裁くべきは背を押す者
文字数 4,996文字
とあるビジネスホテルにて、警察による捜査が行われていた。
付近には数台のパトカーと救急車が止まり、夜中で目立つパトライトに、何事かと通行人の目を引いている。
それは、紛うことなき殺人事件であった。
急行したベテラン刑事の鳴上 警部補、同じく渡辺 巡査部長は、ホテルのロビーで初動捜査の経過を聞いた。
「殺害されたのは東才大学四年、円谷 大地 、二十二歳の男性。死因は転落による頭蓋内損傷。三階から二階へ降りる際、後ろから押されて落下――打ちどころが悪く、亡くなりました。犯人は同級生の葛西 。目撃者も同じ大学に通う小野坂 なのですが」
「なんだ、ホシが分かってるならスピード解決ですね、鳴上さん」
渡辺の軽口に、スキンヘッドで強面の鳴上はゲンコツをくれてやる。くせ毛な頭を抱え、渡辺は涙目を返した。
「何するんすか!」
「話は最後まで聞け。それと現場で業界用語なんざ使うんじゃない。捜査に支障が出るだろうが」
「……すみません。でも口より先に手が出なくったって」
「なんだぁ?」
「なんでもないです、はい!」
調子のいい渡辺に睨 みを利かせ、鳴上は続きを促した。
「警部補が懸念されている通り、腑 に落ちない点がありまして。犯人は元より、目撃者も事件のことを訊くと黙ってしまって」
「黙秘か」
「いえ、それが喋ろうとはするのですが、思ったように声が出せない感じでして」
「声が……出せない?」
鳴上は眉間のシワを深くして、スキンヘッドに手をやった。
それに倣 い渡辺も訝 しみ、同僚の刑事に問いを投げる。
「間近で殺人が起きて、気が動転しているとか」
「いえ、身元などは喋るのですが、これが事件の内容になるとサッパリで」
「……通報は、どこからだ」
「ホテルの従業員からです、警部補」
「徹底してるな。さっさと署へ連行しないのは、そういうわけか」
鳴上は掌をパチンと頭に打ち付けた。渡辺には見慣れたものだが、他の刑事は場違いな笑いを堪えるのに必死だ。
「何か分かったんですか、鳴上さん」
「犯人と目撃者に話を訊く。付いて来い」
「え、遺体は見ないんですか?」
「物的証拠は指紋採取だけで片がつく。大事なのは、真犯人と動機だ」
そうして鳴上と渡辺はホテルのロビーを後にした。同僚の話では、犯人と目撃者は各々別室で取り調べを受けているらしい。
部屋番を聞いて鳴上達が向かったのは、目撃者のところだった。
ドアを開けると、スーツ姿の女刑事が見えた。
「あ、鳴上警部補。お疲れ様です」
「ご苦労さん。聞いたことを教えてくれ」
ぬっと現れた巨体のスキンヘッドを前にして、ベッドに座っていた小野坂に緊張が走った。泣き腫らした顔は青ざめ、サイドテールが僅かに震えている。
「こちらの小野坂さんですが、殺された円谷さんの恋人だそうです。葛西さんを含めた三人で、卒業旅行中だったとの証言がありました。今日は都内を回って、明日から飛行機で遠出の予定だったようです。事件が起きた際、小野坂さんは葛西さんの後ろに居ました。彼女が背中を押す瞬間が見えたと――」
「あれ、確か事件のことに関しちゃ、喋れないって言ってませんでしたっけ」
「焦るな渡辺」
「……すみません」
あなたも居たんですか、とでも言うように、女刑事が冷ややかな視線を渡辺に送る。
「事件のことに関しては、筆談であれば可能でした。こちらが聴取した覚書きです。いくつか私も試してみたのですが、本当に声が出せないようです」
女刑事から覚書きを受け取った鳴上は、坊主頭に手を置いた。
「なるほど、な。小野坂さん、事件のことについて、少し話してもらえますか」
「…………」
促された小野坂は口をパクパクとさせているだけで、やはり声は聞こえてこない。そのことに自覚があるのか、喉元に手を当てて不思議そうにしていた。
「結構です。分かりました」
鳴上は女刑事の肩を叩き、「引き続き頼む」と手狭な部屋を出た。
しばらく廊下で気難しそうに頭を撫でていると、今度はロビーで会った刑事が息を切らせながら現れた。
「警部補、よろしいですか。事件の関係者を名乗る人物が現れまして」
「誰だ?」
「なんでも東才大学の教授だそうです。ホテルの前で待たせていますが、どうされますか」
「決まってる。ここまで連れてこい」
返事をした刑事は階段を降りていった。覚書きにもあった通り、格安ホテルなだけにエレベーターの便が悪いらしい。三階から一階までなら、階段で降りるのと大差ないだろう。
「ちょっ、鳴上さん! いいんですか、無関係な人間を入れちゃっても」
「このタイミングに、わざわざ旅行先のホテルまで来た。それだけで理由としては十分だ。たとえ直接事件に関わっていなくてもな」
既に鳴上の脳内には、一つの仮説が浮かんでいた。それは見ることも難しい、天高いところにある細い糸。手繰り寄せるだけで切れてしまいそうな危うさ。
ふん、と鼻を鳴らして再び覚書きに目を通す。
殺された円谷、殺した葛西、目撃した小野坂。三人は共通の学科で知り合い、仲が良くなったのだと書いてある。円谷と小野坂は恋人同士、葛西と小野坂は親友、円谷と葛西は異性の友人関係。
エレベーターを待たずに三人で階段を降りていたところ、突如として葛西が円谷を押した。小野寺は悲鳴を上げ、騒ぎを聞きつけた従業員が警察に通報。
男女の諍 いなのは明白だ。ただ鳴上は『事件に関連する声が二人とも出せない』という点に固執していた。
「お連れしました、警部補」
意識の底から顔を上げると、刑事に連れ立って初老の男が居た。チリチリの白髪に丸メガネ、痩せ細った体と、いかにも賢そうだ。
「東才大学で心理学の講師をしております、奥泉 と申します」
「刑事一課の鳴上です」
「同じく渡辺です!」
「……それで奥泉さん、誰に呼ばれて来たのでしょうか」
「教え子の小野寺です。ラインで連絡がありまして。居ても立ってもいられず自宅を出ました」
「失礼ですが、それを見せていただいても?」
「もちろん構いません。こちらです」
通知のあった文面には、葛西が円谷を殺したこと、ホテルの名前と助けを乞う内容が書かれていた。
「お返しします。ですが奥泉教授、それだけで駆けつけるものでしょうか」
「当然ですよ! 彼女達は個人的にも教えたことのある熱心な生徒です。それに学校側としても、騒ぎが大きくなる前に手を尽くすべきだ」
「……ご自宅からホテルまでの距離は? ご自宅には奥泉教授の他に誰か居ましたか?」
「車を飛ばせば一時間もかかりません。連絡を受けた時は、家内と息子も傍におりました。そんなことより、彼女達は無事なんですか!」
鳴上の強面にも臆さない剣幕で、奥泉は声を張り上げた。アリバイがあり筋も通っている。演技だとは思えない。
「心理学にお詳しいとのことですが、実は困っていまして……」
鳴上は事件の詳細までは伝えず、二人の声が出せないことだけを語った。
奥泉は神妙な顔をしたものの、何かに思い当たったのか、うわ言のように口火を切った。
「私、何度か精神鑑定の経験がありまして……もしかしたら、お役に立てるかもしれません」
鳴上の目つきが鋭さを増す。まるで細い糸を凝視するかのように。
「と、言いますと?」
「彼女達が喋れないのは――催眠術の類ではないかと」
そして不確かに思えた糸は、鳴上が触れられるところまで降りてきた。
「詳しくお聞かせください、奥泉教授」
曰く、催眠術には段階があるという。
第一は互いの信頼関係。催眠はコミュニケーションの延長であるとして、相手に警戒心を持たれてはいけない。無防備にさせ、術中に陥れさす最も手近な方法は、信頼関係を築くことである。
第二に、相手の思い込みを利用すること。条件反射の紐付けとして理屈を伴わせる。これは相手の意志に逆らわない範囲で決められる。
第三として、それらは道具などで誰でも簡単に強められるそうだ。その逆も然り。
「おっかないっすね、マジで。やりたい放題じゃないですか」
「渡辺、いいから録音の準備でもしておけ。これから真相を明らかにする」
「今の、刑事というか探偵っぽい台詞ですよね――痛っ!?」
「無駄口を叩くからゲンコツが飛ぶんだ。集中しろ」
「……了解です。まずは目撃者からで?」
「いや、犯人からだ」
奥泉を含めた三人は、殺人犯である葛西の部屋を訪れた。
「違う、違う、違う……あたし、そんなつもりじゃなくて……違う、違うの」
まるで呪詛のように繰り返し聴こえてくる。喉は枯れ果て、消え入るような声が一室を満たしていた。
葛西はベッドの上で膝を抱えて座り、長い黒髪が掻きむしったかのように乱れている。
そんな怖気だつ光景に、奥泉は唾を飲んだ。
あとは変わると言われ、これ幸いと取り調べていた屈強な刑事は席を立った。扉が閉まるのを確認してから、鳴上は奥泉の方を向く。
「では教授、お願いします」
「は、はい」
おずおずと葛西の前で屈むと、奥泉はポケットから小さな鈴を取り出した。
「ぅ……ひ、ぐ……奥泉、先生?」
「そうです。大まかな事情は刑事さんから聞きました。あなたには催眠術をかけられた疑いがあります。それを今から解きますね。落ち着いて、この鈴を見てください」
「す、ず?」
チリン――と鈴の音が鳴る。
それに目を剥いた葛西は、顔を上げたまま固まった。
「ぁ、あ……あぁ! あああ! あいつが、あいつが悪い! 小野寺が、あたしに!」
「落ち着いてください葛西さん。何があったのですか」
「違う、違うの先生! あたし、本当は円谷を殺す気なんて。小野寺が、二人で部屋に居た時、あいつが、あたしに鈴を使って!」
「……それは、どういうことだい?」
探りを入れようとした奥泉の肩に、鳴上が手を置く。
「錯乱しているようです。一旦、俺達は外へ出ましょう。渡辺! さっきの刑事を呼んでこい」
入れ替わりで部屋を出る。心なしか、奥泉は先程までより冷静でいるようだ。
鳴上は目を閉じ、ふっと息を吐いた。あとは掴んだ糸を離さず、登っていくだけ。
「上手く催眠が解けたようですね」
「え、ええ、驚きましたが……一安心です」
「それじゃあ、そろそろ自白してもらおうか、奥泉教授」
「は?」
奥泉と渡辺から、間の抜けた声がした。
「あんたが小野寺にかけた催眠術のことだ。概ね内容は分かってはいるがな。おそらく『殺したい相手が居るなら何かの拍子に手を出すこと。事件に発展したなら黙秘で。そうでなければ別の人間に同じ催眠術をかけて、それを忘れる』と。そして、あんた自身にも『催眠術をかけたことを忘れる』ように、暗示を施した」
「ひ、飛躍しすぎだ! どこに、そんな証拠が」
「葛西の私物だ。催眠術で使う道具があるだろうよ。付くはずのない、あんたの指紋入りでな。念入りに調べさせてもらうぞ」
「……っ」
「ここで自白する気が無いなら署で聞こう。お得意の精神鑑定で嘘が貫けるか、試してみるんだな」
低く唸った奥泉は、何故か天井を仰ぎ見て笑いだした。
「は、はは、馬鹿な。仮に私の指紋が見付かったとして、それが何だと言うのだ。私に殺意は無い。ただ学術的に試してみたかっただけだ。催眠術は意に反してはかからない。つまり殺したのは葛西自身で――」
「それを教唆 したのは、お前だ。連れて行け」
捕まった三人はパトカーに乗せられ、鳴上と渡辺の前から去った。
「操られた実行犯に、無意識な殺人幇助 、殺意の無い黒幕。これから、どうなるんですかね……鳴上さん」
「さあな、小難しい裁判でもするんだろうよ」
鳴上は曇った夜空を見上げながら、ゆっくりとタバコに火をつけた。吹かした煙は闇の中へと消えていく。
「俺だったら、裁くべきは背を押す者だと思うがな」
付近には数台のパトカーと救急車が止まり、夜中で目立つパトライトに、何事かと通行人の目を引いている。
それは、紛うことなき殺人事件であった。
急行したベテラン刑事の
「殺害されたのは東才大学四年、
「なんだ、ホシが分かってるならスピード解決ですね、鳴上さん」
渡辺の軽口に、スキンヘッドで強面の鳴上はゲンコツをくれてやる。くせ毛な頭を抱え、渡辺は涙目を返した。
「何するんすか!」
「話は最後まで聞け。それと現場で業界用語なんざ使うんじゃない。捜査に支障が出るだろうが」
「……すみません。でも口より先に手が出なくったって」
「なんだぁ?」
「なんでもないです、はい!」
調子のいい渡辺に
「警部補が懸念されている通り、
「黙秘か」
「いえ、それが喋ろうとはするのですが、思ったように声が出せない感じでして」
「声が……出せない?」
鳴上は眉間のシワを深くして、スキンヘッドに手をやった。
それに
「間近で殺人が起きて、気が動転しているとか」
「いえ、身元などは喋るのですが、これが事件の内容になるとサッパリで」
「……通報は、どこからだ」
「ホテルの従業員からです、警部補」
「徹底してるな。さっさと署へ連行しないのは、そういうわけか」
鳴上は掌をパチンと頭に打ち付けた。渡辺には見慣れたものだが、他の刑事は場違いな笑いを堪えるのに必死だ。
「何か分かったんですか、鳴上さん」
「犯人と目撃者に話を訊く。付いて来い」
「え、遺体は見ないんですか?」
「物的証拠は指紋採取だけで片がつく。大事なのは、真犯人と動機だ」
そうして鳴上と渡辺はホテルのロビーを後にした。同僚の話では、犯人と目撃者は各々別室で取り調べを受けているらしい。
部屋番を聞いて鳴上達が向かったのは、目撃者のところだった。
ドアを開けると、スーツ姿の女刑事が見えた。
「あ、鳴上警部補。お疲れ様です」
「ご苦労さん。聞いたことを教えてくれ」
ぬっと現れた巨体のスキンヘッドを前にして、ベッドに座っていた小野坂に緊張が走った。泣き腫らした顔は青ざめ、サイドテールが僅かに震えている。
「こちらの小野坂さんですが、殺された円谷さんの恋人だそうです。葛西さんを含めた三人で、卒業旅行中だったとの証言がありました。今日は都内を回って、明日から飛行機で遠出の予定だったようです。事件が起きた際、小野坂さんは葛西さんの後ろに居ました。彼女が背中を押す瞬間が見えたと――」
「あれ、確か事件のことに関しちゃ、喋れないって言ってませんでしたっけ」
「焦るな渡辺」
「……すみません」
あなたも居たんですか、とでも言うように、女刑事が冷ややかな視線を渡辺に送る。
「事件のことに関しては、筆談であれば可能でした。こちらが聴取した覚書きです。いくつか私も試してみたのですが、本当に声が出せないようです」
女刑事から覚書きを受け取った鳴上は、坊主頭に手を置いた。
「なるほど、な。小野坂さん、事件のことについて、少し話してもらえますか」
「…………」
促された小野坂は口をパクパクとさせているだけで、やはり声は聞こえてこない。そのことに自覚があるのか、喉元に手を当てて不思議そうにしていた。
「結構です。分かりました」
鳴上は女刑事の肩を叩き、「引き続き頼む」と手狭な部屋を出た。
しばらく廊下で気難しそうに頭を撫でていると、今度はロビーで会った刑事が息を切らせながら現れた。
「警部補、よろしいですか。事件の関係者を名乗る人物が現れまして」
「誰だ?」
「なんでも東才大学の教授だそうです。ホテルの前で待たせていますが、どうされますか」
「決まってる。ここまで連れてこい」
返事をした刑事は階段を降りていった。覚書きにもあった通り、格安ホテルなだけにエレベーターの便が悪いらしい。三階から一階までなら、階段で降りるのと大差ないだろう。
「ちょっ、鳴上さん! いいんですか、無関係な人間を入れちゃっても」
「このタイミングに、わざわざ旅行先のホテルまで来た。それだけで理由としては十分だ。たとえ直接事件に関わっていなくてもな」
既に鳴上の脳内には、一つの仮説が浮かんでいた。それは見ることも難しい、天高いところにある細い糸。手繰り寄せるだけで切れてしまいそうな危うさ。
ふん、と鼻を鳴らして再び覚書きに目を通す。
殺された円谷、殺した葛西、目撃した小野坂。三人は共通の学科で知り合い、仲が良くなったのだと書いてある。円谷と小野坂は恋人同士、葛西と小野坂は親友、円谷と葛西は異性の友人関係。
エレベーターを待たずに三人で階段を降りていたところ、突如として葛西が円谷を押した。小野寺は悲鳴を上げ、騒ぎを聞きつけた従業員が警察に通報。
男女の
「お連れしました、警部補」
意識の底から顔を上げると、刑事に連れ立って初老の男が居た。チリチリの白髪に丸メガネ、痩せ細った体と、いかにも賢そうだ。
「東才大学で心理学の講師をしております、
「刑事一課の鳴上です」
「同じく渡辺です!」
「……それで奥泉さん、誰に呼ばれて来たのでしょうか」
「教え子の小野寺です。ラインで連絡がありまして。居ても立ってもいられず自宅を出ました」
「失礼ですが、それを見せていただいても?」
「もちろん構いません。こちらです」
通知のあった文面には、葛西が円谷を殺したこと、ホテルの名前と助けを乞う内容が書かれていた。
「お返しします。ですが奥泉教授、それだけで駆けつけるものでしょうか」
「当然ですよ! 彼女達は個人的にも教えたことのある熱心な生徒です。それに学校側としても、騒ぎが大きくなる前に手を尽くすべきだ」
「……ご自宅からホテルまでの距離は? ご自宅には奥泉教授の他に誰か居ましたか?」
「車を飛ばせば一時間もかかりません。連絡を受けた時は、家内と息子も傍におりました。そんなことより、彼女達は無事なんですか!」
鳴上の強面にも臆さない剣幕で、奥泉は声を張り上げた。アリバイがあり筋も通っている。演技だとは思えない。
「心理学にお詳しいとのことですが、実は困っていまして……」
鳴上は事件の詳細までは伝えず、二人の声が出せないことだけを語った。
奥泉は神妙な顔をしたものの、何かに思い当たったのか、うわ言のように口火を切った。
「私、何度か精神鑑定の経験がありまして……もしかしたら、お役に立てるかもしれません」
鳴上の目つきが鋭さを増す。まるで細い糸を凝視するかのように。
「と、言いますと?」
「彼女達が喋れないのは――催眠術の類ではないかと」
そして不確かに思えた糸は、鳴上が触れられるところまで降りてきた。
「詳しくお聞かせください、奥泉教授」
曰く、催眠術には段階があるという。
第一は互いの信頼関係。催眠はコミュニケーションの延長であるとして、相手に警戒心を持たれてはいけない。無防備にさせ、術中に陥れさす最も手近な方法は、信頼関係を築くことである。
第二に、相手の思い込みを利用すること。条件反射の紐付けとして理屈を伴わせる。これは相手の意志に逆らわない範囲で決められる。
第三として、それらは道具などで誰でも簡単に強められるそうだ。その逆も然り。
「おっかないっすね、マジで。やりたい放題じゃないですか」
「渡辺、いいから録音の準備でもしておけ。これから真相を明らかにする」
「今の、刑事というか探偵っぽい台詞ですよね――痛っ!?」
「無駄口を叩くからゲンコツが飛ぶんだ。集中しろ」
「……了解です。まずは目撃者からで?」
「いや、犯人からだ」
奥泉を含めた三人は、殺人犯である葛西の部屋を訪れた。
「違う、違う、違う……あたし、そんなつもりじゃなくて……違う、違うの」
まるで呪詛のように繰り返し聴こえてくる。喉は枯れ果て、消え入るような声が一室を満たしていた。
葛西はベッドの上で膝を抱えて座り、長い黒髪が掻きむしったかのように乱れている。
そんな怖気だつ光景に、奥泉は唾を飲んだ。
あとは変わると言われ、これ幸いと取り調べていた屈強な刑事は席を立った。扉が閉まるのを確認してから、鳴上は奥泉の方を向く。
「では教授、お願いします」
「は、はい」
おずおずと葛西の前で屈むと、奥泉はポケットから小さな鈴を取り出した。
「ぅ……ひ、ぐ……奥泉、先生?」
「そうです。大まかな事情は刑事さんから聞きました。あなたには催眠術をかけられた疑いがあります。それを今から解きますね。落ち着いて、この鈴を見てください」
「す、ず?」
チリン――と鈴の音が鳴る。
それに目を剥いた葛西は、顔を上げたまま固まった。
「ぁ、あ……あぁ! あああ! あいつが、あいつが悪い! 小野寺が、あたしに!」
「落ち着いてください葛西さん。何があったのですか」
「違う、違うの先生! あたし、本当は円谷を殺す気なんて。小野寺が、二人で部屋に居た時、あいつが、あたしに鈴を使って!」
「……それは、どういうことだい?」
探りを入れようとした奥泉の肩に、鳴上が手を置く。
「錯乱しているようです。一旦、俺達は外へ出ましょう。渡辺! さっきの刑事を呼んでこい」
入れ替わりで部屋を出る。心なしか、奥泉は先程までより冷静でいるようだ。
鳴上は目を閉じ、ふっと息を吐いた。あとは掴んだ糸を離さず、登っていくだけ。
「上手く催眠が解けたようですね」
「え、ええ、驚きましたが……一安心です」
「それじゃあ、そろそろ自白してもらおうか、奥泉教授」
「は?」
奥泉と渡辺から、間の抜けた声がした。
「あんたが小野寺にかけた催眠術のことだ。概ね内容は分かってはいるがな。おそらく『殺したい相手が居るなら何かの拍子に手を出すこと。事件に発展したなら黙秘で。そうでなければ別の人間に同じ催眠術をかけて、それを忘れる』と。そして、あんた自身にも『催眠術をかけたことを忘れる』ように、暗示を施した」
「ひ、飛躍しすぎだ! どこに、そんな証拠が」
「葛西の私物だ。催眠術で使う道具があるだろうよ。付くはずのない、あんたの指紋入りでな。念入りに調べさせてもらうぞ」
「……っ」
「ここで自白する気が無いなら署で聞こう。お得意の精神鑑定で嘘が貫けるか、試してみるんだな」
低く唸った奥泉は、何故か天井を仰ぎ見て笑いだした。
「は、はは、馬鹿な。仮に私の指紋が見付かったとして、それが何だと言うのだ。私に殺意は無い。ただ学術的に試してみたかっただけだ。催眠術は意に反してはかからない。つまり殺したのは葛西自身で――」
「それを
捕まった三人はパトカーに乗せられ、鳴上と渡辺の前から去った。
「操られた実行犯に、無意識な殺人
「さあな、小難しい裁判でもするんだろうよ」
鳴上は曇った夜空を見上げながら、ゆっくりとタバコに火をつけた。吹かした煙は闇の中へと消えていく。
「俺だったら、裁くべきは背を押す者だと思うがな」