俺の正体は。
文字数 2,254文字
「……元気出しなさいよ、ホラ」
「ううぅ……だっで……」
夕方の公園でオレンジに染まるベンチに腰掛け、俺は男だというのにまるで女の子みたいにボロボロと涙を流し白咲に身を預けていた。白咲は俺の肩にそっと手を回し、子供みたいに泣きじゃくる自分の分身を抱き寄せ優しく慰めてくれた。彼女に片思いをしている数多の男子高校生なら、誰もが羨む最高のシチュエーションだ。だが今の俺に、この状況を満喫する余裕などなかった。何せ『俺』の正体は男子高校生どころか、俺ですらないかもしれないのだ。
「一体『俺』は誰なんだ……?」
止めどなく溢れてくる鼻水をすすりながら、俺は声を震わせた。
数時間前、俺の家を訪れた時現れたもう一人の俺に、俺は腰を抜かした。俺の母親に聞いてもも『その男』に聞いても、彼はずっと今まで黒田誠一郎として何も変わらない毎日を過ごしていたのだという。別に体が女の子になったとかそういう珍現象に見舞われることもなく、黒田誠一郎はちゃんと家で黒田誠一郎していたのだ。
男の誠一郎と、女の誠一郎。こうなってくると、俺の母親がどっちを信用するかは聞くまでもなかった。こうして昨日まで俺が過ごしていたはずの家は、現れたもう一人の偽者の俺に奪われてしまった。
……いや、この場合はもしかしたら、『俺』の方が偽者なのかもしれない。元々俺は冴えない男子高校生だ。『あっち』は男の体に、男の記憶を宿している。それに比べて『俺』の方は、記憶こそ俺のものだが、体は女の子になってしまっている。どっちが怪しさ満点かというと、そりゃ俺の方だった。自分の正体が分からなくなってしまった恐怖に、俺は肩を震わせた。
「……ややこしいわね。貴女は貴女でしょ」
「だっで……じゃあ俺は一体何処から来たんだよぉ……。もう一人の男の俺がちゃんと家にいだし、あっちが本体だとしだら俺は……」
「心配しなくても、お父さんとお母さんに話して私の家で暮らせるようにしてあげるから……」
「不躾な妹が増えたと思えばいいことですわ」
白咲の向こう側で、雅樹がため息をついた。二人の姉弟に慰められる俺を、散歩をしていたおじいちゃんと犬が物珍しそうな目で眺めていった。滲んだ景色の中で、俺はベンチの木目に大粒の雫を落とし、今一度大きく咽び泣いた。
「お前らに分かるもんか……今の俺のこの気持ちが……」
「分かるわけないでしょ。だって私は貴女じゃないもの」
「!」
白咲の冷たい声に、俺は顔を上げた。彼女は真顔で俺の目をじっと覗き込んだ。
「黒田君……何でか知らないけど、貴女は今私の体をしてる。でも『私』じゃない。黒田君の記憶を持ってる。でも黒田君ですら、ないかもしれない」
「…………」
「そのことを今、貴女はとても悲しんでいる。悲しんでる貴女が、今私の目の前にいるわ。私でも、男の黒田君でもない、貴女が」
「…………!」
「『我思う、故に我あり』、よ。貴女が今そう思っていることこそが、今の貴女の証明なの。だからもう、それ以上私の顔で悲しそうにごちゃごちゃ言うのは止めて」
「!」
見てらんないのよ、と白咲はそう言って目を逸らした。口調こそ冷たかったが、その向こうに彼女の静かな優しさを感じて、俺は胸の奥がかあっと熱くなった。
……少なくとも、彼女は今『俺』を見ていてくれてるのだ。男の心を持った黒田の偽者としてでもなく、女の肉体を持った白咲の偽者としてでもなく。自分を一人の人間として慰めようとしてくれている。その気持ちが今の俺には、とても嬉しかった。
「白咲……!」
感極まった俺は、そのまま彼女の豊満な胸に顔を埋めようとして、
「百万年早いのよ!」
向こう側から伸びて来た雅樹の右ストレートがクリーンヒットして、ベンチから転げ落ちた。
「油断も隙もありゃしない! この変態!」
「お……お前……! 筋力は男なんだから、少しは手加減しろ……!」
「黙らっしゃい。お姉様のおっぱいは、私だけのものなんだから」
「お前も十分変態じゃねえか……」
「はいはい。二人とも、もう帰るわよ」
鼻を撫りながら体を起こすと、白咲も立ち上がった。
「私、今度『あの』黒田君ともう一度会ってみるわ。そしたら貴女のことも、何か分かるかもしれない」
すっかり夕日が沈んでしまった公園で、三人の同じ顔が頷き合った。白咲オリジナルの右手に、雅樹が恋人のように仲睦まじく指を絡ませた。暗がりの道を俺が少し遅れて後ろを歩いていると、不意に白咲が立ち止まりすっと俺に左手を差し出した。
「……何遠慮してるの。ちゃんと繋いでおかないと、迷子になっても知らないわよ、雑用」
「………!」
それはどこか照れ隠しを含んだぶっきらぼうな言葉だったが、俺は慌てて彼女の左手を握り返した。手を繋いだ三人のシルエットが、明かりの灯った車道の脇を歩いていく。その影は三人とも同じようで、それぞれ少しずつ違って見えた。隣を歩きながら、俺はおずおずと彼女の顔を覗き込んだ。白咲は何故か右側が気になるらしく、左側にいる俺と決して目を合わせようとはしなかった。
……改めて、彼女を好きになってよかったと俺は思った。
そして俺は白咲の家に戻ると、彼女が部屋のベッドでくつろいでいる間にお風呂を洗って、夕食の準備を手伝い、洗濯物を干し宿題をこなし部屋を片付けゲームのレベル上げだけを手伝い猫に餌をやり毛づくろいをして、その日はぐっすり眠った。
「ううぅ……だっで……」
夕方の公園でオレンジに染まるベンチに腰掛け、俺は男だというのにまるで女の子みたいにボロボロと涙を流し白咲に身を預けていた。白咲は俺の肩にそっと手を回し、子供みたいに泣きじゃくる自分の分身を抱き寄せ優しく慰めてくれた。彼女に片思いをしている数多の男子高校生なら、誰もが羨む最高のシチュエーションだ。だが今の俺に、この状況を満喫する余裕などなかった。何せ『俺』の正体は男子高校生どころか、俺ですらないかもしれないのだ。
「一体『俺』は誰なんだ……?」
止めどなく溢れてくる鼻水をすすりながら、俺は声を震わせた。
数時間前、俺の家を訪れた時現れたもう一人の俺に、俺は腰を抜かした。俺の母親に聞いてもも『その男』に聞いても、彼はずっと今まで黒田誠一郎として何も変わらない毎日を過ごしていたのだという。別に体が女の子になったとかそういう珍現象に見舞われることもなく、黒田誠一郎はちゃんと家で黒田誠一郎していたのだ。
男の誠一郎と、女の誠一郎。こうなってくると、俺の母親がどっちを信用するかは聞くまでもなかった。こうして昨日まで俺が過ごしていたはずの家は、現れたもう一人の偽者の俺に奪われてしまった。
……いや、この場合はもしかしたら、『俺』の方が偽者なのかもしれない。元々俺は冴えない男子高校生だ。『あっち』は男の体に、男の記憶を宿している。それに比べて『俺』の方は、記憶こそ俺のものだが、体は女の子になってしまっている。どっちが怪しさ満点かというと、そりゃ俺の方だった。自分の正体が分からなくなってしまった恐怖に、俺は肩を震わせた。
「……ややこしいわね。貴女は貴女でしょ」
「だっで……じゃあ俺は一体何処から来たんだよぉ……。もう一人の男の俺がちゃんと家にいだし、あっちが本体だとしだら俺は……」
「心配しなくても、お父さんとお母さんに話して私の家で暮らせるようにしてあげるから……」
「不躾な妹が増えたと思えばいいことですわ」
白咲の向こう側で、雅樹がため息をついた。二人の姉弟に慰められる俺を、散歩をしていたおじいちゃんと犬が物珍しそうな目で眺めていった。滲んだ景色の中で、俺はベンチの木目に大粒の雫を落とし、今一度大きく咽び泣いた。
「お前らに分かるもんか……今の俺のこの気持ちが……」
「分かるわけないでしょ。だって私は貴女じゃないもの」
「!」
白咲の冷たい声に、俺は顔を上げた。彼女は真顔で俺の目をじっと覗き込んだ。
「黒田君……何でか知らないけど、貴女は今私の体をしてる。でも『私』じゃない。黒田君の記憶を持ってる。でも黒田君ですら、ないかもしれない」
「…………」
「そのことを今、貴女はとても悲しんでいる。悲しんでる貴女が、今私の目の前にいるわ。私でも、男の黒田君でもない、貴女が」
「…………!」
「『我思う、故に我あり』、よ。貴女が今そう思っていることこそが、今の貴女の証明なの。だからもう、それ以上私の顔で悲しそうにごちゃごちゃ言うのは止めて」
「!」
見てらんないのよ、と白咲はそう言って目を逸らした。口調こそ冷たかったが、その向こうに彼女の静かな優しさを感じて、俺は胸の奥がかあっと熱くなった。
……少なくとも、彼女は今『俺』を見ていてくれてるのだ。男の心を持った黒田の偽者としてでもなく、女の肉体を持った白咲の偽者としてでもなく。自分を一人の人間として慰めようとしてくれている。その気持ちが今の俺には、とても嬉しかった。
「白咲……!」
感極まった俺は、そのまま彼女の豊満な胸に顔を埋めようとして、
「百万年早いのよ!」
向こう側から伸びて来た雅樹の右ストレートがクリーンヒットして、ベンチから転げ落ちた。
「油断も隙もありゃしない! この変態!」
「お……お前……! 筋力は男なんだから、少しは手加減しろ……!」
「黙らっしゃい。お姉様のおっぱいは、私だけのものなんだから」
「お前も十分変態じゃねえか……」
「はいはい。二人とも、もう帰るわよ」
鼻を撫りながら体を起こすと、白咲も立ち上がった。
「私、今度『あの』黒田君ともう一度会ってみるわ。そしたら貴女のことも、何か分かるかもしれない」
すっかり夕日が沈んでしまった公園で、三人の同じ顔が頷き合った。白咲オリジナルの右手に、雅樹が恋人のように仲睦まじく指を絡ませた。暗がりの道を俺が少し遅れて後ろを歩いていると、不意に白咲が立ち止まりすっと俺に左手を差し出した。
「……何遠慮してるの。ちゃんと繋いでおかないと、迷子になっても知らないわよ、雑用」
「………!」
それはどこか照れ隠しを含んだぶっきらぼうな言葉だったが、俺は慌てて彼女の左手を握り返した。手を繋いだ三人のシルエットが、明かりの灯った車道の脇を歩いていく。その影は三人とも同じようで、それぞれ少しずつ違って見えた。隣を歩きながら、俺はおずおずと彼女の顔を覗き込んだ。白咲は何故か右側が気になるらしく、左側にいる俺と決して目を合わせようとはしなかった。
……改めて、彼女を好きになってよかったと俺は思った。
そして俺は白咲の家に戻ると、彼女が部屋のベッドでくつろいでいる間にお風呂を洗って、夕食の準備を手伝い、洗濯物を干し宿題をこなし部屋を片付けゲームのレベル上げだけを手伝い猫に餌をやり毛づくろいをして、その日はぐっすり眠った。