存在への自尊心④

文字数 3,681文字

 休日は嫌いだ。一人暮らしのこの部屋に居ると、自分が本当にこの世界を生きているのか、自問してしまうから。学校に行っている間は、例えどんな形であれ己の存在を自覚できるから。
 一体いつから、俺は存在への確証を病的に欲するようになったのだったか。記憶は朧げで思い出せやしないけど、ろくな理由ではないだろう。
 本日は真夏日。布団に寝転がってじっとしていると、自分がどんどん溶けていって消えてしまうんじゃないかという錯覚が襲ってくる。酷く恐ろしい、夏の幻。
 それでも、この身はあまりに無気力に過ぎた。普段なら取り憑かれたように机に向かっているというのに、今は枕元の教科書すら読む気にはなれなかった。
――どうせ幾ら努力したって、結局アイツと並んでしまうのなら。勉強など、価値がない。
 結局は存在を誇示する為のツール故に、使い道がなくなったのなら捨てるだけだ。
 僅かな焦燥が心中で燻っては消えて、うだうだと寝返りを繰り返して。やっと体を起こして無理矢理に外出した頃には、お天道様が真上から存在を主張してきていた。禿げる。
 ブリーチや染髪をすると髪が傷んで禿げやすくなるというが――

「地毛だっつの」

 一人虚しく呟いても、返ってくるのは自分の足音だけ。コンクリの上には痕跡すら残せやしない。
 何の宛もなく歩く。何も考えず考えられずに時が過ぎて、気が付けば双ツ河の校門の前に立っていた。自分は相当に"勉強の出来るヤンキー"という立ち位置に依存していたらしい。
 休日でも、部活動の為に学び舎の門は解放されている。文化系部の活動場所にもなっている図書室も例外ではなく、生徒であれば自由に出入りが出来た。
 思えば彩衣に明確な敵意を抱いたのは図書室だった。俺よりも早く図書室で勉強していたその姿に、自分のアイデンティティを奪われた気がしたのだ。
 だが、彼女もそうなのだろうか。見た目だけで言えば美少女であり文武両道である完璧超人"彩衣詠華"がその時はただのヤンキーに見えていただろう"空鴉庵"を敵対視する理由などあるのだろうか。
 彼女の視点で言えば"静かな図書室をヤンキーが汚した"といったところだろうが――あの反応は過剰だ。
『カラスだけは許せない』とわざわざ必要のない自己紹介をしたり、偶然とは思えなかった。
 
「――カラス〜!」
「……ああ? ああ、宇賀野か」

 背後から掛けられた声に思考は霧散する。タッタッタッと忙しないリズムを刻んで宇賀野が駆け寄ってきた。休日の為、Tシャツとジーンズ腰にパーカーを巻きつけたラフな格好だ。見慣れたブレザーとは違い、程よく焼けた腕の肌色が眩しい。
 
「珍しいな、図書室に用があるのか?」
「んー、折角5位にしてもらったからさ、すこーしだけ復習しようかなって。ほら、家は熱いしムレムレになっちゃうからねぇ。こんな薄Tなんかムレムレでスケスケよ?」
「そんな情報は要らん」
「ちょっとヤンキーならもっと興味持ってよー、ほらほら生肌見せてんだぞー?」

 彼女が人差し指で少しサイズの大きめなTシャツの首元を引っ張れば、黒のキャミソールと共に健康的な鎖骨のラインが姿を覗かせて、目を逸らさざるを得なかった。

「ふふん、純情ヤンキーめ! ほんっとう見掛け倒しだねぇ」
「……からかうんじゃねえよ、ほっとけ」
「その見た目なら女性経験なんてありそうなもんだけど、案外……というか、ドーテー?」
「彼女すら居たことねぇっての、満足か、ああ?」
「マジでっ!?」

 そも高校生の時点で彼女など、自我がやっと芽生え始めてきた頃くらいだというのに早すぎるのだ。青春を否定する訳では無いしそういった文学も嗜むが、自分が誰かに恋をしている姿がイマイチ想像出来なかった。
 
「ほーへー……こりゃあ良いネタじゃあ、これだけでここに来た価値があったね」
「ったく、勉強しに来たんだろ……ほら行くぞ」
「なぁに、まだ見てくれるのん? やっぱ面倒見いーよねぇ」
「……そんなんじゃ、ねぇよ」

 そんな綺麗なものでは無い。存在を忘れられない為、それだけの為の行動なのだから。
 一瞬、目を閉じた――瞬き程度、たったその間に、目を開ければ宇賀野の瞳が眼前にあった。小柄な彼女は、近づけば必然俺を見上げる形となる。

「うおっ」
「ねぇ……私が、彼女になってあげよっか?」
「……あ?」

 それは完全な不意打ち。なんの脈絡も無い、理解不能の一言。
 宇賀野鹿乃という女の子は突然に何かを言い出しては、それに他人を易々と巻き込んで行くつむじ風だ。俺に勉強の師を乞うたように。
 その行動はいつも予測不能だったが、今までのどんな言葉より理解のできない一言だった。
 大きな二つの瞳が俺を捉えて離さない。鼓動がどうしようもなく加速して、脳髄が熱を帯びる。
――故に。普段は隠している筈の"己"が目覚めてしまった。

「――どうしてだ? 何故、俺なんだ?」
「や、ほらさ。空鴉って意外と優しいし、勉強も見てくれたし」

 違う。優しさなんて、持っちゃいない。

「こんなふらーふらーな私でもさ、何だかんだいつも付き合ってくれてた訳ですし」

 違う。宇賀野が付き合わせてくれていただけだ。
 
「それに何だかんだカッケーから……って何言わせてんだよーもーっ!」
「……カッコイイわけ、あるかよ」
「いや、カラスさんは知らないだろうけど意外と女子から――」
「――俺はそんなんじゃねぇッ!」

 爆ぜた。俺の根幹に渦巻いている酷く醜い何かが。

「……空鴉?」
「勉強を教えたのも、宇賀野に付き合っていたのも……全部自分自身の安寧の為だ。怖いんだよ、俺は……この存在が、誰にも認識されなくなるのがッ――!」

 主張し続けていないと忘れ去られてしまうから。金髪を逆立てているのも、学ランを時代遅れに羽織っているのも勉学も運動もその為で。
 宇賀野から与えられた"頼られている"という安心に縋っていただけなのだと。
 俺はいつも、自身のためにしか生きちゃいないのだと――ッ!

「……空鴉」
「テメェが思う程俺は良い奴なんかじゃないんだ。やめとけ、黒歴史にしかならねぇよ……」

 遠くで響く雑踏が嫌に耳に響いて。隣の教室の時計の秒針は無限に止まったままでいるようで。
 吐き出したエゴの断片が、いつまでも残響しているようだった。やがて苦しげに吐き出された宇賀野ため息が時を動かす。

「そっか。だーめだったかー……結構、いけると思ってたんだけどな」

 彼女が後ろに二歩下がって、いつもの距離。きっとこれが俺達の適正距離だった。けれどもう一歩下がって、彼女は寂しげに笑う。

「私の姿は、空鴉の眼には映ってなかったんだね。私だけが舞い上がって、楽しくって……ゴメンね、変な事言っちゃって」

 そしてもう一歩、一歩。距離が離れていく。その度に鼓動が冷めて、どうしようもない悔恨が押し寄せてくる。
 だけど、俺は間違った選択はしていないはずだ。はず、だ。 なのにどうしてそんな顔をするんだよ、冗談だって言ってくれよ。

「きっと空鴉は私にはわからない何かを、傷を抱えてるんだよね。悔しいな、何で気がつけなかったんだろう。それなりに話してたつもりなのにな……」

 どうしてだ、どうして離れていくんだよ。違う、そんなに遠い距離じゃないだろ。もっと気楽で、馬鹿みたいなやり取りを出来るような――。
――依存。
 
「待ってくれ……違う、違うんだ。そういう意味では――」


 今更弁明か? ハッ――宇賀野は傷付いただろうな?
 クソッタレなエゴイストめ、テメェなんか世界から見捨てられて海の底にでも消えちまえばいいんだよ。
 つーか"みっともねぇ関係性"に気が付いた途端手放したくねぇってか?


――このクソ野郎がッ!!!!


「きっと空鴉にはパートナーが必要なのに、私はそれにはなれないんだね。気がつけなかったから。ああ、悲しい、な……」

 右手が宙を彷徨(さまよ)って。こんな時になっても、ただ駆け寄って引き止めることすら出来ないでいて。
 宇賀野が遠のいて行く。彼女はいつも、俺に近付いて来てくれたというのに、この足は崩れ落ちることすら出来ずにいて。
 
「また、明後日。ごめんね」
「宇賀野――」

 やっとのことで名前を絞り出した時にはもう、遅すぎた。走り去る後ろ姿は廊下の角に消えて、足音も遠のいて行く。
 どうしようもない喪失感は幻だ。俺は手に入れた気でいて、故に傲慢(ごうまん)過ぎたのだ。
 不変の関係性なんてある訳はないのに、いつまでもぬるま湯に浸かっていることを願っていた。故に宇賀野の想いに気がつけずに、最低に踏みにじったのだ。
――最低最悪の恋愛未満譚が一つ、終わりを迎えた。

「無様ね。だけど――許せないわ、まるで自分を見ているみたいで、嗚呼、虫唾が走るッ!」

――その声は、図書室から聞こえてきた。
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