第13話  弁護士交替

文字数 3,316文字

 まだ三〇代前半と思しき若い女性弁護士の刈谷は、達也が三年前に訪れたときの相談内容をメモしたファイルを手に打合せ室に入ってきた。
 達也はあのときに相談に訪れた後、花沢弁護士を代理人として離婚訴訟に踏み切ったこと、そして現在、家裁における母子関係優先の裁判進行により形勢がまったく不利な状況に追い込まれていることを手短に伝えると、刈谷は同情した表情を浮かべた。
 たしか、三年前の刈谷は、
「娘さんが四歳では、訴訟を起こしても親権者は母親ですね。小学校に入るまで待ったらどうですか?」
 今、思えば適切な助言を与えてくれていたことを思い出した。達也は結果的に刈谷の忠告を生かさなかったことが現在の窮地を招いていることを恥じながらも、気を取り直して自分の考えを述べてみる。
「家庭裁判所からは妻を親権者として和解に応じることを迫られていますが、それでは訴訟の目的が達せられないばかりか、長女の将来も危ういものになってしまうと考えています。」
 達也は生活能力のないエリカが,和解で決めた養育費以外の金銭援助を求めてくるのは想像に難くないこと、また麻奈美との面接交渉を約束してもその履行に強制力はなく反故にされてしまえばそれまでであることなど、冷静にまとめた考えを明かしたところ、刈谷もまったく同意見のようであった。
 そのうえで、もし刈谷が即時抗告申立ての代理人を引き受けるのであれば、同業者の仁義として事前に花沢に断りを入れる必要があると達也に言った。
 前回の控告審で主張を全面的に認めてくれた高裁判決に持ち込めれば、勝機はあるかもしれない。達也は、経験や力量という点では未知数ではあるが、少なくとも依頼者の意向を無視するようなことはないと感じられるこの若い弁護士に賭けてみたいとの思いを強くする。

 その頃、家裁では和解条件を詰めるための話し合いの場が設定されていた。宮本の配下のような存在である高木裁判官は、達也が和解に応じてくるものとの前提で打合せに臨んでくることは間違いなく、それを考えると気が重かった。
 そして迎えた当日の審理室、達也が一転して和解には応じられない意向を伝えると案の定、高木はあの手この手で半ば脅しも交えながら説得にかかった。そこには裁判官としての品位などどこにも見出すことができないような、えげつないものであった。
「提示されている和解金や養育費は、相手側がかなり譲歩した金額だと思いますが、裁判所の審判になれば、こんなものではすみませんよ。あなたの老後の生活はどうするのですか?」
 こんな恫喝まがいの説得に屈して麻奈美の将来が台無しにされてたまるか。達也は怒りを押し殺して高木の言葉を聞き流していた。執拗な説得は一時間以上にも及んだが、達也は、麻奈美の福祉が確実に担保されない限り和解には応じられないとの意志を貫いた。

 そしてまた暦が替わり、2011年の新春を迎えた。正月気分など味わうこともなかった達也に呼び出しが掛かり、まだ松飾りも取れない1月6日、家庭裁判所に赴いた。暮れの高木による和解説得失敗を受けて、上席である宮本が再度、説得を試みるつもりなのであろうか。
 宮本は達也を見据え、切り出した。
「報告書で述べられているとおり、麻奈美ちゃんの精神的混乱を避けるためにも親権者は母親のエリカさんに指定されるべきだと思いますが、達也さんはどうお考えですか?」
 同席していた国井調査官が補足する。
「麻奈美ちゃんの年齢ではお母さんと引き離すことはできませんが、エリカさんが外国人であること、ほかに世話をしてくれる身内が誰もいないことを考えれば、学校のことなどでお父さんのサポートも必要だと考えています。」
 どうやら家庭裁判所は、監護養育体制には不安が残ることを承知のうえでエリカに親権を与え、その不安な部分をサポート役として達也に補ってもらおうという魂胆のようだ。これならば、差し戻した高等裁判所に対する申し開きは十分に立つ。
 この懐柔策に対して達也は、
「母親と引き離される一時的な精神的混乱よりも、その先続く長い将来を考えてあげることの方が長女の福祉に適っているのではないでしょうか?
 そのためには、経済的な面も含めて、麻奈美の育っていく安定した生活環境が何よりも重要だと思っています。そして、そのことこそが、私が親権者であるべきと考える最大の理由です。」
と答え、更に、
「家庭裁判所での離婚調停や裁判の結果、数多くの母子家庭が生まれいるようですが、その一方ではひとり親家庭における子どもの貧困が大きな社会問題となっているようですね。
 一体、ここでは、離婚後の生活状況を追跡調査するなどの検証を行ったことがあるのですか?」
 この皮肉ともとれる達也の問いに、宮本は同席していた花沢弁護士に視線を移し、
「もし和解を拒否した場合、当裁判所の審判がどのようなものになるかはお分かりですよね?」
と質した。
「その点については依頼者にも話したのですが、どうもオール・オア・ナッシングという考えのようです。」
 花沢はこの事案でこれ以上争っても、結果は目に見えていると諦めたような口ぶりである。そして、急ぎの用件があるのでと席を立ち、そそくさと帰って行った。ほかの多くの事案でも裁判所を常に仕事場としなければならない弁護士が、裁判官を敵に回すようなことは避けておきたいと考えるのは当然か、と思うしかなかった。
 花沢が部屋を出ると、
「達也さんはもう還暦を過ぎていらっしゃるということですから、麻奈美ちゃんから見ればおじいちゃんのような年齢ですよね。麻奈美ちゃんに会えなくなれば寂しいのではないですか?」
 宮本はとりなすように語りかけてきた。暗に、和解を拒否すれば麻奈美との面会もままならなくなるとブラフをかけてきたのであろうか。
 達也は、裁判官に対する心証をますます悪くすることになると思いつつも、
「しかしこの国の司法の判断の結果そうなったのだとしたら、麻奈美にもそれが運命だったとあきらめてもらうしかありません。」
絞り出すように答えた。
 また、達也が訴訟の核心部分と考えてきたエリカの借金癖についても、宮本は、
「エリカさんの借金は家庭用品の購入や英語教材のクレジット契約のためであり、浪費のためとはいえないのではないですか?」
「しかし、高裁ではまったく異なる事実認定をしていたはずですが。」
と達也が食い下がっても、
「高裁も困ったものだわね」
 驚くことに、抗告審における高裁の判断を見下すかのような口ぶりである。聞き取りは一時間半にも及んだが、宮本はこれ以上説得しても達也が和解に応じることはないと諦めたのか、
「では次回、裁判所として監護者指定の審判をいたします」
と締めくくった。
 裁判官がそう告げた以上、そう時間をかけないで審判を下すことになるのだろう。焦燥感に駆られた達也は、直ちに新たな代理人として心に決めていた刈谷弁護士に会うべく連絡を取る。
 翌日、達也は刈谷の事務所を訪れ、改めて前日の家裁でのやり取りの様子を詳しく説明した。
「間もなく家裁の審判が下されると思いまが、二週間以内に即時抗告をしなければ監護者が母親に確定してしまいます。
 ついては、先生に抗告審から先の代理をお願いしたい。私がこれから争うべき相手は家庭裁判所の偏向性そのものです。」
達也は、明確に意思を伝えた。
 二月中にも監護者が確定してしまえば、エリカは別居に関して裁判所のお墨付きを得たことになり、麻奈美の入学する小学校も別居先の住所地で決める事ができる。
代理人の金谷も、その機を逃さず別居の準備を進めるようにとエリカを急き立てるに違いない。一旦、入学する小学校が決まってしまえばそれを覆すのは更に難しくなる。
 事態がひっ迫していることを理解した刈谷は応じた。
「解りました。正式な委任契約を交わしたらすぐ取りかかれるよう、あらかじめすべての資料を準備しておいてください。」
 達也はこの弁護士に賭けてみるしかないと決めていた。そこまでやってもだめなら、諦めるしかあるまい。
 麻奈美も自分で物事を考えることができる年齢になれば、父親のしたことを必ず解ってくれるだろう。

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