1:階段の上から運命

文字数 4,486文字


 その時咄嗟に手を伸ばしたのは、たぶんクラスメートである入沢砂月(いりさわさつき)を助ける為じゃなかったと思う。

 階下に吸い込まれるように落ちていく入沢砂月の姿が、あの日の光景と重なって見えた気がして…だから思わずその後ろ姿を目が追って、無意識の内に手を伸ばして。

 そして僕は時を止めた。

 すべての音がなくなり、無意識に刻まれるカウントダウン。時計の秒針の音のようであり、誰かの声のようにも聞こえる。それは僕だけに、確かにはっきりと刻まれている。

――6

 伸ばした手は入沢砂月には届かず空振った。無理な体勢で勢いだけつけていたものだから、そのまま僕の身体だけが重力のままに階下へと投げ出される。

――5

 無我夢中で伸ばした手に運良く階段の手すりがひっかかりなんとか頭からの落下は免れたものの、バランスは維持できず結局踊り場までもつれるように転がった。静寂の中、僕の体が叩き付けられる音だけが響いた。

――4

 がばりと顔を上げるとすぐ傍には見知らぬ生徒。昼休みのこの時間はどこもかしこも生徒達で溢れている。

 僅かに痛む体を抑えて起き上がると、階段の上には入沢砂月の姿が宙に浮いていた。その両足は地面を離れ、傾いた体はそのまま階下へ落ちるだけだ。そうならないのは〝ここ″が、誰も微動だにしない時間の止まった世界だから。

 僕以外は。

――3

 時は止めたのに進んでいる。僕の時間だけ。6秒間だけ。

――2

 階段を駆け上がり、手を伸ばす。
 せめて、そう、せめて。受け止めることができればきっと。

――1

 世界は変わるはずだ。少なくともさっきまでの、6秒前の世界とは。


「――……!」
「……痛ってぇ……っ」
「……!」

 視界が激しく揺れ、鈍い衝撃と共に鼻先で火花が弾け散る。入沢砂月の背中が落ちてくる残像。赤い花がパッと散り、その向こうで人影が揺らいでいた。なんだか現実離れした錯覚だ。
 耳に戻ってくる世界の音。喧噪、雑音、それから小さな悲鳴。雑多な衝撃に鼓膜が震えて、そして僕はこのみんなと共に時間が進む世界へと帰ってきた。小さな温もりと一緒に。
 おそるおそる目を開けると、腕の中には入沢砂月が居た。事態を呑み込めていない彼女は呆けた顔して僕を見上げている。

 良かった。とりあえず、無事だった。

「……ふ、っざけんなよお前ら……!」

 おそろしいくらいに怒気を孕んだ声が聞こえてきたのは、不思議なことに自分の背中からだった。そういえば覚悟していた痛みはほとんど無い。

「あれ……?」

 そろりと振り返るとそこには男子生徒。この顔は知っている。確か隣りのクラスの藤島逸可(ふじしまいつか)だ。体育が合同クラスだしその風貌でもちょっとした有名人だった。話したことは無いけれど。

「いいからどけ!」
「うわ、ごめん」

 慌てて起き上がり藤島の上から退く。
 どうやら僕は助けようとした入沢砂月ごと、藤島の胸に盛大に飛び込んでしまったらしい。落下地点に人が居たなんて、そこまで周りに気を配っている余裕はなかった。
 結果、入沢砂月と僕は藤島に助けられたことになる。本人は甚だ不本意だろうけれど。

「……えっと、入沢、大丈夫……? その、階段から落ちそうになってて……」

 結局落ちてしまったのだけれど。しかも勝手に巻き添えにした藤島の上に。
 なので助けようとしましたなんてセリフはとてもじゃないけど言えないので口には出さないでおいた。

「……あ、んた……」

 入沢砂月は大きな目を更に大きくしたまま、僕の顔を凝視している。同じクラスの彼女の顔をきちんと見たのはこれが初めてだった。教室内でもほとんど話したことはないし、彼女の声を聞いた記憶もおぼろげなほど、僕らはただの〝クラスメイト″だった。
 特に外傷は無さそうなことを確認して、そっと離れる。それから同じように体を押えながら唸る声の方へと振り返った。

「えーと、藤島だよな、ごめん巻き込んで」

 背中を抑えながら立ち上がる藤島に声をかけるも、藤島は心から不愉快そうに眉根を寄せたまま。それから辺りに視線を彷徨わせる。何かを探している素振りだった。
 脇を行く何人かの生徒や知り合い達が心配そうに向ける視線に、僕は笑って応えて立ち上がる。ひやりとする一幕ではあったとはいえ、大騒動には至らず辺りはいつもの昼休みに戻っていた。

「……おい」

 藤島がぶっきらぼうに声をかける。僕ではなく入沢砂月の方に。

「おまえの足元の、ソレ。俺の」

 視線を向けると、まだ座り込む入沢砂月の足元にメガネが転がっていた。そういえば藤島はメガネをかけていたっけ。体育の授業中も。ぱっと見た様子だと割れてはいないようでほっとした。

「……あ」

 入沢砂月も藤島の意図に気付いたようで、そのメガネを手にしたその瞬間。

「……!」

 一度手にとったメガネが、入沢砂月の手から弾けるように零れて踊り場に再び転がった。落ちた、というよりは、咄嗟に落としたとように見えた。カシャンと冷たい音が鳴る。

「……っ、なにしてんだよお前……!」
「……入沢?」

 静電気だろうか。それとも上手く力が入らず落としてしまったのだろうか。
 入沢砂月の視線はメガネでも僕でも無く、藤島へと向けられていた。その顔は戸惑いと驚愕と恐怖とを混ぜたような複雑な色。少なくとも僕にはそう見えた。
 そっと入沢砂月の前に屈み代わりにメガネを拾い、顔を覗き込む。もしかしてどこか怪我でもしていたのだろうか。しっかり抱き留めていたつもりだったけれど。
 しかし次に入沢砂月の口から零れた言葉に、僕も、そして藤島も。自分の耳を疑うことになる。

「あんた、は……未来が、視えるの……?」

 〝あんたは〟? 
 〝未来が〟? 
 〝視える〟?

 あまりにも突飛なその言葉はなかなか解読に至らない。
 それから入沢砂月の目が今度は目の前の僕に向けられた。
 僕は思わずぎくりとする。入沢砂月の目は透き通るように透明で、そしておそろしいくらいに綺麗だった。

「あんたは、さっき……時間を、止めた」

 いつもの昼休み、一番騒がしい時間帯。喧噪が遠ざかる、時間を止めたわけでもないのに。
 止まったのは僕の心臓だ。そしてそれは瞬時に加速してゆく。
 時間を、止めた。その通りだ。でも問題なのはそこじゃない。あまりの急展開になかなか脳が追い付かない。
 だってソレを知っているのは、世界中で僕だけだったはずだ。

「……は、ってことはお前は」

 口を開いたのは、すぐ後ろに居た藤島だった。
 皮肉交じりの冷笑。このふたりに接点など無いはずなのに、藤島が入沢砂月に向けたのは僕にも分かるほどの敵意だった。

「過去を、視たな?」

 チャイムが響いた。昼休みが終わる。
 世界は変わったのだろうか。

「まぁいいや想定内だ、驚きはしない。自分もこーゆー能力を持ってんだ、別の人間が似たような能力を持ってたって不思議じゃない。こんな近くにふたりも居たのは想定外だったけど」

 ひとり納得したように藤島は僕の手からメガネを奪うと、それを慣れた手つきでかけ直す。始業前の喧噪が少しずつひいて、人気も無くなっていく冷たい踊り場。教室内での机や椅子を鳴らす音が遠くに聞こえた。

「え、ちょっと待って、ついていけてないんだけど話に」
「ソイツが言った通りだろ?」
「え……」

 階段を数歩上った先、まさに上からの目線で藤島が顎で入沢砂月を指す。話したことが無いから知らなかったけど、失礼な奴だなと思った。だけど見下ろすその顔はこわいくらいに綺麗だ。

「ソイツは過去が視える。俺は未来が視える。そしてお前は……」

 その目を今度は僕に向ける。レンズ越し、長めの前髪の隙間から覗く目。ひどく冷たい目だった。

「時を止めた」

 それは僕が2年前に手に入れた秘密。誰にも言わず、言えず、隠してきた。

 そろりと視線を入沢砂月に向ける。入沢砂月は未だ座り込んだまま、その目はじっと床を見つめていた。
 過去が、視える? 本当に?
 だけど事実なのだろう。僕以外は知らないその秘密を、〝視た〟のだとすれば。

「お前の能力には少し興味あるけど、関わる気は無い。お前らもそうだろ? 不可侵だ。それぞれのヒミツはそれぞれのヒミツを以て守る。バレて厄介なのはお互い様だろ。ハイ以上。解散!」

 まくしたてるように言った藤島が、パン! と軽快に両手を鳴らしこれで終わりとでも言うように僕たちに背を向けた。本当にこの瞬間が想定内だったように、まるで用意してあった段取りで。

「……正論だわ」

 静かに同意したのは入沢砂月で、漸く立ち上がりスカートの埃を軽く払う。それから長い黒髪を翻し、彼女も階段へと向かい僕に背を向けた。こちらも慣れたように無関心を視に纏って。

「ま……っ!」

 僕は咄嗟に、手を伸ばしていた。
 指先に入沢砂月の手首が触れた瞬間、ピリリと静電気のようなものが走った錯覚。振り返る入沢砂月の驚きに見開かれた目に自分が映る。
 このまま戻れるわけない。何もなかった日常に…何も知らなかった、出来なかった日々に。

「……っ触らないで……!」

 入沢砂月の叫んだ声がまるで悲鳴のように階段に響いた。
 もう僕達以外に教室の外に居る者はいない。ひとり先に階段を上った踊り場に居た藤島の背中も、その声に思わずといった様子で振り返る。
 容赦なく払われた手の指先が、僅かに熱を孕んでいる気がした。空気越しに伝わる敵意。女の子に敵意を向けられたのは初めてだ。
 でも、怯まない。

「放課後、史学準備室。来なければヒミツをバラす。藤島、きみも」

 階段に片足をかけたままこちらを見下ろす藤島の、綺麗な顔が僅かに歪む。
 そのメガネのレンズの向こうではおそらくあの敵意が今度は僕を見据えているのだろう。

「その様子だと、一番バレたくないのは藤島みたいだね」
「……」
「困らないならそれでいいよ。本当に困らないかは試してみれば分かることだし」
「……いー度胸だ」

 藤島が、笑う。随分不愉快そうだ。目の前の入沢砂月もまた然り。
 ふたりの関心を得たことだけを確かめて、努めて僕は軽やかに笑った。

「行こう、授業が始まる。また放課後に」

 視線を合わせずふたりの間を抜けて階段を上がり教室へ向かう。強がりを気取られないよう、口元には笑みを浮かべたまま。
 僕が教室の席について数秒後に、入沢砂月も教室に戻って来て席についた。それを視界の隅で確認する。藤島もちゃんと教室に戻っただろうか。
 その僅か数秒後に教師が来て午後の授業が始まった。

 ああ、痛い、心臓の鼓動。
 とてもじゃないけど授業になんて集中できない。
 僕はかたく目を瞑って、胸の内で静かに6秒数えてみた。

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