第9話 風呂桶

文字数 781文字

 少々昔のこと、山の奥の温泉場に男が一人で訪れた。寂れた温泉で他に客はいないかと思えた。
 だが、男が風呂場に行くと二つ並んだ湯船の一つに男が首まで浸かっていた。
「おや、先客が居るとは思いませんでした。失礼」
 男が言うと湯船の男は笑いながら言った。
「気にしなさんな、ここの湯は気分がいいぜ、ゆっくり浸かりな」
 言われるまま男は隣の空いている湯船に浸かった。温泉はかなり熱いが心地良かった。
 すると隣の男は、色々と話しかけてきて、気がつくと気さくに自分もあれこれ話をしていた。
 よもやま話は尽きる事なく、湯船に浸かったまま男はかなりの時間を過ごしていた。
 はっと気付くと、視界が揺らいでいた。
 これは湯あたりしたと感じ男が立ち上がった。すると隣の男が挑発的な口調で言った。
「もうあがるのかい、短い風呂だな」
 もし男が短気であったらむか腹たてて意地を張りもう一度湯船に入ったかもしれない。
 だが、湯あたりの他になんとも言えぬ違和感を感じ始めていた男は手を振りながら脱衣所に向かい、そこで倒れた。
 消えて行く意識の中で誰かの舌打ちを聞いた気がした。
 やがて、宿の主人が男を見つけ慌てて介抱した。
「お客さん大丈夫ですか? どうされました?」
 男は意識を取り戻し答えた。
「隣の湯船の客と話し込み過ぎて湯に当たった。どうにもしてやられた気がする。二つある湯船の片方はぬるいんじゃないか?」
 すると主人がきょとんとした顔で答えた。
「うちの宿に湯船は一つしかありませんよ」
「そんなはず無いだろう!」
 なんとか起き上がった男が風呂場の引き戸をガラッと開くと、そこには湯船が一つあるばかり。
 湯船の隣には、ただ古ぼけた桶が一個転がっているだけであった…
 気のせいか、一瞬だけその桶が笑ったように男には見えた。そう、あの話し込んだ男の顔で。
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