第四章
文字数 7,107文字
さて、場面は再び第2章と同じ下宿の部屋だ。そして全く同じ登場人物が集っている。
「これを使え、ウィリアム」
男爵がフロックコートのポケットから胡椒の瓶を取り出し、ウィリアムに手渡した。
「なぜ、こんなものを?」
「これしか思いあたらんからな」
確かにその通りだ。ウィリアムは胡椒瓶の蓋を開けた。
男爵が慌てて鼻を塞ぐ。一方、二人の足元にいるアーサー・ロビンはきょとんと見上げたままだ。
「アーサー・ロビンくん、では失礼」
ウィリアムはさっと手を振り、胡椒の瓶からははらはらと粉が舞った。
「くしゃん、くしゃん!」
たちまちアーサー・ロビンは鼻じわを寄せ、目をぎゅっと瞑ってくしゃみを始める。一回するごとに四つ足でそのままぴょんと跳び上がり、シッポを振る。腹這いになって前脚で鼻を擦り、耳を寝かせる。
やがてくしゃみの発作は収まり……アーサー・ロビンはふせの姿勢でウィリアムを見上げた。姿は元の狼のまま。
「だ……だめだ!」
ウィリアムは絶望の悲鳴を上げる。
「ううむ……子供と大人では反応が違うのだな」
男爵も失望の唸りを漏らす。
狼のままのアーサー・ロビンを見つめ、ウィリアムは悲痛な声で呻いた。
「どうしよう、どうやったら元の人間に戻れるんだろう」
男爵はもちろんウィリアムとセックスすることで戻れるが、子供のアーサー・ロビンではそうはいかないだろう。それ以外の方法はまるで解らない。
(もしこのままずっと狼でいなくてはならないとしたら!)
背筋が冷たくなって、ウィリアムは男爵を見上げた。
「僕のせいです! どうしよう、僕のせいだ、どうしたらアーサー・ロビンを元に戻せるんだ……」
頭の中が真っ白になって、ウィリアムは辺りを見回す。
「そうだ、すぐスコットランドへ行きましょう、あなたの城の文献を全部調べれば何とか方法が解るかもっ、早く、男爵、今すぐにっ」
顔をゆがめて叫ぶウィリアムの腕をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はがしっと掴んだ。
「ウィリアム!」
「早く、男爵、早く!」
「ウィリアム、しっかりしろ」
揺さぶられ、はっとウィリアムは男爵を見上げた。
「落ち着け、ウィリアム、お前のせいなんかではない、俺たちの一族の宿命なのだ。命がなくなったわけではない、ゆっくり元に戻す方法を考えよう」
男爵の力強い励ましに、ウィリアムはそれでも首を横に振った。
(そうじゃない、僕が……あなたを愛してしまったから……)
男爵を想って泣いたりしなければ。
(……アーサー・ロビン君がこうなったのは)
あの時、アーサー・ロビンが心配して部屋に入ってこなければ。つまりはウィリアムが泣いたりしなければ。ウィリアムが男爵を愛さなければ。平民のくせに、そして男のくせに、身の程知らずにも男爵を愛したりしなければ。
ウィリアムは男爵の腕を振り払い、床にぺたんと座り込む。俯いてぽろぽろと大粒の涙を流した。
(みんな僕が悪い……)
男爵は困った顔になって、ウィリアムの肩を優しく叩く。
「ウィリアム、泣くな」
そんなことを言われても涙は途切れない。どころかかえってつらい。
(そんなに優しくしないで……)
ぎゅっと目を閉じて泣いていると、膝に温かなものが乗った。
「え……」
ぼんやりとした視界の中、仔狼のアーサー・ロビンが両前脚をウィリアムの膝にかけ、こちらを眺めている。くうんくんと鼻を鳴らしながら、ウィリアムの顔をぺろぺろと舐め始めた。
「アーサー・ロビンくん、君も心配してくれているのかい?」
ウィルが呟いた瞬間。ざらざらとしたなま温かなものが、ウィリアムの舌に触れた。
「おおっ」
男爵が低く叫ぶ。
「ああっ」
ウィリアムも目を丸くする。
栗色の小さな身体からどんどん毛がなくなっていき……尖った鼻は引っ込み、三角の耳は角が丸くなって縮んでいき……。
「僕はいったい……」
可愛い桜色の唇から漏れたのは人間の言葉だった。
シャツのボタンを留めると、アーサー・ロビンはソファに腰掛けた。そして目の前のアームチェアに座っている男爵をじっと見る。何度も首を横に振った。
「信じられない、僕たちが人狼だなんて」
男爵は足を組み替えると、「うそを言ってもはじまらん。お前も経験したではないか」と吠えた。
「ええ、確かにこの身体で……」
アーサー・ロビンは感慨深げに今はつるつるの自分の手をじっと見た。
隣に立っていたウィリアムは心配になって、「大丈夫かい、アーサー・ロビンくん」と呼びかける。アーサー・ロビンはウィリアムの顔を見てにっこりした。
「はい、ウィリアムさん、僕、結構楽しかったです、狼に変身して」
「ええっ、あんな危険な目に遭ったのに?」
アーサー・ロビンはこっくりうなずく。
「だって、決して経験できないことを経験しましたから。面白い場所に行ったし、野良犬たちと友達になったし、ライオンも間近で見られたし」
(ハンター家の変わり者の血はアーサー・ロビンくんにも流れているのかも……)
唖然とするウィリアムを後目に、男爵も大声で笑う。
「その通りだ、アーサー・ロビンよ、狼に変身すると野生の血が騒ぐ。俺さまもな、羊の首にがぶっと……」
それ以上言わないように、慌ててウィリアムは唇に指を当て、男爵にサインを送る。男爵ははっと気が付いて、ごほごほと咳をした。
「ま、まあ、たまに変身するのも楽しいってことだ、アーサー・ロビンよ」
アーサー・ロビンは首を傾げる。
「それにしても……なぜここまで誰にも知られなかったのでしょうか、もう十九世紀だというのに」
「ハンター家の紋章を知っているか。『月を支配せよ』とある。間違って変身しないよう気を配り、それによってご先祖様たちは世間に知られずにやってきたのだ。狼男などと知られたら、捕まえられて殺されてしまっただろうからな」
アーサー・ロビンは大きく頷いた。
「つまりハンター家の掟ですね」
男爵はじっとアーサー・ロビンを見据える。
「ああ。いずれはお前がハンター家を継ぐことになるのだからな。今回はウィリアムの接吻で変身したが、今後は月に気をつけろ。満月の晩は特に。今までは変身しなかったが、一度変身したらくせになっていとも簡単なことで変身するとも限らぬ」
男爵、スコットランドでの経験からの発言である。
「月だけですか?」
いいや、と男爵は首を横に振る。
「俺さまの場合、丸く光るもので変身することが出来る」
「ええっ、丸く光るもの?」
たとえば、と男爵は上着から手鏡を取り出した。
「ウィリアム、ランプをつけろ」
いきなり振られ、ウィリアムは慌てた。
「ええっ、男爵、ここで変身なさるのですか?」
おうよ、と男爵は頷く。
「アーサー・ロビンには身をもって教えなければな。これからの人生に重要なことだ」
仕方なくウィリアムはランプに火をつけた。
男爵は手鏡にその光を受ける、そして手鏡をじっと見つめ……。
見ていたアーサー・ロビンは目を丸くした。
床には今まで着ていたフロックコートやズボンが散乱している。
そして服の真ん中から灰色の毛皮を着た獣がむっくりと現れた。
「伯父さま……」
呆然とするアーサー・ロビンにジョン・ウルフ狼は近づき、手を優しく舐めた。
「伯父さまだ!」
アーサー・ロビンはソファから立ち上がると狼の首にすがりつく。
「どんな姿でも伯父さまだ!」
「その通りだよ、アーサー・ロビンくん」
ウィリアムも近づいてアーサー・ロビンの肩を優しく抱く。
「どんな姿でも愛する人は解るんだよ……」
そう、たとえ狼でも。
感動的な瞬間が過ぎ、ふとアーサー・ロビンは狼の首から顔を上げる。
「ところで伯父さまはどうやって人間に返るのですか?」
「うっ」
ウィリアムは慌ててアーサー・ロビンの肩から手を離すと、ごほんごほんと咳をした。
「アーサー・ロビンくん、と、とりあえず帰ったほうがいい、母上も心配していると思うよ」
「そうですね」
アーサー・ロビンは嬉しそうな顔になった。
「この姿なら帰れます! お茶の時間には間に合わなかったけれど」
グッドタイミングでとんとんと扉がノックされた。
ヘンリーの白髪交じりの頭が現れる。
「おぼっちゃま、さあ馬車へ」
ぱちんと片目を瞑ったヘンリーがアーサー・ロビンを連れて行くのを見ながら、ウィリアムはほうとため息をつく。扉が閉まるとジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵を振り返った。
これからウィリアムはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵を人間に戻すための行為を行わなければならない。それは今までは厭わしく思えたものだったが、今や愛を自覚してからはさらにつらい行為となっている。
だって、男爵にとっては単なる手段。ウィリアムにとっては好きな人との愛の行為。
そして、男爵と今日お見合いをした相手の女性との間では、それは神聖な愛の儀式になるのだろう。男爵が結婚すれば。いや、するに違いないのだし。
「でもいいんだ。人間に返るためだけだとしても」
男爵が結婚しても、もし狼になってしまったときは、きっと自分の元へやってくるだろう。そして自分を抱くだろう……人間に戻るために。
「それだけでいい……僕はもう……」
ウィリアムは大きな舌を垂らしてはあはあと息を付いている狼のそばに近づくと、頭を撫でた。
「男爵、どうか僕の身体を使ってください」
そしてゆっくりと服を脱いでいく。最後の一枚が床に落ちた途端。
「うほほーっ」
脳天気な咆吼ともにウィリアムは床に押し倒された。まだ灰色の毛にみっしりと被われている身体に組み敷かれる。大きなシッポがぱたぱた床を叩くのが聞こえる。
「がはは、ウィリアム、さあ、いただくぞ」
ぐいぐいと太い杭が侵入してくる。懐かしい太いものをウィリアムは全身で受け止める。太いもの、太いもの、僕を埋めて……僕を満たして……僕を貫いて……僕を抉って……そう、もっと……。
揺さぶられ、突き上げられ、しだかれてウィリアムは想う。愛してる、愛してる、と……。
男爵のほうは上機嫌で腰をぐりぐり回し、ぺろぺろとウィリアムの首筋や額を舐め回す。唇を吸い、舌を差し込み、がははと笑う。
「驚いたぞ、ちびのアーサー・ロビンが狼になったと聞いたときには。しかしあれではまだ子犬だな、はっはっは」
相変わらず脳天気な男爵なのだった。
涙をこらえ抱かれているウィリアムに気づかず、「今日はずいぶんとおとなしいな」と顔をのぞき込む。
「よくないのか?」
そんなことを聞かれたのは初めてで、ウィリアムは真っ赤になって「いいえ」と返事してしまった。
「そうか、それならいい」
またがははと笑うと、腰をぐいと回した。
「ほうれ、どうだ、ウィリアム、俺さまの太いあれはいいだろう?」
(この人ったら……)
よく言えば天真爛漫かも知れない、とウィリアムは思い、笑みを浮かべた。
(いいんだ、この人が好き……どんな性格でも……)
男爵はまた「おおっ、いいんだな?」と勘違いし、再び腰を突き上げる。
「ほうれ、何度でもやってやるぞ、ウィリアム!」
動きは激しくなり、ウィリアムは男爵の肩にしがみつく。
「おいて、いかない、でっ、い、かないでっ」
男爵はウィリアムの腰を抱え上げると、自分の膝に乗せ、さらに揺する。
「おいてなどいくものか、ウィリアム、一緒に行くのだ!」
下から突き上げられ、左右に捻られ、柔らかな肉がもっと柔らかくなって、やがてとろけていく。とろとろになってあの窄んだところから流れ出そうで……ああ、もうこらえきれなくて……。
「でる、で、るっ」
必死で締め付けると、男爵の咆吼が耳元で上がる。
「おうっ、締まるぞ、いいっ、ウィリアムっ」
その瞬間、爆発した……。
ウィリアムは熱い胸に抱かれていた。懐かしい匂いが自分を包んでいる。
充足した時間。自分のすべてが埋め尽くされたと感じる時間だ。
ただ一つ、心を除いて。
ぽっかりと空いた心は何で埋めればいいのだろう……。
ウィリアムは必死で涙をこらえる。
さっき、これでいいと思ったじゃないか。身体が埋められればいいって。心はなくてもそれでいいって。それしかないんだから。
硬く心を決めると、ウィリアムは男爵を見上げた。
「男爵、申し訳ありませんでした」
男爵はちょっと驚いた顔になると、ウィリアムの頬をぷりっと摘む。
「いや、ちょうどよかった。いつかはアーサー・ロビンも自分が狼の血を引いていることを知らなくてはいけないからな」
そしてウィリアムの目をじっとのぞき込む。
「月夜の晩でなく、お前と一緒の時でよかった。ま、お前と口づけするなんて変身の方法は気にいらんがな」
男爵の瞳は金色に燃えている。高貴にして情熱の色、あの行為の時には特別に美しく輝いて、焼き尽くされそうに感じてしまう……。
ウィリアムは胸が苦しくなって目をそらす。そして低い声で言った。
「そうではなくて……あの、あなたのお見合いを邪魔してしまって……せっかくの……」
すると男爵は胸の中からウィリアムを押しやった。むくりと起きあがると、床に散らばった服をかき集める。腰を床に下ろしたまま黙って服を着始めた。広い背中にまずは下着がつけられ、それから白いシャツで被われ……次はズボンだ。そして男爵は足を左右順繰りに高く上げ、靴下をはいた。
沈黙があたりを支配し、ウィリアムは広い背中を見つめたまま、横たわっていた。血液が全部流れ出したかのように体中が冷たくなっていく。
(男爵は怒っているんだ……僕が見合いを邪魔したと……)
ぎゅっと唇を噛み、嗚咽をこらえていると、ふいに肩ごしに男爵が振り返った。高い鼻、端正な横顔がウィリアムの視界に入る。
「ええとだな、ウィリアム」
男爵は低い声で言った。
「見合いはしたが、結婚はしない」
(え?)
なんて言った? ウィリアムは耳をそばだてた。
「その、だな。うるさいばあさんがいてな。断るのも面倒だから会っただけだ。さっき、アーサー・ロビンに言ったろう? ハンター家を継ぐのはお前だと。俺さまは誰とも結婚はしない」
目の前がぱあっと明るくなり、ウィリアムは飛び起きる。そして後ろから男爵にしがみついた。広く、温かな背中に頬を寄せ、全身で体温を感じ取る。
するといきなり男爵の胸に抱き取られ、床に押し倒された。がははと大笑いする顔が近づいてくる。
「どうした? まだ俺さまのあれが欲しいのか? 可愛い奴だ、ほら、もう一度入れてやろう」
あっと言う間にまた後ろに太いものが入ってくる。熱くてドクンドクンと脈打つそれは、さっきよりも太いくらいだ。
「あうっ、ふと……いっ」
「当たり前だ、俺さまのは太いのだ、がははははは」
男爵は腰をぐいぐいと突き上げた。
「がははは、ウィリアム、お前も好きだなあ! ほうれ、ほうれ、もっとやるぞ!」
(この人ったら……)
熱い涙がウィリアムの瞼を押し広げたが、それは悦びの涙だった。男爵は舌でウィリアムの涙を掬い取る。
「おう、ウィリアム、泣くほどいいか、可愛い奴、がははははは」
(そうじゃないけど……)
でもいい、なにも言わないでおこう。だって。
(言えない、あなたを愛しているなんて……)
男爵の独善もたまにはいいかも知れない。ウィリアムは微笑んで瞼を閉じた。
さて、ここでハッピーエンドといきたいところですが。
このあとで二人が交わした睦言、というか会話をお教えしましょう。
ウィル「男爵、ところでよく公園に僕たちがいると解りましたね」
男爵「う……まあなあ。いいではないか」
ここでヘンリー登場。
ヘンリー「ウィリアムさま、実はご主人さまはあれから狼に変身し、野良犬たちに聞こうとしたのです」
ウィル「ええっ」
男爵「あの少年に聞かずとも、俺さまが変身すれば犬と会話が出来るからな。で、そうこうしているうちに、ほれ、町中の犬が吠え始めただろう? 公園で何かが起こったと解ったのだ」
ウィル「あれ? だって、男爵、ちゃんと人間の姿でいらっしゃってたじゃないですか……ということは……そうか、僕に渡したあの胡椒の瓶は!」
ヘンリー「そういうことです、ウィリアムさま、ご主人さまは胡椒をお嗅ぎになり、いそいで人間の姿に戻られたのです」
ウィル「ええっ! ひどい、男爵っ、じゃあ、今だって胡椒で人間の姿に戻れば良かったじゃないですかっ」
男爵「う、そりゃあそうだが……お前の方から服を脱いだではないか、だから俺さまは……それにお前だって俺さまのあれを悦んだろう、しかも泣くほどに、な」
ウィル「あ~ん、ひどいっ、僕はあんなに悩んでいたのにっ、ヘンリーさあんっ」
と、ここらで止めておきましょうか、男爵の立場がどんどん悪くなりそうですしね。
最後に一言。
ジョージ・ディップディン・ビットはその後、ライオンの檻に投げ込まれた子犬の話をみんなに話して聞かせ(もちろんたいそう脚色され、嘘とホントが混じったバージョンで)、しばらく注目の的になったとのことです。もちろん教会のボランティアをサボったこともお咎め無しだったそうですよ。
(END)
「これを使え、ウィリアム」
男爵がフロックコートのポケットから胡椒の瓶を取り出し、ウィリアムに手渡した。
「なぜ、こんなものを?」
「これしか思いあたらんからな」
確かにその通りだ。ウィリアムは胡椒瓶の蓋を開けた。
男爵が慌てて鼻を塞ぐ。一方、二人の足元にいるアーサー・ロビンはきょとんと見上げたままだ。
「アーサー・ロビンくん、では失礼」
ウィリアムはさっと手を振り、胡椒の瓶からははらはらと粉が舞った。
「くしゃん、くしゃん!」
たちまちアーサー・ロビンは鼻じわを寄せ、目をぎゅっと瞑ってくしゃみを始める。一回するごとに四つ足でそのままぴょんと跳び上がり、シッポを振る。腹這いになって前脚で鼻を擦り、耳を寝かせる。
やがてくしゃみの発作は収まり……アーサー・ロビンはふせの姿勢でウィリアムを見上げた。姿は元の狼のまま。
「だ……だめだ!」
ウィリアムは絶望の悲鳴を上げる。
「ううむ……子供と大人では反応が違うのだな」
男爵も失望の唸りを漏らす。
狼のままのアーサー・ロビンを見つめ、ウィリアムは悲痛な声で呻いた。
「どうしよう、どうやったら元の人間に戻れるんだろう」
男爵はもちろんウィリアムとセックスすることで戻れるが、子供のアーサー・ロビンではそうはいかないだろう。それ以外の方法はまるで解らない。
(もしこのままずっと狼でいなくてはならないとしたら!)
背筋が冷たくなって、ウィリアムは男爵を見上げた。
「僕のせいです! どうしよう、僕のせいだ、どうしたらアーサー・ロビンを元に戻せるんだ……」
頭の中が真っ白になって、ウィリアムは辺りを見回す。
「そうだ、すぐスコットランドへ行きましょう、あなたの城の文献を全部調べれば何とか方法が解るかもっ、早く、男爵、今すぐにっ」
顔をゆがめて叫ぶウィリアムの腕をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はがしっと掴んだ。
「ウィリアム!」
「早く、男爵、早く!」
「ウィリアム、しっかりしろ」
揺さぶられ、はっとウィリアムは男爵を見上げた。
「落ち着け、ウィリアム、お前のせいなんかではない、俺たちの一族の宿命なのだ。命がなくなったわけではない、ゆっくり元に戻す方法を考えよう」
男爵の力強い励ましに、ウィリアムはそれでも首を横に振った。
(そうじゃない、僕が……あなたを愛してしまったから……)
男爵を想って泣いたりしなければ。
(……アーサー・ロビン君がこうなったのは)
あの時、アーサー・ロビンが心配して部屋に入ってこなければ。つまりはウィリアムが泣いたりしなければ。ウィリアムが男爵を愛さなければ。平民のくせに、そして男のくせに、身の程知らずにも男爵を愛したりしなければ。
ウィリアムは男爵の腕を振り払い、床にぺたんと座り込む。俯いてぽろぽろと大粒の涙を流した。
(みんな僕が悪い……)
男爵は困った顔になって、ウィリアムの肩を優しく叩く。
「ウィリアム、泣くな」
そんなことを言われても涙は途切れない。どころかかえってつらい。
(そんなに優しくしないで……)
ぎゅっと目を閉じて泣いていると、膝に温かなものが乗った。
「え……」
ぼんやりとした視界の中、仔狼のアーサー・ロビンが両前脚をウィリアムの膝にかけ、こちらを眺めている。くうんくんと鼻を鳴らしながら、ウィリアムの顔をぺろぺろと舐め始めた。
「アーサー・ロビンくん、君も心配してくれているのかい?」
ウィルが呟いた瞬間。ざらざらとしたなま温かなものが、ウィリアムの舌に触れた。
「おおっ」
男爵が低く叫ぶ。
「ああっ」
ウィリアムも目を丸くする。
栗色の小さな身体からどんどん毛がなくなっていき……尖った鼻は引っ込み、三角の耳は角が丸くなって縮んでいき……。
「僕はいったい……」
可愛い桜色の唇から漏れたのは人間の言葉だった。
シャツのボタンを留めると、アーサー・ロビンはソファに腰掛けた。そして目の前のアームチェアに座っている男爵をじっと見る。何度も首を横に振った。
「信じられない、僕たちが人狼だなんて」
男爵は足を組み替えると、「うそを言ってもはじまらん。お前も経験したではないか」と吠えた。
「ええ、確かにこの身体で……」
アーサー・ロビンは感慨深げに今はつるつるの自分の手をじっと見た。
隣に立っていたウィリアムは心配になって、「大丈夫かい、アーサー・ロビンくん」と呼びかける。アーサー・ロビンはウィリアムの顔を見てにっこりした。
「はい、ウィリアムさん、僕、結構楽しかったです、狼に変身して」
「ええっ、あんな危険な目に遭ったのに?」
アーサー・ロビンはこっくりうなずく。
「だって、決して経験できないことを経験しましたから。面白い場所に行ったし、野良犬たちと友達になったし、ライオンも間近で見られたし」
(ハンター家の変わり者の血はアーサー・ロビンくんにも流れているのかも……)
唖然とするウィリアムを後目に、男爵も大声で笑う。
「その通りだ、アーサー・ロビンよ、狼に変身すると野生の血が騒ぐ。俺さまもな、羊の首にがぶっと……」
それ以上言わないように、慌ててウィリアムは唇に指を当て、男爵にサインを送る。男爵ははっと気が付いて、ごほごほと咳をした。
「ま、まあ、たまに変身するのも楽しいってことだ、アーサー・ロビンよ」
アーサー・ロビンは首を傾げる。
「それにしても……なぜここまで誰にも知られなかったのでしょうか、もう十九世紀だというのに」
「ハンター家の紋章を知っているか。『月を支配せよ』とある。間違って変身しないよう気を配り、それによってご先祖様たちは世間に知られずにやってきたのだ。狼男などと知られたら、捕まえられて殺されてしまっただろうからな」
アーサー・ロビンは大きく頷いた。
「つまりハンター家の掟ですね」
男爵はじっとアーサー・ロビンを見据える。
「ああ。いずれはお前がハンター家を継ぐことになるのだからな。今回はウィリアムの接吻で変身したが、今後は月に気をつけろ。満月の晩は特に。今までは変身しなかったが、一度変身したらくせになっていとも簡単なことで変身するとも限らぬ」
男爵、スコットランドでの経験からの発言である。
「月だけですか?」
いいや、と男爵は首を横に振る。
「俺さまの場合、丸く光るもので変身することが出来る」
「ええっ、丸く光るもの?」
たとえば、と男爵は上着から手鏡を取り出した。
「ウィリアム、ランプをつけろ」
いきなり振られ、ウィリアムは慌てた。
「ええっ、男爵、ここで変身なさるのですか?」
おうよ、と男爵は頷く。
「アーサー・ロビンには身をもって教えなければな。これからの人生に重要なことだ」
仕方なくウィリアムはランプに火をつけた。
男爵は手鏡にその光を受ける、そして手鏡をじっと見つめ……。
見ていたアーサー・ロビンは目を丸くした。
床には今まで着ていたフロックコートやズボンが散乱している。
そして服の真ん中から灰色の毛皮を着た獣がむっくりと現れた。
「伯父さま……」
呆然とするアーサー・ロビンにジョン・ウルフ狼は近づき、手を優しく舐めた。
「伯父さまだ!」
アーサー・ロビンはソファから立ち上がると狼の首にすがりつく。
「どんな姿でも伯父さまだ!」
「その通りだよ、アーサー・ロビンくん」
ウィリアムも近づいてアーサー・ロビンの肩を優しく抱く。
「どんな姿でも愛する人は解るんだよ……」
そう、たとえ狼でも。
感動的な瞬間が過ぎ、ふとアーサー・ロビンは狼の首から顔を上げる。
「ところで伯父さまはどうやって人間に返るのですか?」
「うっ」
ウィリアムは慌ててアーサー・ロビンの肩から手を離すと、ごほんごほんと咳をした。
「アーサー・ロビンくん、と、とりあえず帰ったほうがいい、母上も心配していると思うよ」
「そうですね」
アーサー・ロビンは嬉しそうな顔になった。
「この姿なら帰れます! お茶の時間には間に合わなかったけれど」
グッドタイミングでとんとんと扉がノックされた。
ヘンリーの白髪交じりの頭が現れる。
「おぼっちゃま、さあ馬車へ」
ぱちんと片目を瞑ったヘンリーがアーサー・ロビンを連れて行くのを見ながら、ウィリアムはほうとため息をつく。扉が閉まるとジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵を振り返った。
これからウィリアムはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵を人間に戻すための行為を行わなければならない。それは今までは厭わしく思えたものだったが、今や愛を自覚してからはさらにつらい行為となっている。
だって、男爵にとっては単なる手段。ウィリアムにとっては好きな人との愛の行為。
そして、男爵と今日お見合いをした相手の女性との間では、それは神聖な愛の儀式になるのだろう。男爵が結婚すれば。いや、するに違いないのだし。
「でもいいんだ。人間に返るためだけだとしても」
男爵が結婚しても、もし狼になってしまったときは、きっと自分の元へやってくるだろう。そして自分を抱くだろう……人間に戻るために。
「それだけでいい……僕はもう……」
ウィリアムは大きな舌を垂らしてはあはあと息を付いている狼のそばに近づくと、頭を撫でた。
「男爵、どうか僕の身体を使ってください」
そしてゆっくりと服を脱いでいく。最後の一枚が床に落ちた途端。
「うほほーっ」
脳天気な咆吼ともにウィリアムは床に押し倒された。まだ灰色の毛にみっしりと被われている身体に組み敷かれる。大きなシッポがぱたぱた床を叩くのが聞こえる。
「がはは、ウィリアム、さあ、いただくぞ」
ぐいぐいと太い杭が侵入してくる。懐かしい太いものをウィリアムは全身で受け止める。太いもの、太いもの、僕を埋めて……僕を満たして……僕を貫いて……僕を抉って……そう、もっと……。
揺さぶられ、突き上げられ、しだかれてウィリアムは想う。愛してる、愛してる、と……。
男爵のほうは上機嫌で腰をぐりぐり回し、ぺろぺろとウィリアムの首筋や額を舐め回す。唇を吸い、舌を差し込み、がははと笑う。
「驚いたぞ、ちびのアーサー・ロビンが狼になったと聞いたときには。しかしあれではまだ子犬だな、はっはっは」
相変わらず脳天気な男爵なのだった。
涙をこらえ抱かれているウィリアムに気づかず、「今日はずいぶんとおとなしいな」と顔をのぞき込む。
「よくないのか?」
そんなことを聞かれたのは初めてで、ウィリアムは真っ赤になって「いいえ」と返事してしまった。
「そうか、それならいい」
またがははと笑うと、腰をぐいと回した。
「ほうれ、どうだ、ウィリアム、俺さまの太いあれはいいだろう?」
(この人ったら……)
よく言えば天真爛漫かも知れない、とウィリアムは思い、笑みを浮かべた。
(いいんだ、この人が好き……どんな性格でも……)
男爵はまた「おおっ、いいんだな?」と勘違いし、再び腰を突き上げる。
「ほうれ、何度でもやってやるぞ、ウィリアム!」
動きは激しくなり、ウィリアムは男爵の肩にしがみつく。
「おいて、いかない、でっ、い、かないでっ」
男爵はウィリアムの腰を抱え上げると、自分の膝に乗せ、さらに揺する。
「おいてなどいくものか、ウィリアム、一緒に行くのだ!」
下から突き上げられ、左右に捻られ、柔らかな肉がもっと柔らかくなって、やがてとろけていく。とろとろになってあの窄んだところから流れ出そうで……ああ、もうこらえきれなくて……。
「でる、で、るっ」
必死で締め付けると、男爵の咆吼が耳元で上がる。
「おうっ、締まるぞ、いいっ、ウィリアムっ」
その瞬間、爆発した……。
ウィリアムは熱い胸に抱かれていた。懐かしい匂いが自分を包んでいる。
充足した時間。自分のすべてが埋め尽くされたと感じる時間だ。
ただ一つ、心を除いて。
ぽっかりと空いた心は何で埋めればいいのだろう……。
ウィリアムは必死で涙をこらえる。
さっき、これでいいと思ったじゃないか。身体が埋められればいいって。心はなくてもそれでいいって。それしかないんだから。
硬く心を決めると、ウィリアムは男爵を見上げた。
「男爵、申し訳ありませんでした」
男爵はちょっと驚いた顔になると、ウィリアムの頬をぷりっと摘む。
「いや、ちょうどよかった。いつかはアーサー・ロビンも自分が狼の血を引いていることを知らなくてはいけないからな」
そしてウィリアムの目をじっとのぞき込む。
「月夜の晩でなく、お前と一緒の時でよかった。ま、お前と口づけするなんて変身の方法は気にいらんがな」
男爵の瞳は金色に燃えている。高貴にして情熱の色、あの行為の時には特別に美しく輝いて、焼き尽くされそうに感じてしまう……。
ウィリアムは胸が苦しくなって目をそらす。そして低い声で言った。
「そうではなくて……あの、あなたのお見合いを邪魔してしまって……せっかくの……」
すると男爵は胸の中からウィリアムを押しやった。むくりと起きあがると、床に散らばった服をかき集める。腰を床に下ろしたまま黙って服を着始めた。広い背中にまずは下着がつけられ、それから白いシャツで被われ……次はズボンだ。そして男爵は足を左右順繰りに高く上げ、靴下をはいた。
沈黙があたりを支配し、ウィリアムは広い背中を見つめたまま、横たわっていた。血液が全部流れ出したかのように体中が冷たくなっていく。
(男爵は怒っているんだ……僕が見合いを邪魔したと……)
ぎゅっと唇を噛み、嗚咽をこらえていると、ふいに肩ごしに男爵が振り返った。高い鼻、端正な横顔がウィリアムの視界に入る。
「ええとだな、ウィリアム」
男爵は低い声で言った。
「見合いはしたが、結婚はしない」
(え?)
なんて言った? ウィリアムは耳をそばだてた。
「その、だな。うるさいばあさんがいてな。断るのも面倒だから会っただけだ。さっき、アーサー・ロビンに言ったろう? ハンター家を継ぐのはお前だと。俺さまは誰とも結婚はしない」
目の前がぱあっと明るくなり、ウィリアムは飛び起きる。そして後ろから男爵にしがみついた。広く、温かな背中に頬を寄せ、全身で体温を感じ取る。
するといきなり男爵の胸に抱き取られ、床に押し倒された。がははと大笑いする顔が近づいてくる。
「どうした? まだ俺さまのあれが欲しいのか? 可愛い奴だ、ほら、もう一度入れてやろう」
あっと言う間にまた後ろに太いものが入ってくる。熱くてドクンドクンと脈打つそれは、さっきよりも太いくらいだ。
「あうっ、ふと……いっ」
「当たり前だ、俺さまのは太いのだ、がははははは」
男爵は腰をぐいぐいと突き上げた。
「がははは、ウィリアム、お前も好きだなあ! ほうれ、ほうれ、もっとやるぞ!」
(この人ったら……)
熱い涙がウィリアムの瞼を押し広げたが、それは悦びの涙だった。男爵は舌でウィリアムの涙を掬い取る。
「おう、ウィリアム、泣くほどいいか、可愛い奴、がははははは」
(そうじゃないけど……)
でもいい、なにも言わないでおこう。だって。
(言えない、あなたを愛しているなんて……)
男爵の独善もたまにはいいかも知れない。ウィリアムは微笑んで瞼を閉じた。
さて、ここでハッピーエンドといきたいところですが。
このあとで二人が交わした睦言、というか会話をお教えしましょう。
ウィル「男爵、ところでよく公園に僕たちがいると解りましたね」
男爵「う……まあなあ。いいではないか」
ここでヘンリー登場。
ヘンリー「ウィリアムさま、実はご主人さまはあれから狼に変身し、野良犬たちに聞こうとしたのです」
ウィル「ええっ」
男爵「あの少年に聞かずとも、俺さまが変身すれば犬と会話が出来るからな。で、そうこうしているうちに、ほれ、町中の犬が吠え始めただろう? 公園で何かが起こったと解ったのだ」
ウィル「あれ? だって、男爵、ちゃんと人間の姿でいらっしゃってたじゃないですか……ということは……そうか、僕に渡したあの胡椒の瓶は!」
ヘンリー「そういうことです、ウィリアムさま、ご主人さまは胡椒をお嗅ぎになり、いそいで人間の姿に戻られたのです」
ウィル「ええっ! ひどい、男爵っ、じゃあ、今だって胡椒で人間の姿に戻れば良かったじゃないですかっ」
男爵「う、そりゃあそうだが……お前の方から服を脱いだではないか、だから俺さまは……それにお前だって俺さまのあれを悦んだろう、しかも泣くほどに、な」
ウィル「あ~ん、ひどいっ、僕はあんなに悩んでいたのにっ、ヘンリーさあんっ」
と、ここらで止めておきましょうか、男爵の立場がどんどん悪くなりそうですしね。
最後に一言。
ジョージ・ディップディン・ビットはその後、ライオンの檻に投げ込まれた子犬の話をみんなに話して聞かせ(もちろんたいそう脚色され、嘘とホントが混じったバージョンで)、しばらく注目の的になったとのことです。もちろん教会のボランティアをサボったこともお咎め無しだったそうですよ。
(END)