1 「戦いたいのか?」

文字数 2,668文字

 窓から差しこむ朝日が目にまぶしい。

 隣には、静かな寝息を立てて眠るハンナの姿があった。

 ジャックが働く運送会社の事務員を務める二十代半ばの女性だ。
 最近は二人でデートを繰り返す仲に進展しており、とうとう一夜を共にした──というわけだった。

 かたわらに感じる温もりが、ジャックの心を多幸感で満たしてくれた。
 シーツからわずかにのぞく白い裸身が艶めかしくも美しい。

 昨夜、自分はこの体を抱いたのだ──。

 あらためて甘い感慨に浸る。

「ん……」

 かすかな吐息とともに、ハンナが身を起こした。

「あ、もう。寝顔を見てたんですか」

 照れたようにはにかむ彼女に愛おしさを覚えた。
 四十三年間の人生でこんな感情を覚えるのは初めてのことだ。

「悪い、つい……」

 照れてしまい、ジャックは言葉が上手く出てこない。

「これからも……その、よろしくな」

「なんですか、今さら。他人行儀です」

 ハンナがくすりと微笑む。
 その笑顔は、窓からの陽光に照らされていつも以上に美しく見えた。

 垂れ目がちで垢抜けない顔は、他人から見れば人並みの容姿かもしれない。
 だがジャックにとって、彼女は世界一の美女だった。

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」

 ハンナは嬉しそうに言って、ジャックに顔を寄せた。

 軽く唇が触れあう。

 ずっとこんな時間が続けばいいのに、と思う。

 平和で、穏やかで。
 幸せで、温かくて。

 ──先日のレヴィンとの戦いから、すでに一週間以上が過ぎていた。

 彼の元まで行く際に、ジャックは大勢の兵士を薙ぎ倒した。
 さらにランクS冒険者四人をも打ち倒したため、かなりの騒ぎになっているようだ。

 ジャックはあの後、すぐに逃げ出したため、それが彼の仕業だと感づいている者は今のところいない。
 今のところは──。

 レヴィンやミランダを手にかけたことは、今でも心に重くのしかかっている。
 多くの人間の意志を奪い、支配する──彼らがやってきた非道を考えれば、あるいは自業自得なのかもしれない。

 それでもジャックが人を殺したことは事実だ。
 割り切れない感情のわだかまりは残っていた。

 だからこそ、ハンナとの温もりが心を癒してくれる。

 ──と、そのときだった。



 ぞくり、と。

「っ……!?

 全身が総毛立つような感覚が走り抜けた。



「これ……は……!?

 どこかに禍々しい気配が生じたのを感じる。

『強化』の力を持つジャックだからこそ感じ取れる、微弱な──ごく微弱な気配。

 何かが、いる。
 遠く離れた場所に。

 嫌な気配を放つ、何かが。
 放ってはおけない、何かが。

 ──どく……んっ!

 異様なほどに心音が高まった。

 不思議な感覚だった。

 闘争心が爆発的に燃え上がるような。
 胸の中で炎が燃え盛り、弾けそうな。

「……行かないと」

 半ば無意識につぶやく。
 ベッドから降りて、衣服を身に付け始めた。

「ジャックさん……?」

 ハンナがこちらを怪訝そうに見る。

「……悪い。ちょっと行く場所ができた」

 ジャックは決まり悪げに顔を伏せた。

 せっかく彼女と初めて迎えた朝だというのに。
 そう思いつつも、一方では『行かなければ』という衝動が耐えがたいまでに湧き上がっていた。

 なぜ行かなければならないのかは分からない。

 それでも──。



 ジャックは強化した脚力で王都を走り抜けた。

 禍々しい気配が漂ってくるのは、王都の外れに広がる荒野だ。

 王都から出て、しばらく進んだところで、ジャックは立ち止まった。

「……ここか」

 前方には何もない。

 だが、いる。
 何かがいるのを感じる。

 今、はっきりと分かった。
 ここに来なければならないという不思議な衝動は、ここにいる何かと対峙するためだったのだ、と。

「『黒幻操界(フィオレーガ)』だな」

 突然、心の中で声が響いた。

 荘厳な雰囲気を備えた男の声。
 ジャックに力を授けた戦神──ヴィム・フォルスだ。

「なんだ、それは?」

天翼の女神(ガ・ゼガリア・フィオ)が編み出した異空間を操作する術式だ。それを応用して魔族が特殊空間を作り出したんだろう」

 ヴィム・フォルスが応える。

「この気配はやっぱり魔族か」

 ぎりっと奥歯を噛みしめる。

 ふつふつと湧いてくる闘争心が体を燃やす。
 自分でも不思議なほど気持ちが高ぶっていた。

「中にいるんだな?」

「なんだ、戦いたいのか?」

 戦神が意外そうな様子でたずね返した。

「放っておけば、人に危害を加えるかもしれない」

 ハンナにも危険が及ぶかも知れない。

 内心でつぶやき、ジャックは大きく深呼吸をした。

 全身を強化するイメージ。
 皮膚を鋼に。
 四肢に力を。

 獣のごときしなやかさを。
 獣のごとき強靭さを。
 獣のごとき闘争心を。

 念じるとともに、ジャックの姿が変わっていく。

 狼の仮面をつけた騎士。
 青黒い獣騎士へと。

獣騎士形態(コードビースト)か。ふん、いつの間にか随分と好戦的になったものだ」

 ヴィム・フォルスが笑う。

「先日のあの少年の影響か……いずれ、さらなる段階へ……」

 つぶやいた言葉の意味は、ジャックには分からなかった。

 ただ、特殊空間にいる魔族に対しては強烈な敵意を感じていた。

 自分の大切なものを、決して傷付けさせはしない。
 その可能性があるものは、絶対に排除する。

「──砕けろっ」

 燃えるような闘志とともに、ジャックは前方に拳を叩きつける。
 強化の力を全開にした拳打を。

 重厚な金属同士がぶつかったような轟音が響く。
 何もない空間に亀裂が走る。

 そして、破砕音ともに前方の景色が揺らぎ、砕けた。

 ジャックはその向こう側に足を踏み入れた。

「これは──」

 先ほどまでの荒野が、薄青いモヤに包まれた平野に変わっている。

 前方には全長二十メティルを超える巨人と、黒ずくめの少年が。
 中空にはゴスロリドレスをまとい、翼を備えた少女が。

 そして、それと相対している三つの人影がある。

 見覚えのある少年と少女たちだった。
 そう、以前に王都を襲った魔将ディアルヴァと戦ったときに──。

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