54 料亭の亭主①
文字数 1,049文字
……あっ、切っちゃった!いったぁ~。
急いでいたせいか、亭主が料理人のほうに振り返った時、持っていた包丁の刃が野菜を持つ手の甲に思いっきり切り込んでしまった。
だが、亭主は気づいていない様子で、料理人の言葉をうん、うん、と聞いている。
……あっ、あれ?
亭主のその切れた手の甲から、血がでない。
そして、傷口はすぅっと、まるでさっきまでの光景を逆再生するかのように、傷口が閉じられていき、皮膚と皮膚が繋がった。
……あっ……あっ……。
「んっ?」
不意にマナトに気づいた亭主が、厨房から出て来た。
「おやおや、どうしました〜?」
顔は常にニコニコしていて、いかにも愛想のよい風貌をしている。
「い、いや、さっきのカメ肉がおいしかったので、お、おかわりあるかな〜って思いまして……」
何を言ったらいいか分からず、マナトは適当に笑いながら言った。
すると、亭主が無言でマナトの顔を見つめた。
口は笑顔になっているが、丸いメガネの奥の目が、決して笑っていないという事が、ここにきてマナトは気づいた。
目は口ほどにものを語る、とは世間でよく言われたものだが、亭主のその目は、相手の表情を観察するとか、そういったものとは、どこか、違う気がした。
自分を見ているようで、見ていないような。見ているとすれば、マナトの心の、奥の奥のほうまで見ようとしているような。
そして、何か見えない手で肩をつかまれているようで、マナトは動くことができなかった。
「ん〜、さっき料理人に、カメ肉はなくなったって、各テーブルに回ってもらったハズなんだけどな〜?」
亭主がつぶやいた。
「い、いや、あの、その……」
「あっ、彼は……」
先にトイレを教えてくれた料理人が、厨房から出てきた。
「さっきトイレに行っていたので、知らなかったのですよ」
料理人が亭主に言った。
「そっかぁ〜!お兄さん、ごめんね〜!カメ肉はもう、なくなってしまったんだよ〜!」
亭主は申し訳ないといった様子で、マナトに謝った。
「あっ!ぜ、ぜんぜん!全然、大丈夫ですよ!」
「何か代わりのものを用意するから、許してね〜!」
亭主は厨房に戻った。
「……ふぅぅ〜」
マナトは虎口を脱したかのような心地で、もといた席に戻った。
「あっ、おかえりなさい」
マナトが座ると、隣に座っているルナが声をかけた。
「あぁ、どうも」
……どうしよう、みんなに、今のことを、言うべきか……。
「見てください、向かいの……」
「えっ?」
ルナが小さい声で言った。