夫失格。

文字数 917文字

 ──この独白を訊いている紳士淑女の諸君。
 どうか懺悔させて欲しい。この(いきどお)りを訊いてもらえぬうちは、私は眠りにつくことは未来永劫、叶わないだろう。

 私は妻に手をあげたのだ。
 そう、愛する妻に爪を突き立てて、夫としての誇りを捨て去ったのだ──。ああっ!私はなんということを!

 しかし、どうか言い訳をさせて欲しい。
 妻が食卓にキャットフードを並べさえしなければ、私も妻に手をあげたりはしなかったのだ──。

 どうか想像して欲しい。
 食卓の前で腹を空かせながら、どんな食事が出てくるものかと、舌なめずりをしていると、

 目の前に『高級キャットフード』と書かれた缶詰が置かれたではないか! 驚いた私が妻の顔を見ると──妻は私を見下(みくだ)しながら、静かに微笑んだのだ。私は(こら)えきれずに、妻に手をあげてしまった。勿論重々(もちろんじゅうじゅう)理解しているつもりだ。私は許されざる者だ。このような間違いは断じてあってはならないことなのだ。

 ──それにしても、妻は何故あんなものを私に差し出したのだろうか。

 妻が仕事に出掛けている間、私が毎日のように、家で留守番をしているから?

 もしかしたら、私が隣の家にあがり込んでは、あちらの奥さんと寝室のベットでいちゃつきあっていることに勘づいてしまったのだろうか。いやいや、そうとは限らん。

 しかし、理由がどうであれ私は夫である。
 彼女の夫であり、この家の(あるじ)なのだ。

 どんな理由であろうとも、私は二度と妻に手をあげたりはしないと心の底で誓いを立てて、深い眠りにつくことにした──。

 ─そして翌日の夕飯時(ゆうめしどき)

「さあ、召し上がれ」

 妻はまたしても、私の目の前にキャットフードを置いてしまった。駄目だ。私は彼女の夫なのだ。決して、決して、彼女に手をあげることだけは、それだけはっ! しかし、しかし、我慢ならん!

「ほうら、オットちゃん。“お手”!」
「まあーお!」

 にもかかわらず、私は屈んだ妻の手にまた『お手』をしてしまったのだ──。『高級キャットフード』の誘惑に抗えずに、夫としての威厳を全て捨てて、またしても妻に手をあげてしまった。

 ──私は、夫失格(おっとしっかく)だ。

 でもキャットフードを食べている間だけは一匹の猫である。私は夫である前に猫なのだ。

(了)




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