ系特有の張りのある声には魅了されたよ、演技には少しまだ荒さが残るが、ダンスはケイコ以上にダイナミックだった、細やかさでは一歩譲るがね」
 そして最後の一言……。
「この役にはソロダンスのパートがある、その見栄えに我々は注目した、ケイコ、この役は君のものだ」

 やった!
 恵子は俺の胸に飛び込んできた、俺は彼女を振り回し、そしてきつく、きつく抱きしめた。



 俺が帰国する日、彼女は空港まで見送りに来てくれた。
 三月とは言え、NYはまだまだ寒い、着たきり雀のカーキ色のジャンパーコート、その襟を立てている彼女に、俺は自分の首に巻いていたあのマフラーを託した。

 公園のベンチに並んで腰掛けてハンバーガーを齧った時、演技やダンスを語りながら並んで歩いた時、食費を削って見た舞台の帰り道、今見てきたばかりの舞台を熱く語り合った時、同じ夢を抱く二人の首元を一緒に暖めてくれた長いマフラー。
 腕を組み、一本のマフラーで繋がっている時、俺は腕を通して彼女の体温を、マフラーを通して熱い心を感じていた。

 マフラーを彼女に託す時、俺は彼女に「俺の分までがんばってくれよ」とだけ言った。
 愛しているとは言わなかった、思い返せば一度もその言葉を口にした事はなかった。
 これが最後のチャンではあった……。
 しかし、彼女はその時大きな夢を掴む為の小さなチャンスを得たばかり、迷いを生じさせたくはなかった、俺は彼女への想いを一人で日本に持ち帰ると決めていたのだ。
 彼女の瞳が潤んでいるのを見た時、抱きしめてキスしたい衝動に駆られたが、俺はその気持ちをこらえ、ハイタッチだけを交わして彼女に背を向けた。



 それから五年が過ぎた。
 
 帰国した俺は程なく演劇専門誌の編集部に職を得て、舞台からではなく客席側から演劇に関わる形で地道に暮らしている。
 当然、彼女が端役から脇役へ、準主役へとステップアップし、一年前には主役の座を掴んだ事は知っていた。
 しかし、それはあくまでオフ・ブロードウェイでのこと、そこからブロードウェイの主役へとなれば大抜擢だ。
 一躍シンデレラガールとなった彼女は日本でも話題となり、一般週刊誌にインタビュー記事が載るまでになったのだ。



 写真の彼女は鮮やかな赤いコートを纏っている、くたびれたカーキ色のジャンパーコート姿しか知らない俺にはまぶしすぎるほどの…。
 そして五年前は下ろしていた前髪も今はなく、まだ幼さが残る印象は消えて、凛とした大人の女優の顔がそこにあった。

 しかし、彼女の首を包んでいるのは、紛れもなく俺が託したマフラー…。

 一躍有名になったからと言って、東洋人がブロードウェイで成功し続けられると言う確証はない、大きなステップアップを果たしたことは間違いないが、まだまだ厳しい闘いが続いて行くことは俺よりも彼女がよく知っているはず。
 
 俺と彼女の間でしか通じない、マフラーにこめた彼女のメッセージ。
 それは……。
(あなたの分まで頑張ったわよ)と胸を張っているのか。
(まだまだ私は闘い続けるわ)と言う決意を表わしているのか。
 マフラーから僅かに覗く彼女の唇が何を語ろうとしているのか、俺にもわからない。
 しかし、(あなたを忘れてはいないわよ)と言うメッセージでもあると受け取るのは、俺の勝手な自惚れではないだろう……。

 俺はグラビア写真に五年前、空港での彼女の面影を重ねながら、いつまでも眺めていた。


              (終)

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