第25話 製薬業の特徴

文字数 2,705文字

世津奈は5分ほど、ポケベルで近江医師と連絡を取り合ってから、慧子に向かって微笑んでみせた。
手配完了です。和倉さんも1時間後には合流します。
では、私たちの情報武装に取りかかりましょう。
慧子と宝生は、パソコンの前に並んで、医薬品企業の情報集めに取り組む。
クスリの世界って、面白いっすね。
技術と需要と供給、それに国の政策が複雑にからみあっている。
世津奈が、パソコンで開いた 日本製薬工業会『てきすとぶっく2018-2019』http://www.jpma.or.jp/about/issue/gratis/tekisutobook/pdf/2018_2019.pdf

に目をこらす。

クスリ候補の化学物質のうち、厚労省に認可されてクスリとして売れるのは26,000分の1と書いてあります。ほとんど、マグレ当たりですよ。
【注】

「26,000分の1」は、有機化学合成でつくる「低分子医薬品」(2000年代前半までのクスリのほとんど)の場合。『てきすとぶっく』P10

1990年代後半からバイオエンジニアリングでつくる「バイオ医薬品」が登場して2010年代後半には「ブロックバスター」の座を「低分子医薬品」から奪うようになる。

〈基礎研究⇒非臨床研究⇒3段階の臨床研究⇒厚労省の承認〉というプロセスに9年から16年かかるみたいね。ずいぶん気の長いビジネスだわ。
基礎研究から厚労省の承認を受けるまでに費用が数百億円かかるというネット情報もありました。承認される確率は低い、費用はかかる。これで、どうして、ビジネスとして成り立つのでしょう?
成り立たせる仕組みがあるのよ。誰もクスリを作る気がなくなったら、困るでしょ。

まず、特許権による保護。製薬企業は、厚労省からクスリとして認定される前に特許を取って独占権を確保する。

新製品が特許権で保護されるのは、他の工業製品も同じっすよ。
クスリには、特許期間の特例適用がある。クスリは、特許を取った後に厚労省の承認も得ないと、販売できない。他の工業製品と同じ特許期間ではクスリにとって不利だから、特別な運用をしている。
なるほど。特許の運用で製薬業がビジネスとして成り立たつように工夫しているのですね。
製薬がビジネスとして成り立つ上で、もっと大きな役割を果たしているものがある。
それって、なんすか?
薬の販売価格は厚労省が決めるの。これを薬価基準というのだけど、製薬企業が一定の利益を確保できる水準に設定されているの。
なるほど。新薬開発は膨大な時間と費用がかかる割に成功率が低い。厚労省はそのことを認識して、製薬業がビジネスとして成り立つ仕組みを用意しているのですね。
だから、厚労省の承認を受けることが出来れば、クスリから得られる儲けは大きい。
えっ、クスリって、そんなに高かったすか? ボクが病院でもらう胃腸薬とか風邪薬は、街のドラッグストアで買うよりずっと安いっすよ。
それは、病院で処方してもらうと薬価基準の3割で買えるからよ。日本には国民皆保険制度があって、処方されたクスリの場合、個人は薬価基準の3割しか負担していない。
残りの7割は健康保険組合が払ってくれるわけですね。
そのとおり。退職した高齢者については、現役勤労者の健康保険組合から補助金を出し、さらに国・自治体も補助している。現役世代が高齢者を支える。年金制度と同じ仕組みね。
ちょっと待ってください。新しいクスリが特許を取る時に、技術の中身が公開されます。特許期間が切れたとたんに、ライバルが同じクスリを出してきませんか? 
その通り。特許期間中のクスリを「新薬」と言う。これに対して、特許切れの「新薬」と同じ有効成分を持ったクスリをジェネリックと言う。
厚労省はジェネリックには、「新薬」と同じ薬価基準はつけないですよね。ジェネリックは、もとの「新薬」ほど開発に時間とお金をかけていないし、開発失敗のリスクも取っていません。
その通り。厚労省は、「ジェネリック」には基になった「新薬」のおよそ半値くらいの薬価基準を設定するみたいよ。
だけど、それだと、ジェネリックが出てきたとたんに、元の新薬は売れなくなっちゃいませんか?
ええ。特許が切れジェネリックと競争になって売り上げと利益が急降下することを、「パテントクリフ」と呼ぶ。
クリフ、崖ですね。特許が切れたとたん、崖から転落するみたいに売り上げと利益が落ちる。う~ん、シビアなビジネスですね。
和倉さんが働いていた創生ファーマの場合、2010年前後に売れ筋の3商品の特許が次々切れて、「パテントクリフ」に見舞われたみたい。
なるほど、それで手元に眠ってる素材でスピーディに「新薬」を開発しようと考えて、AIを使ったDR(ドラッグリポジショニング)を専門にする企業を買収したんすね。


創生ファーマによるDR専門企業の買収については以下をご参照ください。

第3話 臓器密売業者?

https://novel.daysneo.com/works/episode/761b2cf60b7c500986ec6b216856dc8d.html

でも、いずれジェネリックと競争になるとはいっても、「新薬」は、特許が切れるまでの間ものすごい勢いで売れるらしい。それは、そうよね。今までのクスリにはない効き目があるから、特許がとれ厚労省も新しいクスリとして認可してくれるのだから。
患者さんもお医者さんも、「新薬」にはすっごく期待しますよね。
売上高が年間1,000億円を超える「新薬」もあって、「ブロックバスター」と言われるのだけど、「新薬」開発力のある製薬企業は「ブロックバスター」を次々出し続けることを狙っている。
今の「ブロックバスター」の特許が切れるまでに、次の「ブロックバスター」を送り出そうとするわけですね。
そういう「ブロックバスター」狙いの業界で、創生ファーマは企業規模のわりに「新薬」の開発力がないと言われている。
創生ファーマの経営陣が和倉さんが開発していた抗マラリア新薬の開発を中止させたのは、抗マラリア薬は「ブロックバスター」にはならないと判断したからですね。和倉さんが開発中だった抗マラリア薬は、従来の抗マラリア薬よりはるかに安価に提供できるものだと、「『顧みられない熱帯病』と闘う会」の人たちが言っていました。
でも、現地の需要は大きい。薄利多売で儲けられる可能性があるし、社会貢献として会社の評価にもつながると思うのだけど。

経営陣は「ブロックバスター」の成功体験に縛られているから、安価に提供できる抗マラリア薬には目もくれない。そういうわけですね。

「医は算術」という言葉があるけど、「クスリも算術」なのね。
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登場人物紹介

山科 アオイ  17歳


アメリカ国防総省が日本に設置した秘密研究所で放電能力を持つ生体兵器に改造された少女。

秘密研究所を脱出した後、国家や企業から命を狙われる個人を保護するグループ「シェルター」に拾われ、「シェルター」が保護している人々のボディガードとなる。

山科アオイは、国防総省から逃れた後に名乗っている偽名。本名は、道明寺サクラ。


《放電能力》


※非接触放電  有効射程 20メートル

・単独のターゲットに致死的な電流を浴びせる設計だったが、アオイを暗殺兵器にしたくなかったレノックス慧子が故意に改造手術をミスしたため、致死量の放電はできない。

・設計にはなかった複数のターゲットを同時に攻撃する能力が発現している。


※接触放電  対象と身体を接して放電し対象を金縛りにする事ができる。


レノックス 慧子/アオイの相棒  37歳


元は、アメリカ国防総省で特殊兵器を開発する技術者だった。

日本人の両親の間に生まれたが、両親が離婚し母がアメリカ人と結婚したため、レノックス姓を名乗っている。


慧子を含む5人を「放電型生体兵器」に改造した。そのうち4名は職業軍人で改造されることを志願した者たちだったので、設計どおり致死能力を持たせた。

しかし、国防総省に拉致された民間人であるアオイに対しては、設計上求められていた致死能力を与えなかった。このため、アオイは一度も暗殺兵器として利用されていない。

アオイが秘密研究所を脱出するのを助け、後に自らも国防総省を離脱してアオイに合流して、2人で「シェルター」のボディガード役を務めている。

M 年齢不明


「シェルター」内でのアオイと慧子の「世話役」。アオイ達と「シェルター」の関係を調整する。

「シェルター」は組織に追われる個人をかくまうが反撃はしない非抵抗主義を貫いていたが、強力な戦闘力を持つアオイが加わっったため、一定限度の自衛力を持つ方向に転換した。

しかし、アオイ達の活動と「シェルター」本来の非抵抗・非暴力主義との関係は微妙で、Mは、常に難しい舵取りを求められる。

元はロボット工学の権威で、現在でも、アオイと慧子に様々な偵察・攻撃用の超小型ロボットを提供している。

宝生 世津奈(ホウショウ セツナ) 35歳


産業スパイ狩りを専門の調査会社「京橋テクノサービス」の調査員。

以前は、警視庁生活案全部生活経済課で営業秘密侵害事案を扱っていた。


ITとクルマに弱く、この方面では相棒のコータローに頼りっきり。


ホワっと穏やかだが、腹が据わっていて、必要とあれば銃を取って闘うこともためらわない。

コータロー(本名:菊村幸太郎) 27歳


調査員。宝生世津奈の相棒。

一流大学の博士課程(専攻は数理経済学)で学んでいたが、アカデミック・ハラスメントにあって退学。2年間の引きこもりを経て、親戚の手で「京橋テクノサービス」に押し込まれる。

頭脳明晰で、IT全般に強い。空手の達人で運転の腕も一流。


アカハラの後遺症で「ヘタレ」の傾向がある一方、自分が納得しさえすれば身の危険をいとわない勇敢さも持ち合わせている。

和倉 良一  35歳


日本有数の製薬会社、創生ファーマの研究員。

創成メディカルは、公には人工的に合成した臓器を新薬開発に用いているとしているが、実は、実は手術患者から摘出した臓器を用いていた事を知り、会社を内部告発する決意をする。その直後に、何者かかに命を狙われ、「シェルター」に助けを求めてくる。

アオイと慧子の警護対象者。

近江 正一 50歳


産業スパイ専門の調査会社「京橋テクノサービス」の付属救急センターで働く外科医。NGO「国境を越えた医師団」の一員として紛争地の野戦病院経験が長く、腕は確か。ただ、スピードを重んじるあまり、仕上げが荒い傾向がある。

頭に傷を負ったアオイを会社に秘密で応急処置した後、知人の外科医、川辺憲一にゆだねる。

川辺 憲一 28歳


若き天才外科医。大学病院の医局で起こったある事件が原因で病院を追われた上に医師免許も剥奪された。しかし、本人は、「運転免許のような更新制度のない医師免許は、終身免許だ」とうそぶき、闇で医師稼業を続けている。近江医師とは、長年の知り合い。

イケメンかつ女性大好き男で、彼の自宅兼マンションには女性の出入りが絶えない。一方で、公私を厳しく分ける潔癖さも示す。

佐伯 達彦 47歳


警察庁生活案全部の特命係長。階級は警視正。

総理大臣のイスを狙う野心家で、警察庁警備部に強いライバル意識を持っている。

人間を組織内の位置づけでしか評価できない男。警察を辞めた世津奈を警察時代の階級で呼び続けて、世津奈を鼻白ませる。

ただし、世津奈の粘りと度胸は評価している。

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