21話「やっちまった」
文字数 2,065文字
その日家に帰ると、僕は慎重に玄関を開ける。
昼間、担任の八尾先生に酷いことを言われた雄一が、もしかしたら怒ってるんじゃないかと思って。
ドアを開けて中に上がる前に鍵を掛け、キッチンに足を踏み入れると、奥の様子が見えた。僕は思わず彼の名前を呼ぶ。
「雄一…」
部屋中が、転がされたビールの空き缶だらけだった。その中で雄一は、窓際に座って膝を抱えている。
僕は何も言えず、でも彼の傍に腰を下ろす。
でも、顔を伏せていた雄一を見つめていて、わずかに見えている彼の額に傷のようなものが見えたので、ちょっと彼に近寄ってみた。
「雄一、顔見せて。ねえ」
無言でやんわりと抵抗する雄一の顎を取ってこちらを向かせると、雄一の顔はまた痣だらけだった。
「どうしたの…この傷…」
彼は僕の手を振り払い、また元のように下を向いた。
「ねえ」
しばらく彼はそのままだったから、僕は傷の手当てのために、湿布と絆創膏を持って雄一のところに戻る。
「傷があるなら、手当てしなくちゃ。雄一」
僕がそう言って彼の顔に触ろうとすると、雄一は、今度はその手を思い切り振りほどいて、僕をきつく睨み上げた。
「ほっといてくれよ」
彼は全身から怒りを発するように姿勢を固くして、僕を両の目で強く射抜く。今にも僕に殴りかかりそうなほどに見えるのに、僕は悲しくて仕方なかった。
“教室で、あんなに酷いことを言われたから…”
「喧嘩、したの?」
そう聞くと、雄一は馬鹿馬鹿しそうに首を振った。
「やり返しちゃいねえよ。学校帰る時に絡まれただけだ」
「そっか…」
僕は湿布と絆創膏を手にしたまま、彼の前でうつむく。すると、雄一が疲れたように笑った声がした。
顔を上げると、彼はそっぽを向いていて、何もかもにくたびれたような顔をしていた。
「お前なんかに、わからねえよ」
そう言った雄一の声はすっかりいじけていて、僕は何かを言いたかったかったのに、どれを言っても雄一を怒らせるだけだと分かっていた。
“でも、これだけは…”
「ねえ…先生たちのことも気になるけどさ…まずは、自分のために頑張ってみようよ…」
そんな台詞で彼を救えるはずもなかった。傷つけるだけだって僕は分かってたのに。
雄一は横を向いたまま、ゆるゆると何度か頷く。
でも、もう一度僕の目を見た時には、彼は僕のことを馬鹿にするように毒々しい笑いを顔に貼り付けていた。
だんだんとそれが高潮するように、雄一の眉間の皺は深くなり、口も悔しげにひん曲がっていく。
「そうだよな。お前には、誰も自分を評価してくれない中で頑張るのがどんなに辛いかなんて、わからないよな」
「雄一…」
すぐに雄一は立ち上がり、そのまま何も持たずに、玄関から出て行ってしまった。
そのあと、僕たちの関係はギクシャクするようになり、雄一は些細なことでも僕に突っかかってきた。
“一緒に居れば、幸せだと思ってたのに…”
少しずつ僕たちの関係はねじれていき、僕だって、彼に冷たい言い方をしてしまうこともあった。
学校で話し掛けると、雄一は「勉強の邪魔なんで」とため息をつき、僕をはねつけた。
“好きになる前に聞いた悪口より、ずっと辛い”
それでも雄一は勉強を頑張って、喧嘩が起きそうになれば逃げたり、抵抗しない姿勢を貫いた。
雄一の成績は順当に上がって、少しずつ、教室で先生に褒められることも増えていった。
季節がもう冬に近づいて、やっと彼が学校の教師たちを説得できるようになった頃、それは起きた。
僕はその晩、夕食に即席袋麺を開けて、お湯の沸いた鍋に放り込んだ。
煮えた頃合いで火を止めようとした時、表からわずかに、何かを引きずるような足音が聴こえてきたんだ。
雄一が帰ってきたにしてはおかしいなと思って、僕がちょっと外の音に耳をそばだてると、うちの鍵が開いて、どたーっと雄一が玄関に倒れ込んだ。
「どうしたの!?雄一!」
雄一は体が痛むのか、肩やおなかを押さえていて、息を切らしていたけど、小さく絞り出すような声でこう言った。
「…やっちまった…」
僕はとにかく彼の肩の下に手を入れて家の中に引っ張り上げ、それに従って立ち上がった彼を、布団まで連れて行った。
「とにかく寝て。わ、酷い傷…」
僕は、彼の傷がどのくらいあるのかを確かめるのに夢中だったけど、雄一は目に片腕を押し当てて、小さな声で「ちくしょう…!ちくしょう…!」と言い続けていた。
「雄一、服を脱いで。湿布を貼らなきゃ」
でも雄一は、歯ぎしりをしながら小さな声で何かを喋るのをやめない。僕はそれを聴いてみようと、彼の口元に耳を近づけた。
「あいつら…!汚ねえことしやがって…!ちくしょう!ちくしょう!やっちまった…!俺、やっちまった…!」
僕はその時、わけもなく背中がぞくりとして、雄一にわけを聞くのが怖くなった。
でも、聞かなくちゃいけない。そんな気がした。
「雄一、何をやったの…?」
すると雄一は、ジャケットの袖で両目をごしごしこすり、まだそれで目を覆い隠したまま、引きちぎるような声でこう言った。
「闇討ちに遭って、やり返しちまった…!もしかしたら……殺しちまったかもしれねえ……!」
Continue.