文字数 850文字

 懐かしい声が、ふいに聞こえた。

「さっきはごめん」

 小さな街の、小さな喫茶店の、一番奥の窓際の席。

 この街は、あたしが学生時代を過ごした街だった。
 仕事の都合で、久しぶりに来た。
 最近新しく仕事を頼み始めた個人デザイン事務所が、この街にある。打ち合わせのためだった。
 懐かしさに、仕事が終わったあと、ちょっとぶらぶらしていくことにした。
 会社には直帰を報告してあったので、時間の心配もない。
 友達と一緒に当時よくうろついていた駅前の商店街を歩いていると、見慣れた店が、まだ残っていた。
 安いコーヒーを出す、小さな喫茶店。
 学生の財布にはありがたい店で、飲み物が目的じゃなく、他愛ないお喋りをするために、よく利用させてもらってた。
 あれをまた味わうのも悪くない、と、思わずドアを開けてしまった。
 上に取りつけた年季の入ったベルが、もう摩耗しきっているのか、ぼんやりとした音を立てる。
 よく座っていた、お馴染みの席。
 今日も、そこに座ることにした。
 コーヒーを頼み、窓の外を見ながら待つ。
 外を通る人は、ほとんどが若い。
 この街の、私も通っていた学校はアート系の大学だから、課題のためらしい大荷物を持った子や、楽器の箱を抱えた子なんかも、かなりの確率で通り過ぎる。
 そういえば、あたしもそうだった。
 油絵をやってたから、展示会の季節が来ると、よく大っきなキャンパスを入れた袋を持って、ウロウロしたりしてたな。
 今から思えば、まるで、毎日が祝祭日みたいだった。
 そんなノスタルジーに浸ってると、注文したコーヒーが来た。
 お世辞にも高級な風味がするとは言えない、でも妙に安心感のある素朴な味が、昔のままだったのが妙に嬉しい。
 それをゆっくり飲んでいるときに、その声が聞こえたのだった。

「さっきはごめん」

 忘れられない、少しざらつきのある、低いけど不思議と通る声。
 タケルの声だ。
 学生時代の、彼氏。
 ちょうどあたしの真後ろのボックス席に座ったカップルがいたんだけど、どうやら、男のほうがタケルだったみたいだ。


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