『これは飲み物ではありません。』
文字数 2,151文字
カレーは飲み物だと豪語する人びとが世の中にはいる。
この場合のカレーとは『ルー』単体ではなく、だいたいにして『カレーライス』のことを指すので、つまり彼らのような人種にとっては、カレールーを注ぎさえすれば白いご飯ですら液体になるということだ。
こういうふうに、ある物体にある物体を――固体に液体を――かけ合わせることで、その性質がまったく変わってしまうということがある。いや、変わるのはあちらの性質ではなく、こちらの認識だろうか。
……まあ、どっちだっていい。
大事なのはその行為であり、結果だ。
たとえば、いま僕がそうしているように、友成 くんの死体に硫酸をくまなくぶちまけることで、僕の犯した罪がどろりと溶けてしまう、といったような。
けれどカレーライスのようには上手くいかない。友成くんは表面がすこし溶けるだけで、けっこうな割合の肉や骨が残っていた。
これにはまいった。
きっかけは本当にささいなことだった。喧嘩でもなければ、口論にすらなっていなかった。一方的だった。ボタンの掛け違いというか、価値観の違いというか、そういうやつだ。
ともかく、僕はやむを得ず友成くんを殺害したのだ。けっして彼が憎かったからではない。
そもそも言いがかりをつけてきたのは彼のほうからだった。なんでも彼の恋人である鈴屋 さんに、僕がひどいことをしたと言うのだ。
僕はクラスメイトになど興味がない。
塵芥のように思っている。
けれど鈴屋さんは、塵にしてはまずまずのスタイルをしていたので、きのう、部活の帰りを狙って彼女を押さえ込み、その肉を舐めたり、つねったり、噛んだりしただけだ。ただそれだけのことだ。
しかし鈴屋さんも友達甲斐がない。
せっかく彼女の姿を撮影して、二人だけの秘密だよと約束したのに、いくら恋人だからって、友成くんに密告するなんてルール違反にも程がある。
「でもまあ、まずまずの味だったよ」
という僕の言葉が、友成くんの中でなにか決定的な作用をもたらしたらしい。彼は獣のようなうなり声で僕につかみかかってきた。放課後の、僕ら二人だけの化学室で。
僕は自分の命を守った。危機管理意識の高い僕は、なるべく折りたたみナイフを携行するようにしていたので、今回はそれが功を奏した形だ。
ナイフは、僕の首を絞める友成くんの、その柔らかな腹部にずぶりと沈み込んでいった。
内臓は固体の中でも特に液体に近い部類に入るのではないだろうか。猿みたいな悲鳴をあげる口を押さえ、友成くんをかき混ぜながら、僕はそんなことを思ったものだった。
さすがにこのままではまずいと考え至った僕は、化学室の床で動かなくなった友成くんを引きずって奥の化学準備室へと移動した。
掃除当番という立場を利用してあらかじめ盗んでおいた鍵を使って、薬品棚のガラス戸を開き、ずしりと重い硫酸の瓶を手に取り、友成くんに振りかけてみた――そんな、午後五時の夕暮れだった。
罪を認めるのは癪 だった。罰を受けるのなんてまっぴら御免だ。
棚にはまだ様々な瓶が並んでいる。どれを使えば効果的に友成くんを消滅させられるだろうか……ううん、授業は真面目に受けておくべきだった。落書きなんてせず、きちんと教科書を見ておけばよかったんだ。これこそ、後悔は先に立たないというやつだ。
ややあって、化学室のほうが騒がしくなった。床に残る血痕に誰かが気づいたのだろう。悲鳴があがる。足音が増える。準備室のドアが何度も叩かれる。どうしようか。皆殺しにしようか。
……いや、僕は馬鹿か。
そんな便利な凶器がどこにあるっていうんだ。
向こうでは、誰かが準備室の鍵を取りに行ったらしい。そのあいだに、何人かがベランダに回り込んだ。すりガラスの窓をばんばんと殴りつけている。うるさいからぶっ殺してやりたくなった。
僕は友成くんを見下ろした。
「きみのせいだよ、わかってるの?」
彼はなにも言わない。その、どろどろになったほっぺたを上履きで踏んでみた。ずるりと滑る。気持ちが悪い。いろいろと飛び出している腹部を力いっぱいに蹴飛ばすと、ぐちゃっと汚い音がした。
……こんなことをしている場合じゃない。
タイムリミットが迫っている。外の連中は、ようやく窓ガラスを叩き割るという手段を考えついたらしい。ぼんやりとしたシルエットが、椅子らしきものを振りかぶっている。もう本当に時間がない。
さすがにこの状況を見られたうえで、「いいえ、僕ではありません」と言い切れるほど、僕は恥知らずな人間ではない。
……いいことを思いついた。なんだ、簡単じゃないか。
僕は棚のガラス瓶を三本、適当に見繕って机の上でふたを開けた。大きめのビーカーにそれらを注いで、ひと息でそのビーカーを飲み干した。
さて、窓のほうからは、がしゃんという破滅的な音が響いたところだ。
踏み込んでくる彼らは、僕と友成くんを見てどう思うだろうか。表面がどろりと溶けた友成くんと、中身の溶けたこの僕と。
いったい、彼らの目には、どちらがより人間らしく映るだろうか。
(終)
この場合のカレーとは『ルー』単体ではなく、だいたいにして『カレーライス』のことを指すので、つまり彼らのような人種にとっては、カレールーを注ぎさえすれば白いご飯ですら液体になるということだ。
こういうふうに、ある物体にある物体を――固体に液体を――かけ合わせることで、その性質がまったく変わってしまうということがある。いや、変わるのはあちらの性質ではなく、こちらの認識だろうか。
……まあ、どっちだっていい。
大事なのはその行為であり、結果だ。
たとえば、いま僕がそうしているように、
けれどカレーライスのようには上手くいかない。友成くんは表面がすこし溶けるだけで、けっこうな割合の肉や骨が残っていた。
これにはまいった。
きっかけは本当にささいなことだった。喧嘩でもなければ、口論にすらなっていなかった。一方的だった。ボタンの掛け違いというか、価値観の違いというか、そういうやつだ。
ともかく、僕はやむを得ず友成くんを殺害したのだ。けっして彼が憎かったからではない。
そもそも言いがかりをつけてきたのは彼のほうからだった。なんでも彼の恋人である
僕はクラスメイトになど興味がない。
塵芥のように思っている。
けれど鈴屋さんは、塵にしてはまずまずのスタイルをしていたので、きのう、部活の帰りを狙って彼女を押さえ込み、その肉を舐めたり、つねったり、噛んだりしただけだ。ただそれだけのことだ。
しかし鈴屋さんも友達甲斐がない。
せっかく彼女の姿を撮影して、二人だけの秘密だよと約束したのに、いくら恋人だからって、友成くんに密告するなんてルール違反にも程がある。
「でもまあ、まずまずの味だったよ」
という僕の言葉が、友成くんの中でなにか決定的な作用をもたらしたらしい。彼は獣のようなうなり声で僕につかみかかってきた。放課後の、僕ら二人だけの化学室で。
僕は自分の命を守った。危機管理意識の高い僕は、なるべく折りたたみナイフを携行するようにしていたので、今回はそれが功を奏した形だ。
ナイフは、僕の首を絞める友成くんの、その柔らかな腹部にずぶりと沈み込んでいった。
内臓は固体の中でも特に液体に近い部類に入るのではないだろうか。猿みたいな悲鳴をあげる口を押さえ、友成くんをかき混ぜながら、僕はそんなことを思ったものだった。
さすがにこのままではまずいと考え至った僕は、化学室の床で動かなくなった友成くんを引きずって奥の化学準備室へと移動した。
掃除当番という立場を利用してあらかじめ盗んでおいた鍵を使って、薬品棚のガラス戸を開き、ずしりと重い硫酸の瓶を手に取り、友成くんに振りかけてみた――そんな、午後五時の夕暮れだった。
罪を認めるのは
棚にはまだ様々な瓶が並んでいる。どれを使えば効果的に友成くんを消滅させられるだろうか……ううん、授業は真面目に受けておくべきだった。落書きなんてせず、きちんと教科書を見ておけばよかったんだ。これこそ、後悔は先に立たないというやつだ。
ややあって、化学室のほうが騒がしくなった。床に残る血痕に誰かが気づいたのだろう。悲鳴があがる。足音が増える。準備室のドアが何度も叩かれる。どうしようか。皆殺しにしようか。
……いや、僕は馬鹿か。
そんな便利な凶器がどこにあるっていうんだ。
向こうでは、誰かが準備室の鍵を取りに行ったらしい。そのあいだに、何人かがベランダに回り込んだ。すりガラスの窓をばんばんと殴りつけている。うるさいからぶっ殺してやりたくなった。
僕は友成くんを見下ろした。
「きみのせいだよ、わかってるの?」
彼はなにも言わない。その、どろどろになったほっぺたを上履きで踏んでみた。ずるりと滑る。気持ちが悪い。いろいろと飛び出している腹部を力いっぱいに蹴飛ばすと、ぐちゃっと汚い音がした。
……こんなことをしている場合じゃない。
タイムリミットが迫っている。外の連中は、ようやく窓ガラスを叩き割るという手段を考えついたらしい。ぼんやりとしたシルエットが、椅子らしきものを振りかぶっている。もう本当に時間がない。
さすがにこの状況を見られたうえで、「いいえ、僕ではありません」と言い切れるほど、僕は恥知らずな人間ではない。
……いいことを思いついた。なんだ、簡単じゃないか。
僕は棚のガラス瓶を三本、適当に見繕って机の上でふたを開けた。大きめのビーカーにそれらを注いで、ひと息でそのビーカーを飲み干した。
さて、窓のほうからは、がしゃんという破滅的な音が響いたところだ。
踏み込んでくる彼らは、僕と友成くんを見てどう思うだろうか。表面がどろりと溶けた友成くんと、中身の溶けたこの僕と。
いったい、彼らの目には、どちらがより人間らしく映るだろうか。
(終)