奇跡なんておきない。
「先輩。キットーが泣きついてきました。納期は明日の昼以降になるそうです」
デスクでばこばこタイピングしてたら吉田くんがきて言った。
「え~気楽に言ってくれるなぁ。じゃあこっちは一日半しかないじゃん」
わたしは椅子のうえでだらしなくでろーんと伸びる。
「それを片付けてしまうと明日の午前中が手すきになります。どっちみち明日は帰れませんから、今日はもう切り上げていいでしょう」
わたしは「あそう」と返事をして、壁の時計を見上げる。
吉田くんは一年後輩で、わたしの相棒。わたしがずももも~っと働いて、吉田くんがそれをサポートをする。特に上司からそういう采配があったわけじゃないけど、なんとなくそういう役割分担になった。
「まだ六時半。こんな時間、久しぶりだね」
「ええ、奇跡的ですね」
たった一時間半の残業で帰れる奇跡。ありがたいね。
新卒で入社して七年。二十代は飛ぶように過ぎた。きっと三十代もロケットみたいに飛び立っていく。
吉田くんが帰り支度を始めるので、わたしも鞄を持って立つ。
オフィスを出ると空がまだ青かった。
「すごい。明るい。なんか別の街みたい」と、わたしは空を見上げて呟く。
吉田くんは「そうですね」しか言わない。無駄口を叩かない。だからいつも、わたしばかり喋る羽目になる。腹立たしい。
「なんかさ。海に沈む夕陽とか、見たいよね~」
そんな適当なことを言うと、吉田くんがスマホをいじりながら「見れますね」と返事をした。
「は?」
「夏至ですから。今日の日の入りは19時15分。18時33分発に乗って44分に中央線に乗り換え。55分に港について、タクシーで埠頭まで5分。見れますよ。海に沈む夕陽」
行きますか? と、吉田くんが言う。
え? わたしが? 吉田くんと? 海に沈む夕陽???
「え、でも」
「時間がありません。10秒で決めてください」
奇跡なんておきない。
そう、大したものは。