辻曲の一族 低速淑女

文字数 1,270文字


画像:@yasemintyan





「辻曲の家に生まれたからには、覚悟をしときんしゃい」
 小さい頃から言い聞かされてきたけれど、三十路になるまで何事もなかったので、自分は発症しない二割の側の人間だとばかり思っていた。
「なんか、遅くない?」
 友達と一緒に出かけた際、地下鉄のエスカレーターが遅すぎると言われたのだ。
「いつも通りでしょ」
 そう答えた瞬間、何が起きていたのか理解した。実家は田舎だったので、エスカレーターがなかった。つまり十八歳で上京して、初めてエスカレーターに乗ったときから、異変は起きていたのだ。ある日突然遅くなったのなら、私だって気付いただろう。だけど、エスカレーターはそういうものだと思い込んでいた。
 いや、おかしいと思う場面は何度かあった。よりによって都営大江戸線沿いに住んでしまったので、延々と長いエスカレーターのせいで、新宿駅の乗り換えに二十分もかかっていたのだ。「いくらなんでもさすがに変だ」と思うべきだった。
 とにかく、このまま放置していたら、生活に支障がでる。
「発症してしまったら、ここへ」と両親に渡されていた紙は、お守りの中に入れて大切にとってある。友達と出かけた翌日、お守りを開けると、なかの紙には地元の病院の名前と住所が電話番号が書かれていた。川沢医院という名の精神病院で、うちの一族はみんなそこにお世話になっている。精神科ならどこでもいいわけではなくて、川沢先生というお医者さんが、一族について特別詳しいそうだ。
 電話をすると「ああ、辻曲さんの」と、やけにあっさり話がついた。直近で予約を取って、すぐに看てもらうことにした。
 今までにも。遅いエスカレーターのせいで何度も機会を逃してきた。
 仕事終わりに飛び込んだビルの上の階にある映画館、ギリギリ間に合うと踏んでいたのに、スクリーンのある階にたどり着いたときには、予告編も終わって本編が始まっていた。
 デートの約束に遅れて気まずくなって、一日ずっと空回りしたことだってある。
 エスカレーターが遅くなるとわかっていたのに、今も乗り換えに失敗してしまった。地元へ戻るには、何度も電車を乗り継いでいかなければならない。乗り換えアプリが提示したものより、一本遅れた電車に乗った。病院の予約に遅れるわけにはいかない。
 気持ちばかり焦っても、電車がもっと真面目に走ってくれるわけじゃない。
「あっ」
 車内に衝撃が伝わって、ハッと現実に引き戻される。急停車したらしい。
 しばらく沈黙が続いたあと、先行する車両が事故を起こしたので、運手見合わせになるとアナウンスがあった。
 病院に遅れると連絡しようかと迷っていると、すぐ隣に乗っていた二人連れの乗客が、ニュースを調べ始めた。
「車両」「踏切」「自動車」「接触」「脱線」「不明」
 不吉な単語が次々と飛び込んでくる。
 もしエスカレーターが通常通り動いていたら、自分もその車両に乗っていたのだ。ふと思う。私の症例は、本当にエスカレーターが遅くなるだけだったのだろうか。今はただ、早く電車が動いてほしいと祈り続けることしかできなかった。
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