第25話 製薬業の特徴
文字数 2,705文字
世津奈は5分ほど、ポケベルで近江医師と連絡を取り合ってから、慧子に向かって微笑んでみせた。
慧子と宝生は、パソコンの前に並んで、医薬品企業の情報集めに取り組む。
技術と需要と供給、それに国の政策が複雑にからみあっている。
クスリ候補の化学物質のうち、厚労省に認可されてクスリとして売れるのは26,000分の1と書いてあります。ほとんど、マグレ当たりですよ。
【注】「26,000分の1」は、有機化学合成でつくる「低分子医薬品」(2000年代前半までのクスリのほとんど)の場合。『てきすとぶっく』P10
1990年代後半からバイオエンジニアリングでつくる「バイオ医薬品」が登場して2010年代後半には「ブロックバスター」の座を「低分子医薬品」から奪うようになる。
〈基礎研究⇒非臨床研究⇒3段階の臨床研究⇒厚労省の承認〉というプロセスに9年から16年かかるみたいね。ずいぶん気の長いビジネスだわ。
基礎研究から厚労省の承認を受けるまでに費用が数百億円かかるというネット情報もありました。承認される確率は低い、費用はかかる。これで、どうして、ビジネスとして成り立つのでしょう?
成り立たせる仕組みがあるのよ。誰もクスリを作る気がなくなったら、困るでしょ。まず、特許権による保護。製薬企業は、厚労省からクスリとして認定される前に特許を取って独占権を確保する。
新製品が特許権で保護されるのは、他の工業製品も同じっすよ。
クスリには、特許期間の特例適用がある。クスリは、特許を取った後に厚労省の承認も得ないと、販売できない。他の工業製品と同じ特許期間ではクスリにとって不利だから、特別な運用をしている。
なるほど。特許の運用で製薬業がビジネスとして成り立たつように工夫しているのですね。
製薬がビジネスとして成り立つ上で、もっと大きな役割を果たしているものがある。
薬の販売価格は厚労省が決めるの。これを薬価基準というのだけど、製薬企業が一定の利益を確保できる水準に設定されているの。
なるほど。新薬開発は膨大な時間と費用がかかる割に成功率が低い。厚労省はそのことを認識して、製薬業がビジネスとして成り立つ仕組みを用意しているのですね。
だから、厚労省の承認を受けることが出来れば、クスリから得られる儲けは大きい。
えっ、クスリって、そんなに高かったすか? ボクが病院でもらう胃腸薬とか風邪薬は、街のドラッグストアで買うよりずっと安いっすよ。
それは、病院で処方してもらうと薬価基準の3割で買えるからよ。日本には国民皆保険制度があって、処方されたクスリの場合、個人は薬価基準の3割しか負担していない。
残りの7割は健康保険組合が払ってくれるわけですね。
そのとおり。退職した高齢者については、現役勤労者の健康保険組合から補助金を出し、さらに国・自治体も補助している。現役世代が高齢者を支える。年金制度と同じ仕組みね。
ちょっと待ってください。新しいクスリが特許を取る時に、技術の中身が公開されます。特許期間が切れたとたんに、ライバルが同じクスリを出してきませんか?
その通り。特許期間中のクスリを「新薬」と言う。これに対して、特許切れの「新薬」と同じ有効成分を持ったクスリをジェネリックと言う。
厚労省はジェネリックには、「新薬」と同じ薬価基準はつけないですよね。ジェネリックは、もとの「新薬」ほど開発に時間とお金をかけていないし、開発失敗のリスクも取っていません。
その通り。厚労省は、「ジェネリック」には基になった「新薬」のおよそ半値くらいの薬価基準を設定するみたいよ。
だけど、それだと、ジェネリックが出てきたとたんに、元の新薬は売れなくなっちゃいませんか?
ええ。特許が切れジェネリックと競争になって売り上げと利益が急降下することを、「パテントクリフ」と呼ぶ。
クリフ、崖ですね。特許が切れたとたん、崖から転落するみたいに売り上げと利益が落ちる。う~ん、シビアなビジネスですね。
和倉さんが働いていた創生ファーマの場合、2010年前後に売れ筋の3商品の特許が次々切れて、「パテントクリフ」に見舞われたみたい。
でも、いずれジェネリックと競争になるとはいっても、「新薬」は、特許が切れるまでの間ものすごい勢いで売れるらしい。それは、そうよね。今までのクスリにはない効き目があるから、特許がとれ厚労省も新しいクスリとして認可してくれるのだから。
患者さんもお医者さんも、「新薬」にはすっごく期待しますよね。
売上高が年間1,000億円を超える「新薬」もあって、「ブロックバスター」と言われるのだけど、「新薬」開発力のある製薬企業は「ブロックバスター」を次々出し続けることを狙っている。
今の「ブロックバスター」の特許が切れるまでに、次の「ブロックバスター」を送り出そうとするわけですね。
そういう「ブロックバスター」狙いの業界で、創生ファーマは企業規模のわりに「新薬」の開発力がないと言われている。
創生ファーマの経営陣が和倉さんが開発していた抗マラリア新薬の開発を中止させたのは、抗マラリア薬は「ブロックバスター」にはならないと判断したからですね。和倉さんが開発中だった抗マラリア薬は、従来の抗マラリア薬よりはるかに安価に提供できるものだと、「『顧みられない熱帯病』と闘う会」の人たちが言っていました。
でも、現地の需要は大きい。薄利多売で儲けられる可能性があるし、社会貢献として会社の評価にもつながると思うのだけど。
経営陣は「ブロックバスター」の成功体験に縛られているから、安価に提供できる抗マラリア薬には目もくれない。そういうわけですね。
「医は算術」という言葉があるけど、「クスリも算術」なのね。
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