第1話:12分43秒の悲劇

文字数 1,878文字

「まぁ、お互い頑張ろう。じゃあ」

彼の声はいつもより妙に穏やかで優しかったような気がする。

誰も泣かず、多分声も震えず、汗もかかず、業務連絡のようにするりと切れた電話。

これできっぱりと終わったのだ。

私には微かな安心感さえあった。これで彼の返信を祈るような気持ちで待つことも、週末会うのか会わないのかで喧嘩になることも、将来の家庭を憂うことも、住む場所や仕事やお金の使い方や全てに於いて我慢する必要も無くなったのだ。

そう、この瞬間、
「コロナで仕事を失ったので、もう君とは結婚できない」
と振られた今……私は自由!!!

それなのに、大空を飛ぶどころかドブ川に放り込まれたように、遅れて理解した頭がぐらぐらする。

それでもぼーっとした頭で、生活費など当面私が頑張るし、再就職を応援すると明るく伝えた。
しかしそんなのは意味をなさなかったようで、「気持ちが落ち込んでるからやけになってるんじゃない?」「ゆっくり休んでからまた会ったときに話すでもいいよ?」などという私の言葉は、決められたフレーズしか返せないAIボットのように「無理、できない」と弾かれただけだった。

自分の地元に戻りたいという彼のために転職して縁もゆかりもない名古屋に来てしまっていても、その上彼より稼ぐくらいに頑張っても(あなたに頼り切る気ではないという意思表示)、両親への顔合わせやもろもろ済んで友達にも婚約報告済みだったとしても、関係ない。

「もう結婚できない」

とても慎重で真面目で誠実で……そういうちゃらんぽらんな私や私の生家にはないしっかりと地に足のついた生き方や考え方を尊敬していたけれど、悪く言えば頑固で融通が効かないところのある彼が一度そう言ったということは、もう覆らないと3年以上付き合った彼女()はどうしようもなく理解していた。

現に転職活動を始めたときも、面接に受かって職場に転職を告げる時も、引っ越しの準備をしているときも、何度だって彼に「本当にいいの?」と聞いたし、「私と結婚するイメージが全くないならそう言って」「女の子として見れないなら別れよう」と確認した。その度に優しげな細い目を更に困った風にさらに細めつつ、「そんなことはない」と曖昧に断らず騙し騙し来た彼が、遂に言い切ったのだ。

そういうふにゃふにゃしたところもかわいいと思っていたけど、こうなると残酷に思える。せめて仕事を辞める前に、いや、百歩譲って引っ越す前に言ってくれよ……!!!!

こう考えると、全く真面目でも誠実でもないな、ただ臆病なだけじゃんか、と悪態もつきたくなってくるというものだ。

イライラとお湯が沸くのを待ちながら3歩程しか歩けないワンルームを行きつ戻りつしながら最近の私たちを反芻する。

思えばこの半年、会っても彼は仕事に疲れ果ててすぐに寝てしまい当然体の関係はなく、やる気のない彼に代わってほぼ私一人で物件や家具を手配した愛の巣(笑)にはここ数ヶ月帰らずに、犬が心配だとか荷物が届くとか言って実家に入り浸っていた彼。

コロナで緊急事態宣言が出たことで、実家には祖母がいるから電車で数十分の距離がある家に来るのは危険と会ってもいなかった。(彼の職場から家まで電車で2駅なのだが)

知ってたし、気付いてた。
でも彼の口から聞くまでは、疑うのは正義に反すると自分を諭してた。健気だな、私。

でもそれも終わった。こんなに呆気なく。

ハッとして、手にしていた画面を見る。

ーー12分43秒


たった10分ちょっと。
私たちの3年と5ヶ月と28日は、悩み抜いた数ヶ月は、1本動画を見るくらいの隙間時間でさらさらと音もなく崩れ去った。

そして、1年と6ヶ月と4日……私が勝手に前々から決めていた結婚リミットまで、確実に時間が削られたことに打ちのめされる。

やばい、時間がない!!!
彼との思い出とか、そんなことよりも時間が真っ先に浮かぶ自分がちょっと笑えた。

そうだ、私には時間がない。
早く次を見つけなくちゃ。
なんだか案外平気に思える。

だけどきっと1週間後には、一生結婚なんかできないし、彼よりいい人なんていない私は駄目な奴なんだと大泣きするだろうなとも思う。

悲しい、辛い、寂しい。
そしてロクデモナイオトコに遊ばれて惨めになってまた悲しくて辛くて寂しくなるに決まってる。

全く叶えたくない未来予想図を描きながら、眠気に勝てず沸かしたお湯はそのまま放置することにした。今日はソファでそのまま寝てやる。二人で買ったダブルベッドを使うのは流石に惨めだ。薄情な"元"彼への、ささやかな抗議……何の意味もない、虚しい、私が悲劇のヒロインになるためだけの悲しい抵抗である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

私……主人公。アラサー。結婚できると思っていた彼に振られて奮起。婚活に全てを捧げる決意をする。

元彼……"私"と婚約していたが土壇場で破棄。真面目で誠実だが頑固で小心者の面を持つ。実家大好き。

ユウカ……友達。某最大手マッチングアプリでかつて2000いいね!を獲得した猛者。頼れる相談相手。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み